19
つい数十分前にヒールの底で鳴らしたばかりのコンクリートを今度は二人分の足音で鳴らして、私は自分の部屋の前まで戻ってきていた。まさかマンションを出てすぐ会うとは思っていなかった驚きのおかけで、逆に普段通りに話せてはいるけど、気合いを入れた意味はなかったなあ…。
私の提案にぴしりと固まった降谷は、それでも流石と言うべきだろう、「女性の部屋に入るなんてできないよ」とすぐに安室くんの笑顔を作って拒否して見せた。ほとんど定型文なのできっと、降谷でも同じようなことを言ったとは思うけれど。それでも、人目につく場所で私と対する彼はいつでも安室くんである。私はそこにつけ込んだ。
正確には安室くんがつけ込まれてくれた、という表現になるのだろうけれど、結果として私は安室くんの手を引いてマンションの中へと逆戻りすることに成功した。
降谷が外では温厚な安室くんを演じるしかない以上、「いいから」と多少強引に手首を掴んでしまえば彼はその眉を下げはしても、振り払うことも、困ったような笑みを崩すこともできなかった。
「随分強引だね」
「そうかな」
エレベーターの中での会話はそれだけ。まるで監視カメラを警戒しているような、よそ行きの振る舞いなままである。
返事は濁したものの、強引にここまで引っ張って来た自覚はあった。不自然に会話が途切れてしんとなったエレベーター内の空気にやっぱり怒ったかなあと隣に佇むその顔を伺い見るも、長めの蜂蜜色に表情は隠れてしまっていた。
その疑問は、私の部屋の前に辿り着く頃に解消される。
「正気か」
やっぱり怒っていた。鞄の中から鍵を取り出す私の後ろで、降谷が明らかに普段よりもワントーン低い声を放つ。再会してから初めて聞いた不機嫌そうな声は、記憶よりも威圧感が増していた。
「…まあ……」
「昔馴染みだからって、俺は男だよ」
「分かってます」
続けられた言葉に鍵を手にした指先がぴくりと跳ねる。
一人暮らしの女の部屋に男を招き入れようとする行為は、自らを差し出すのとさして変わらない意味を持つものだという暗黙といえど周知の事実が存在する。男女関係に於いての常識には個人差があるように思うけれど、付き合ってもいない男女間でそのやりとりを交わすことはきっと降谷と私、お互いの中の常識からは外れた行動だろう。何をされたって文句は言えない。だから降谷が怒るのも分かる。
それでも、ここで正気かと怒るような男がなにかの情に流れて欲任せの行動に出るとは考えられないのが本当のところだ。
「本当に?」
「本当」
もう安室くんである必要のないらしい男は、不満げな様子を隠す素振りもなく食い下がる。
私はといえば、もうあとは鍵を開けるだけとなった我が家を目の前にして、何を食べるか考える方に考えが偏りつつあった。昨日の夜食べたほうれん草のお浸しとポテトサラダはまだ残っているし、あとは冷凍してあるお肉を使えば何か一品は出来そうである。降谷が食べるかは微妙なところなので、それによって一品付け足すかどうかは変わってくるかなあ。
気のないわたしの返事に降谷がまだ納得いってないことは伝わってきていたけれど、もうここまで来てしまっているのだしせめて玄関先ででも話すことだけ話したらいいよね。と自己完結してしまっていた。
ガチャリと鍵の開く音に心躍りさえしていた。
きっとそれがいけなかったのだ。
ドアノブに手をかけたところで、ふわりとコーヒーの香りを感じる。私の好きな、ポアロで淹れてもらうコーヒーだ。
「この間俺、春にキスしたんだよ」
低い声が私鼓膜を揺らして、ドアノブを引こうとしていた私の手が、一回り大きな手によって隠される。考えないようにしていたことに戸惑いなくぐさりと触れて来たその言葉に、心臓がどくりと脈打つ。
「……っいま、言わなくたって」
勢い任せに振り返りそうになるのは、先程までよりも明らかに距離が近くなっているのを背中で感じてなんとか堪えた。動揺して私の表情はおかしなことになっているだろうし、今はとても目を見て話せる気がしない。
きっと瞬時に耳まで赤くなったのを少しでも隠そうと俯いたけれど、重ねられた手に視線を落としたように見えたかもしれない。
もう、最悪だ。気にしていないように振る舞えると思っていた一瞬前の自分に言ってやりたい。降谷は忘れるなとただ言ったのではないと。その態度は所謂、「隙を見せた」ととられるものであると。平気で昼食に考えを巡らせていた自分の浅はかさに涙が出てきそうだ。
「今こそ言うべきことだろう」
「一応外だよここ…」
手、はなして。小さく呟いた言葉は聞き入れられなかった。陽の光が差し込まないマンションの廊下を外だというには少し違和感があるけれど、外は外だ。万が一今この瞬間にお隣さんと鉢合わせしたりなんてしようものなら、引っ越しが頭を過ぎる程度には居た堪れない。
「このドアを開ける意味をもっとちゃんと考えて」
離すどころか力を込められた手のひらは熱いくらいの熱を持っていて、じわじわとその熱に身体じゅうが蝕まれるような気さえした。
「どんなに気弱で穏やかな男だって、気になる人に部屋へ呼ばれたらそういうつもりで来るんだよ」
「降谷は気弱でも穏やかでもない…」
「なら、尚更その気になるだろうね」
「な、なってる?」
「なってる」
「ごめん……」
明け透けな物言いに、ようやく思い知らされる。降谷が正気かと言って怒っていたのは、「男と女の話」だからではない。「降谷と私の話」だからだということに。
もうこれ以上ないくらいに早く鼓動を重ねる私の心臓の音に気づかれていないことを祈るばかりだ。
「……あの」
「うん?」
分かればよろしいと言わんばかりに、さっきとは打って変わって柔らかな声で返事を寄越す降谷に、またひとつ胸が鳴る。
会話の中にさらりと差し込まれた、私にとってはトランプのジョーカーのような言葉。触れていいものなのか、本物のジョーカーみたいに、触れたら終わってしまうのか。分からないけれど、今を逃して、次にそのジョーカーに出会うのはいつになるのだろう。
「…私のこと」
気になってるの。
実に十年近く聞きたかったことだった。こんなにも簡単に聞いてしまってよかったのかとも、こんなにも簡単に聞いてしまえるものなのかとも思う。
けれどすぐにしまった、と口から溢した言葉を後悔した。私は言葉を交わして確認せずとも、その答えをどこかで分かっていた。けれど今の今まで触れなかったのは、降谷にとっては触れていけないもののように感じているのだと、そう思っていたからである。
しかし後悔もあれど、今しか聞けないと思ったのもまた事実だ。長くポアロを留守にするたびに怪我をして帰ってくる彼は、まさしくその命をかけて日頃日本を守っているのだろう。薄々感じていたことではあるけれど、降谷にとって次や今度は絶対じゃない。
けれど結局聞いてよかったことなのかどうかは分からないし、どちらにせよ降谷はとても困っていることだろう。降谷が答えられないその時は、きっと上手にはぐらかすとは思うけど。
「………、」
「ふる」
訪れる沈黙は悪い予想を掻き立てた。私にとっては今しかなかったけれど、降谷にとってはそうじゃなかったかもしれない。
どんな表情でいるのか確かめたくて意を決して振り向こうと身体を捻ろうとしたけれど、その前に肩に体重が載せられる。
視界の隅に、柔らかそうな茶髪が揺れた。
「好きだよ」