無題
「さあ、その引き金を引きなさい。そうすればお前は自由になれる」
 これが鶴見中尉と私の初めての出会いだった。目の前に居るのは、私を虐げてきた兄。両親は私が生まれて間もない頃には既に亡くなっていて、家業は全て、年の離れた兄が仕切ってきた。幼い頃からの親代わり…そんな生易しいものでは無かった。兄は確かに私に暴力を振るい続けてきた。ろくに食事を与えてもらえないこともあった。家業は私から見ても順調で、莫大な資産があることは明らかだった。兄だけが一人で豪遊しているという日々だったのだ。
 しかし、これは本当に許されることなのだろうか? 目の前で苦しそうに息を荒らげる兄は、全身を縛られ、身動きが取れないでいる。私に向ける視線は、鬼のようだ。
 対して私はというと、この漆黒の瞳で兄を射抜くように見つめる鶴見中尉の所持品である、銃を握らされているのだ。手が今までに無いほどに震えてしまう。その上から中尉は自分の右手を重ね、私の耳元でこう囁く。
「お前自身の手で決着を付けなさい、さあ」
 頭に響く、低い声。兄に対する情はもつ残っていないはずなのに。望んでもいなかったこの状況ではさすがに頭の混乱が収まらない。しかし中尉の声は脳内を蝕んでいくような、不思議な力があった。この人ならば私を解放してくれるのではないかと。そう思わせる力があるのだ。
「私はお前を傷つけるような真似はしない。私と共に居れば、何一つ不自由はない。魅力的だと思わないか」
 恐怖で震える私の体を、中尉の左手が支えた。私の声にすらならない息遣いが、我ながら耳障りで、正常な思考を失っていく。
 
やがて、銃声が鳴り響いた。耳をつんざく衝撃音だった。兄は私の手で死んだのだ。鶴見中尉は私の手首から覗く青い痣を指先で撫で、良くやった、と呟いた。これが私が、初めて誰かに褒められた経験だった。初めて、自分の承認欲求が満たされた瞬間だった。兄の死体を呆然と眺めているその間も、鶴見中尉は私にまるで愛のような言葉を投げかけ続けた。初対面の男に絆されてしまうほどに、今までの私は憔悴していたのだ。

 その後私は兄という鎖から抜け出した代わりに、第7師団という名の新たな箱庭に閉じ込められることになった。しかし今までとは違う、恵まれた環境には文句の一つも出なかった。家業の知識を何一つ持たない私は勉学に励むことになり、やがて金塊を巡る戦いの当事者になってしまったことを知った。普通に生きている人間なら一生関わることがないであろう物事を沢山知った。後暗いことも、血なまぐさいことも。それでも自分を解放した中尉ためになるのならば何でも出来る気がした。
「お前は優秀で、素晴らしい子だ。私たちも随分と助けられているぞ。褒美をやらなければな」
 そう言って私を撫でる手つきは優しく、より一層彼への信頼は強固になる。兄を殺したことは間違いでは無かった。何もかも、鶴見中尉の言っていることがすべてで、正しいのだ。私はそう疑わなかった。中尉に何かを指示されるだけで、喜びが満ち溢れる。それはさながら、愛と呼べるものだった。
「お前はあの日以来、美しく成長している。あの男の穢らわしい手に支配されてしまっていたのが嘘のようだ。お前はあの男の手中から抜け出したからこそ、今こうして輝いているのだ」
 中尉の言葉に、私は身を沈めていくしかないのだった。

 しかし、ふとした瞬間に私のことであろう噂話が耳に入った。恐らくは中尉の部下である兵卒だろう。
「あの女も哀れなモンだ。資産が尽きれば用済みだろうに、馬鹿な女だな」
 私のことだとすぐに察しがついた。心臓がうるさく音を立てる。部屋に戻るために廊下を歩くだけでも、周りに鼓動の音が漏れているのではと心配になるほどだ。しかし、私が不安に思っているのは、用済み扱いされて酷い扱い…最悪の場合、殺されるのではないかというような、陳腐なものではなかった。

「鶴見中尉殿!」
 廊下の先に敬愛する中尉がいたのを確認して駆け寄る。ああ、自分の顔が熱く火照るのを感じる。
「どうしたんだ、そんなに嬉しそうな顔をして」
 私は口を開いた。
「中尉殿。私が用済みになったら、あなたの銃で殺してくれませんか」
 声に出すとより一層、高揚感が増した。用済み扱いされてもいい。中尉にこっぴどく殺してもらえば、私は十分に幸せだ。それほどまでに、中尉に傾倒してしまっているのだ、私は。
「どこの誰が吹聴したのか知らんが…そんなことを考えていたなんてなァ…お前がそんなに悪い子だったとは…お前を始末する時が来たならば、その時はお前の望むような、とびきりの愛を囁いてやろう」
 中尉の言葉がゾクゾクと私の背中から脳髄まで駆け巡る。
 中尉が私の望む言葉を言ってくれるその日が待ち遠しい。私は歪んでいるのかもしれないが、それを指摘するような人間もまた、存在しないのだ。中尉の手のひらの上で転がされても、私は幸せなのだ。
 
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