交錯
 乙女には前世の記憶がある。どうやらそれは明治時代の話らしい。東北の生まれで、一人の兄がいた。日露戦争では第七師団の兵士として戦い、生き延びたという。

 乙女にとって兄はたった一人のきょうだいであるから、戦争が終われば帰ってくると思っていた。しかしその願いは叶わなかった。戦争が終わって暫くした時、骨になって返ってきたのだ。骨は同郷の兵士が届けるように指示したらしい。同郷とはいっても面識があるのかどうかすら乙女には分からなかった。何も情報を得ることが出来なかったのだ。

 なぜ兄は無言の帰宅という結末を辿ったのか。やがて乙女の両親は兄の死を割り切ることが出来ないあまりに苦しみ、狂っていった。喧嘩が絶えず、流血沙汰を起こしたこともあった。

 そしてついに、ちょっとしたことで口論になり、カッとなって父は母の首を絞めて殺害した。どちらも乙女にとっては、正気でないと感じていた。母も直前、刃物を振り回していたのだ。父は刃物によって首筋に出来た傷からぼたぼたと血を流しながら母を殺していた。その後父は乙女を置いてどこかに行った。二度と戻ってくることは無かった。うわさでは、人目のつかない所で縊死したらしかった。真偽は分からなかった。こうして乙女は兄だけでなく、両親も失った。

 身寄りのない、金もない女が一人で生きていくことは難しいと乙女は思っていた。よって幼なじみに嫁ぐことが決まっていたことが、乙女にとっての唯一の救いだった。

 その後夫と北海道に渡った。兄の情報を得るためだった。暫くは何の手がかりも得ることが出来なかったが、戦争でもないのに第七師団の兵士が戦闘を行った形跡があることなど、乙女が見てもきな臭い出来事が多々あった。もちろん確証は得られないが、軍隊内で争いがあり、それに兄は巻き込まれたのではないか。それが乙女の下した結論だった。所詮素人である。真実は分からない。そう、乙女の前世であると思われるこの記憶も、ここで途切れているのだった。

「という話です。長谷川さんだから言えるんですよ。私のこの話も、馬鹿にしないだろうから」

 乙女と長谷川は大学で出会った。長谷川の方が、二つ歳が上である。しかし意気投合し、こうして大学を卒業し互いに職に就いても頻繁に出会う。互いに相手を好きだ、とか愛してる、だとかは言わない。が、乙女は長谷川のことを異性として意識しているし、こうして食事をするのもデートのようなものだと感じている。長谷川は少なくとも、乙女から見る限り他に仲の良い女性はいないようだったし、自分に対して何かしらの好意は持っているだろうと思っていた。

「もちろん、馬鹿になんてしないさ。…へえ。前世の記憶があるなんてね。それもかなり鮮明のようだ。君に何かしらのメッセージを残しているのかもしれない」

 砂糖が入ったアイスコーヒーを傍らに長谷川は答えた。いつも掛けているメガネには指紋一つ付いていない。動揺一つせずに一緒に頼んだパフェを頬張った。彼のいうことは妙に説得力がある。強い語気だというわけでもないのに、この人が言っている言葉なら信用出来るのだ、と真偽に関わらず思わせるような、そんな力がある。乙女はごく稀にそんな長谷川を恐ろしく思う。が、その恐ろしさをかき消す程度には、彼に惚れていると言っていい。

「このことは、長谷川さん以外には両親しか言ってないんです。けれども両親は仲が良いし、私には兄はいません。前世で夫だった人にも出会っていませんし。でも、ふとした時にこの記憶が現れて、私は途方もない悲しみや、憎しみに襲われてしまうんです。もし兄を殺した人間が居るのならば、殺してやりたいとも、」

 喫茶店とはいえ、チェーン店特有の慌ただしさがあり騒がしい。二人の会話は他人の声に紛れるが、乙女にはこの瞬間が酷く冷たい、氷に閉ざされたような心地がした。長谷川の目が、あまりにも無機質なように見えたからだ。

「……すみません、過激なこと言ってしまって」

 再び乙女が目を向けると、そこにはいつものように優しい眼差しを向ける長谷川がいた。

「君は随分と……その記憶に苦しめられてきたんだね。よく打ち明けてくれた。君は自分の心の奥底を閉ざしているように見えることがあったから」

 長谷川は乙女の打ち明けに、心底嬉しそうに微笑む。乙女は結局、長谷川のこのような顔に弱い。先程のこともすっかり忘れ、日が暮れるまで談笑したり、共に買い物をしたりもした。充実した一日。今夜はぐっすり眠れそうだと乙女は思っていた。しかし、それに反して不可解な夢……いや、悪夢を見たのだった。その内容は乙女の前世、そして前世の記憶の途切れた部分の続きだった。



「君のお兄さんを殺した人間が明らかになったかもしれない」

 夫が切羽詰まった声で乙女に言う。彼は商家の生まれで、北海道に渡ってからも特有の交際術を活かして人脈を築いていた。ある情報が得られたのだと彼は言った。詳しくは分からないが、兵営の仲間割れや派閥争いのようなもので、額当てを付けた大きい火傷痕のある男がそれに関わっているというものだった。それに関する目撃情報は兄が殺されるよりも前の話だったが、兵士の間で何か諍いが起こっているということまで乙女は突き止めていた。そのためこの男と兄が関わっている可能性も十分あるのだ。

「その男が何をしたいのかは分からないが、その男が兵卒に命令を出しているようだったから、直接的では無かったとしても、関わっているだろうな」
 ここで急に場面が切り替わった。


 
 鳴り響く銃声。血を流して倒れる夫の姿が乙女の目に映る。乙女は足がすくんで、立ち上がることが出来ない。見上げればそこには先程夫から見聞きした、まるで死神のような男がいた。外套を身にまとい、黒い銃を持っている。額当てと火傷痕の隙間から覗く真っ黒な瞳は、夫ではなく、乙女を見つめているようだった。口角を吊り上げて笑うその男の顔から思わず目を背ける。何がなんだか分からなくて、ただ呆然としている以上の選択肢はないのだった。
  


 夢はここで途切れた。

「なんで、今更」

 目が覚める。このような夢を見た割には目覚めは悪くなかった。だが、信じられいほどに汗は出ているし、心臓は自分でも感じられる程度に音を立てている。短い内容であったが、何か乙女にとっては重要なことであるという予感がした。兄の身に何が起こったのだろうか。そしてなぜ夫が倒れていたのか。そして夫の死だけでなく兄の死にも関わっているあの死神のような男は何だというのか。これは今までに感じたことの無い記憶だった。あれだけ昔から覚えていた前世の記憶に続きがあるということで、その日は一日中乙女の心にうっすらと影を落とした。頭がぼうっとして仕事も手につかず、鬱屈とした心地だった。この現世では兄も夫もいない。だがその存在は実在しているかのように乙女の頭の中を支配している。本当にこの現世で起こってしまった出来事のように感じられるのだ。この気味の悪い感覚は昔から捨てることが出来ないどころか悪夢を見たことでより増幅した。

 その中で乙女はふとした拍子に長谷川の顔を思い浮かべる。丁度前世の記憶の件を打ち明けたばかりであり、乙女にとって一番、一緒に居て心地いい存在だ。とにかく今日は、一人で居られない。そう強く感じるのだ。

「長谷川さん」

 電話を掛けて間もなく、長谷川に繋がった。

「どうしたんだい? そんなに慌てたような声で電話するなんて、珍しいね」

 長谷川の様子は普段と変わりがなかった。その声色が今の乙女には体全体に染み渡っていくように思えた。

「今から、会えませんか。どうしても、長谷川さんに会いたいんです」

 長谷川を驚かせてしまったかもしれない、と感じた。乙女と長谷川は普段から、いつどこで何をするのかを事前に決めてから出会う。乙女は予定を立ててから行動するほうが楽であったし、何よりも二人は恋人という関係ですらないのだ。しかし、乙女はやはり長谷川のことが好きなのだ。それは乙女が今長谷川にこんな電話をしていることで、強く自覚した。

「……何か大事なことでもあるようだね。丁度こっちも仕事が終わった所だから、迎えに行くよ。どこに居るんだい?」

 安堵する。長谷川はどんな時でも乙女との約束を違えたことがない。互いの急用で予定が崩れた時でも直ぐに代替案を立て約束を果たす。乙女は長谷川のそういう性分が気に入っていた。

「会社の前の駅にいます。……急に連絡して、ごめんなさい」

 構わないさ、という優しげな声の後、通話が途切れた。

 乙女は近くのベンチに座って待つことにした。あの夢から目覚めた時のように、心臓の鼓動がうるさく感じられる。今までは前世の記憶を両親にしか伝えていなかったし、長谷川に打ち明けたことそのものが乙女にとってイレギュラーだった。もしこの先新たに前世の謎や答えが現れたとして、伝えるのは両親だけだと思っていたのに、それを真っ先に伝えたのは長谷川だった。そもそも前世の記憶を長谷川に打ち明けようとしたのはどうしてだったか。昨日乙女は、長谷川さんなら馬鹿にしないだろうから、と言ったが、それは表向きの理由で、深層には別の理由があったのではないか。乙女は自分の考えが自分でも分からなくなった。

「乙女」

 声をかけられ、我に返る。長谷川はコーヒーを二つ持っていた。乙女に一つを手渡して、隣に腰掛ける。

「本当にごめんなさい。長谷川さんも忙しいのに」

 いいんだ、と長谷川はいう。突然の呼び出しであるにも関わらず文句のひとつも言わなかった。

「何か、今すぐにでも言いたいことがあるんだろう? 君が呼び出すなんて、余程のことなんだから」

 長谷川に全てを見通されている気がして、乙女は少し気恥ずかしくなった。長谷川に無条件に甘えている気がして肩身が狭い。それと同時に、長谷川ならば許してくれるだろうという思いも少なからずある。結局長谷川に甘えているのだ、と心の中で自嘲した。

「昨日、前世のことを話しましたよね。この記憶は夢とかじゃなくて確かな記憶として残ってるんですけど。途切れた場面の続きのようなものを、夢で見てしまったんです」

 いつの間にか、自分の手が震えていることに乙女は気づいた。長谷川は自分の手をその上から重ねる。乙女はちらりと長谷川の目を覗くと、いつもと同じ優しい目付きの奥に、何か見てはいけないものを見てしまったかのような、そんな感情を抱いてしまい、目を逸らす。段々と鼓動が速くなる。共に居て安心出来るはずの彼が、別人のように感じられる。

「大丈夫だから。ゆっくり話してごらん」

 長谷川は急かすことをしない。しかし、乙女は次第に、もう自分が何を喋ろうとしているのか分からなくなってきた。鼓動は鳴り止まない。手だけでなく体全体も震えているのではないか。息も荒くなっているのではないか。乙女はもう言葉を紡ぐことが出来なかった。目の前が真っ白になって、そのまま意識を閉ざしたのだった。



「目が覚めたかい」

 乙女は見知らぬ部屋で目覚めた……正確には見知らぬ部屋ではなく、少しだけ見知った部屋だった。
「長谷川さん、私……」

 そこは長谷川の家だった。乙女はここに訪れたことが何回もあった。映画を見に行く話があったが天候が悪く、長谷川の迎えで一緒にこの家で映画を見たことがあった。長谷川が趣味で撮った写真を見るためだけに訪れたこともあった。

「今は起き上がらないほうがいい。高熱のようだから。よくあれだけの熱で仕事が出来たね。今日はもう遅いから、泊まっていったほうがいい」

 言われてみれば体が暑い。寒気や震えは……今のところは、ない。額には冷却シートが貼られていた。長谷川の使用しているベッドを寝汗で汚してしまっていることが申し訳なかった。

「そんな、迷惑ですよ、帰りますから」

 ベッドから出ようとした所を長谷川に制止される。乙女も急に起き上がったせいで頭がクラクラした。自分の不甲斐なさを感じながら、再び体をベッドに沈める。

「下着はコンビニで買ってきたし、暫くは私の部屋着でも着ているといい。お腹が空いたのなら、レトルトではあるけれどお粥を用意するから。私は床でも椅子でも寝れる。ベッドは君が使うといい」

 私は床でも寝られるから、と笑いながら長谷川は言う。あまりにも自分に尽くしすぎではないのか。単に自分を心配しているだけならばこの家ではなく、自分の家に届けるだけで十分だ。乙女は思わず疑問を投げかける。

「なんでここまで私のために尽くしてくれるんですか、今日の私、長谷川さんに迷惑かけてばかり」

 長谷川は優雅に微笑む。

「君のことが好きだからだよ」

 それは友愛なのか、それともそれを超越したものなのか。少なくとも、長谷川のこのような好意を表すような言葉を聞いたのは初めてだった。乙女は自分の顔が熱くなるのを感じた。熱のせいなのか、長谷川の言葉によるものなのか。まだ混濁としている意識ではそれ以上考えられなかった。

「君も、私のことが好きだろう」

 彼にしては珍しく、断定的な発言だった。しかし、乙女にとっては図星であり、なおかつ熱に浮かされた体では到底言い返せる言葉など思い浮かぶはずもない。そのような要因から力なく頷く乙女に対しても、長谷川はニコニコと屈託のいい笑顔を返すのみだった。

 それから乙女はどうやって朝を迎えたのか、自分でもよく覚えていなかった。熱だけでなく長谷川の予想外の告白を受けたことも原因だろう。気がつけば朝を迎えていた。衣服は長谷川のものを身につけている。時計を見るととっくに始業時間は過ぎていた。熱はほとんど下がったようだったが、体調は万全ではないようだった。ベッドの近くに置かれているテーブルに目を向けると、手書きの手紙が置かれていた。簡易的なメモ用紙だったが、筆跡は丁寧で長谷川らしいものだ。その手紙には、食事は用意しているからレンジなどを使う必要があれば自由に使っていいことや、食器の片付けや洗濯はしなくてもいいこと、そして会社には既に連絡をしているから気にしなくていいことが事細かに書かれていた。要するに、乙女が心配するようなことは何も無いのだということだった。これではまるで、恋人というよりは、子どものようだと乙女は密かに苦笑いする。

 曖昧な昨夜の記憶の中でも長谷川から好きだという気持ちを告げられたことは酷く心を占めていて、それを思い出す度に形容しがたい気持ちに襲われるのだった。自分自身の気持ちが異性としてのものであるとは分かっていた。しかし、長谷川にとってはどう映っているのかが分からなかった。長く先輩、後輩として接してきたその関係性からは、読みとることが出来なかったのだ。乙女も長谷川も一線を越えるようなことは求めなかった。それが昨夜の一件で覆されたようなものであるから、より一層様々な感情が襲ってくるのだった。


「ただいま」

 やがて、仕事を終えた長谷川が帰ってきた。微熱程度に落ち着いた乙女は返事を返す余裕があり、おかえり、と返す。これが普通の恋人や、夫婦というものなのだろうか。前世では兄のことを優先しすぎるあまり、夫と平穏な日々を送った記憶がなかったことをふと思い出し、心が傷んだ。夫であったその人物は今、この現世に存在しているのだろうか。のうのうと暮らしている自分の姿を見られたならば、夫と、そして兄はなんと言うだろうか。記憶の中では確かに、この二人は実在するというのに。乙女はそう考えていることを見透かされないように、表情を改めた。

「少し遅くなってしまった。調子はどうだい?……顔色は良くなったように見えるけれど」

 買い物にでも行っていたのか、右手にはエコバッグ、左手には持っていたバッグに入らなかったためであろう、レジで購入したと思われるレジ袋を持っている。

「おかげで、随分良くなりました。本当に感謝します。こんなにも丁寧に用意してくれて」

 私が勝手にしているだけだから、といいながら長谷川は購入したものを冷蔵庫や戸棚に次々と品物を仕舞っていく。食料品だけではなく、コップなど食器も購入した品物の中に含まれているようだった。

「少し遅くなるけど、ご飯にしようか。乙女はまだ病み上がりだから、一緒のものが食べられないのが残念だ」

 そう言いながらも、長谷川の食事も簡素なものだった。二人で夜、食事に出かけた時はそれなりのものを食すのだが、普段はこんなものなのだろうか。それとも、乙女に気を遣っているのかもしれない。

 食卓に着き、いざ食べようとした瞬間だった。ふいに長谷川がじいっと乙女を見つめ、口を開く。

「同棲、してみないか」

 彼にしては珍しく、照れたような顔つきだった。昨夜の告白の時は照れた素振りもせずにいたというのに、と乙女は思う。実は今日、二人一緒に寝られるベッドも注文したんだ、と言う彼の顔は正面からは分からなかったが、耳が少し赤く染まっていた。乙女はここでもまた、熱が出ていた時のように顔を赤くして小さくはい、と言い頷くのだった。一人で住むには大きいから、とまるで小さい子どもの言い訳のような口ぶりは彼の普段と相まって少し可笑しかった。これはあまりにも突飛な提案だったが、既にこうなることが運命づけられていたかのように、事が運んでいくのだった。



 二人の同棲生活は、驚くほどに不満がなかった。互いに出来ることは無理をしない程度にしていたこともあるが、長谷川が乙女を甘やかすことも多かった。充実した日々。これ以上の喜びは今後有り得るのだろうかと思いたくなるほどだった。いざ同棲した時にありがちな価値観のズレもなく、日々を過ごしていた。それまでは長谷川以外の……同性の友人と出かけることも多くなっていたが、乙女の望む全ての娯楽は長谷川が居れば十分だった。

 またそのような生活の中である時、長谷川からとある申し出があった。

「そろそろ、名前で呼んでほしいな」

 長谷川幸一。ずっと前からその名は知っているが、元々大学の先輩、後輩という関係からの縁であったために下の名前で呼ぶということがなかった。はにかんだ笑顔でそう言う長谷川を前にして、乙女も照れを露わにしながら、「幸一さん」と呼ぶ。一つの幸せ。まさに今がその時であると乙女は思う。

 そういった日々を送る中で相変わらず乙女には前世の記憶が付き纏うものの、あれきり新たなことを思い出すことはなかった。乙女にとっては辛い記憶である事は変わらない。それでもその記憶と幸せは共存することが出来る。心のどこかで、あの時確かに共に過ごしたはずの兄や夫に対して負い目を感じていた。それでも幸せに過ごすことは決して悪いことではないのだと、そういう考えを持ち始めていた。そんな矢先の出来事だった。



「同棲して暫く立つのだから、そろそろ君に打ち明けなければいけない。君も話してくれたのだから、私も覚悟を決めたよ」

 夕方に差し掛かった頃。たまたまカーテンを閉めるのを忘れていて、乙女が閉めようと思っていた時だった。雲ひとつなく、鋭い夕日が差し込む部屋。畏まって話す長谷川からは、ただならぬ雰囲気を感じ取れた。長谷川の話は一体なんだろうか。それまで隠し事のひとつも無かった長谷川が発することで、より気迫が伝わってきた。

「私にも、前世の記憶があるんだ」

 衝撃。その一言が乙女の脳内を占めた。そんなこと、今まで一度も言わなかったのに。長谷川を責めているわけではない。真摯に接してくれたし、何よりも乙女の前世という非科学的なことを信じてくれただけでも乙女にとっては感謝すべきことである。それだけに長谷川の言っていることが余計に信じられなかった。しかし、さらに自分たちの出会いやこれまでの経緯が魅力的であるようにも感じてしまう。運命的だ。

「黙っていて申し訳ないと思っている。君が話しててくれたのだから打ち明けようと思っていたんだ。けれども君はその次の日に悪夢を見てしまった。だから君を苦しめることになれば辛いと思って……でも、今は私が傍にいるから。もし私の話を聞いて何かあっても、平気だから」

 そうして彼は、前世の記憶を話し始めた。

 その内容は自分にもかつて、乙女に兄と夫が居たように、妻と子がいたことだった。そして乙女の兄が亡くなったように、妻子は亡くなったということ。さらに乙女が明治時代を過ごしたように、長谷川も明治時代を過ごしたことなどだった。

「こういう記憶がある。この世界では経験していないことだけど。君と同じように、鮮明に思い出せるよ。あの頃のことを……」

 長谷川の後ろには夕日が迫っている。その明かりが乙女の目には直視出来ないほど眩しく感じられた。長谷川の表情も正しく読み取れないほどに部屋中をオレンジ色に染める。ただ唯一分かるのは、長谷川も乙女と同じように、大切な人を失った悲しみや憎しみは今も尚持っているということだった。彼のこんなにも光を持たない目を見るのは初めてだった。乙女は自分の背筋がゾクゾクと粟立つのを感じる。長谷川を恐ろしく感じただけではない。長谷川も自分と同じ思いをずっと抱いていたということに対して、不謹慎ながらも喜びを感じていた。だからこそ私はこの人に出会い、一つの幸せを掴むのだという内なる思いが芽吹いたのだ。
 
 その日の夜、二人は一線を越えた。恋仲となり、同棲をしていてもなおそういった行為には今まで及んでこなかった。けれどもこの日は違った。互いに自分の内に秘めたものを明かし、裸の心をさらけ出したことが大きかったのかもしれない。この日の夜は二人とも妙に心が浮き立っていたのだ。長谷川は優しい男であったし、そういった彼に乙女は応えた。

満たされる。乙女はぼんやりと快楽を享受する中で、前世の記憶など最初から無かったかのようにこの行為に高じた。不快ではなかった。それは長谷川も同じなのだろうか。同じであればそんなにも嬉しいことはないだろうと頭の片隅で考えながら、やがて意識を閉ざしていく。しかしこの乙女の考えは裏切られることになる。一体長谷川がどこまで知っていたのか。それは乙女にとって、決して知る術は存在していない。


 夫と共に、変わらず情報集めに勤しむ時だった。どうやら兵営の仲間割れというのは、この北海道の地に隠された金塊を巡るものだったらしいと突き止めた。

「アイヌの集めた金塊を狙って、第七師団の一部の部隊が動いているらしい」

 乙女は夫の存在を頼もしく思う。こうして自分の為に働いてくれることが嬉しくもあり、そして申し訳なさも感じているのだが、夫は尽くすことが喜びだと乙女に常々言っていた。

「囚人に刻まれた刺青が金塊の暗号になっているらしい」

 今まで集めた情報筋だけでは飽き足らず、自分でも各地に出向き自分の目で様々なことを知ってきたらしい。それらの全てを乙女に伝える。危険を顧みずに行動する夫は心配ながらも輝かしかった。彼によると、以前に言った額当てと火傷痕が特徴的な男が指揮を執っているらしい。そして、その男の元から逃れようとした兵士がいた事。裏切り者は見つけ次第殺されたのだということが分かった。

「じゃあ、私の兄が亡くなったのは……」

 互いに口を噤んだ。兄は何かしらの思いがあり、組織を抜けようとした。そこを殺されてしまったと見て、間違いなかった。

「確実ではないだろうけど、そういうことだと思っても―――」

 その時だった。

「金塊の情報を追っているのはお前たちだなァ?」

 引き戸の鍵を閉め忘れていた。閉め忘れていなくてもこじ開けられていただろうが……とにかく目の前に立っていたのは。
「ぁ……」

 声が出ない。乙女の兄の死に大きく関わりのあるであろう、真っ黒な瞳を覗かせる死神と、数人の部下たちがそこに居た。

「民間人を殺すようなマネは私だってしたくはない。……が、貴様は少々知りすぎたようだ」

 夫は動けないでいる乙女を守るように前に立ちはだかった。銃を持つ目の前のこの男にも臆してはいない。

「妻の兄を奪ったのはあなたですね」

 夫は冷静に話す。相手が誰であっても怯むことはなかった。だからこそ有力な情報を今まで手に入れることが出来ていた。

「通りで見覚えのある顔だと思ったら……そうだな、そこのお嬢さんの兄君か……あの者ならば私が殺した。第七師団の冷遇。戦友の死や屯田兵の不遇という打破しなければいけない状況であるにも関わらず、金塊のことを知った上で我々を裏切ったからな。我々を売ろうとしたのだよ」

 乙女は頭が真っ白になった。動機はどうであれ、兄の仇が目の前にいる。それなのに足の一本も動かすことが出来ず、もどかしい。

「あなたのやり方が過激だっただけ。義兄はただ貴方のやり方から抜け出したかっただけでは。刺青を手に入れるためならば何だってする。そのやり方についていけなかっただけでは」

 目の前の男は不敵な笑みを浮かべているだけで、それがより一層不安感を煽る。

「刺青囚人のことまで突き止めていたとはな。これ以上何も探らないことを約束すれば、見なかったことにしてもいい。もしくは私たちに協力するか。選ばせてあげよう」

 選べるものか。夫は叫ぶ。その顔には確実に、明確な殺意が現れていた。その殺意の衝動を抑えることが出来ないまま、腕を振り下ろそうとする。

「ああ、全くもって愚かだ」

 夫は死神の鎌に狩られた。足に一発、トドメを刺すために倒れた所を胸にもう一発。銃声が耳をつんざく。血が床に飛び散り、水溜まりのように広がっていく。生暖かいそれは乙女の衣服も汚した。もう為す術はない。絶望が乙女を覆った。




「はぁ……はぁ……っ……△△さん……!」

 自分が夫の名前を呼ぶ声で目が覚めた。以前よりもハッキリとした夢だった。兄を殺した男は夫も殺していた。自分の顔に手をやると、汗と涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 その時。

「やっと思い出したようだね」

 長谷川が乙女に後ろから覆い被さった。その声には妙に聞き覚えがあった。嫌だ、聞きたくない。反射的にそう感じる。大好きなはずの男に対して、ここまで嫌悪を抱くのは初めてだった。

 長谷川の指が、乙女の顔に触れる。その指は涙を拭い、頬を優しく撫でた。

「鶴見篤四郎。君兄と夫を殺し、両親を間接的に死に至らしめたた男の名だ」

 逃げようにも腰と足を手足で拘束されていては到底抜け出せなかった。聞きなれない名前。自分の仇。ここに居ては危険だということ。頭に思い浮かぶことは数あれど、正常な判断をすることは困難だった。それほどまでに錯乱しているのだ。

「長谷川幸一という名は、前世で私が使用していた名前だ」

 長谷川のほうを振り向くことが出来なかった。この男が、兄と夫の仇。普段の長谷川とあの死神を結びつけることがどうしても出来ない。けれども確かに声は同じなのだ。乙女は溢れ出る涙を抑えられなかった。兄を殺した人間が居るならば、殺してやりたい。かつて乙女はそう言った。前世での記憶と現世での記憶がぐるぐると脳内を駆け巡った。

「ほら、昨日の閨事のように。篤四郎と、呼んでおくれ」
 耳元で囁かれる。首筋を指先でなぞられ、この場には不釣り合いなはずの昨夜の情事を思い浮かべた。そのことにさらに気分が悪くなる。けれどもその声は魅惑的な響きのように頭を反芻する。

「乙女。私はお前を愛している。お前もそうに違いないのだ。過去のことなど関係ない。お前には私しかいない」

 さながら洗脳のようだった。憎いはずの男。それでも嫌いになることなど出来ない。分かりきっていることだった。名前を呼べば前世のことが消えてなくなってしまいそうな予感がする。だがそれ以上に、乙女は長谷川を……鶴見篤四郎という名の男を、愛している。

「とく、しろうさん」

 力なく呟く。篤四郎と呼ばれた男は口角を上げ、いい子だ、と言い髪を撫でた。乙女は自分のこれまでがバラバラに崩れていくような気がした。それでもこの男を拒絶するには至らなかった。愛という名の鎖に縛られているのだ。

「愛しい乙女。これからもおれの傍に、いてくれるね」
 意を決して長谷川の顔を見る。そこには夢でみた死神と、同じ顔をした男が居た。
 
mainへ
topへへ