無題
乙女の家には軍人の霊が住み着いている。……正確には霊ではなくれっきとした人間らしいのだが、乙女は事故物件という名目の住居を借りているため、やはり霊なのではないかと思っている。
「こうも涼しい家にいると、心も堕落していくようだ。この時代の人間は楽に過ごすことばかり考えているのではないか?」
そういいながらこの霊扱いされている男はテレビに夢中になり、さらにアイスを優雅に食べている。
「今の貴方の様子では、説得力がないですよ。この家から出ないじゃないですか。暑いからとかなんとか言って」
鯉登音之進と名乗る男。この男が乙女と出会ってもう半年程度経つ。世間は夏真っ盛りと言った様子で、テレビでは海水浴を楽しんでいるニュースが放送されている。
「むう……それは確かにそうだが」
鯉登が現代に来たのは丁度乙女が入居した日である。彼の適応能力は妙に高く、すっかり馴染んでいた。初めはわがままお坊ちゃん、と乙女に揶揄されていたのだが、近頃は簡単な家事ならば進んでするようになった。乙女の薫陶と、鯉登本人の天性……責任感や義務感といったもののおかげである。
「幽霊もやっぱりこういうニュース見て、海に行きたいーって思ったりするんですか? まあ、そもそも貴方の外出は出来るだけ禁じているから、申し訳ないとは思いますけど」
今までの交遊から、鯉登はかなりお金にルーズであるということは分かった。そういうわけで彼にお金は渡していなかった。実体のある幽霊なんて変な存在だなあと思いながらも、結局は一人の人間として丁重に扱っているのである。しかしお金の有無という面では鯉登の外出は制限されている。流石に散歩程度は許しているが、鯉登は外に出たがらない。薩摩出身だというのに、クーラーという文明の利器の前では太刀打ち出来ないそうだ。
乙女は冷蔵庫からアイスを取り出す。鯉登が食べているのを見て、自分も食べたくなったのだ。アイスを買うだけの余裕は、なぜかあるものだ。
「海……人々が楽しむ様子を見ていると、決して行きたくないというわけではないが、海には嫌な思い出があるのだ」
鯉登は苦い顔をした。乙女は鯉登の家族のことを詳しくは知らない。自然に知っていけばいいと思っているからだ。だから鯉登の嫌な思い出、の内訳も知らない。が、珍しく鯉登がそのような顔をするということは、何か人には言いたくない思い出があるのだろうと察した。
「……誰にでも嫌な思い出はあるでしょう。幽霊ならなおさら、思いが強く残っているかもしれませんね」
だから幽霊じゃないと言っているだろう、と鯉登は呆れて言った。彼は相変わらずアイスを食べている。が、今ので最後の一口だったようだ。
「……まあ、お前が海に行くというのならば、共に行ってやらんこともない。いずれ、まだお前が知らない私のことも、教えてやろうではないか。世話になっている礼だ」
尊大な口調。この口調にも乙女は随分慣れた。初めは上から目線で気に入らなかったと言っても過言ではない。だがこれも今ではそれが彼の長所であると理解している。奇妙な同居生活を通じて互いを知っていく過程が妙に楽しく思える。鯉登と初めて過ごす夏。海は無理だとしても、何か新しい思い出を作りたいと乙女は密かに考えるのであった。