夏の日の思い出とともに
今日は慌ただしい足音がする。乙女は病院の一室でボランティアとして看護補助用品を作成する活動をしている。大学三回生の夏真っ盛りであるが、体が弱く大学に通うだけでも大変だった。大学生になってからも立ち仕事に向かない体質のせいでバイトすら出来ない。そんな時に見つけたのがこのボランティアだったのだ。
 それにしても騒がしい。緊急で入院患者が入ってきたのだろうかと乙女は思う。病院である以上日常茶飯事だが、やはり気になってしまうものなのだろう。彼女は医師でも看護師でもないため専門的なことは何も分からないし、患者の死期に立ち会ったこともない。しかし、それでも病院という場に役に立つ行為をしている以上、色々なことを考えてしまうものなのだ。
「もう、こんな時間」
 暫く時間が経過し、ふと外を見ると、夕焼けが広がっていた。書類を整理し、ファイルに入れる。忘れ物がないか確認した後にドアを開け部屋を出た。するとそこには一人の青年が居た。
「お前、乙女なのか」
 褐色肌と、青みがかったような黒髪を持つ青年。乙女と名前を呼ぶ人物は、彼女にとっても良く見知った人だった。
「久しいではないか! 丁度十年ほどか? どうしてこんな所に…」
 彼は乙女の言いたかったことを全て発した。乙女の記憶にあった彼とは違い、背丈も大きく、声も低い。しかし間違いなくこの人は――
「音之進くん、なんで、ここに」
 鯉登音之進。かつて乙女とは、一夏だけを過ごしたのだった。そんな彼がここにいる。矢継ぎ早に話す彼とは反対に、乙女は戸惑いを隠せなかった。
「言いたいことは沢山あるが、ゆっくり話そう。今乙女が居たその部屋で、話せないか?」
 突然の再開に言葉を紡ぐことが出来ない乙女は鯉登に促されるまま、元いた部屋へと戻っていった。

「それでだ、鶴見教授がこの病院に運ばれたと聞いて…幸い、命に別状はないのだが、包帯をしているとはいえ、傷跡は痛々しい。いつ退院になるかもまだ分からないのだ。だから時間のある時ならば毎日でも来ようと思いながら帰ろうとしていたら、お前に会ったというわけだ」
 彼曰く、ここに来たのは大学で世話になっている教授の見舞いでこの病院を訪れたらしいのだった。その教授は落下事故に巻き込まれ頭部に怪我を残すことになってしまったと彼は話す。きっと先程の慌ただしさの原因はこれだったのだと乙女は思った。
「次は乙女の番だ。いったいどうしてここに? …私も鹿児島を離れていることについては詳しく話さないといけないのだが、私だけ話すのも面白くないだろう。お前の話も聞きたい」
 乙女は鯉登の清廉とした眼差しを、どこか懐かしく感じる。同時に彼と出会った夏の日のことを思い出した。話すと長くなるけど、と前置きをしてから乙女は話し始めた。
「十年前の夏、鹿児島の…音之進くんの家の近くに、私の家の別荘があったよね。別荘自体は私が産まれる前からあったんだけど、私が病弱だったから、実際に別荘に行くのは、祖父母だった。それで私が丁度十歳の頃に、初めて別荘にいったの。どうして許可が出たのかは今も分からないけど」
 鯉登は乙女の話に相槌を打ちながら熱心に耳を傾けている。乙女は彼の、話すことを急かさないような素振りに安心し、話をさらに深めていく。
「それで音之進くんと出会って…楽しかったよね。けれど、夏が終わって私は北海道に帰って…父親の会社が倒産しちゃって。別荘もその時に売ったし、もう私はあれから鹿児島に行けなくなった。あれから色々なことがあって、私はどうにか大学生になれたけど、体が弱いままだから、こうしてボランティアに参加していることでしか、自分の価値を見いだせないの…ごめんね、久しぶりなのにこんな話しちゃって」
 次第に力強さを失っていく乙女の語気に比例するかのように、鯉登の様子も萎れていく。乙女は自分の話している内容に反して、鯉登の様子に思わず吹き出しそうになってしまった。それほどたった一夏を過ごしただけの自分に対して共感してくれるのかと、嬉しくもなった。彼は乙女に対して、自分を卑下するものじゃない、と励ましの言葉を送り、そして改めて自分のことについて話し出した。
「乙女がそんな苦労を重ねていたとは…私とは大違いだ。私はあの時、同世代の子どもと対等に話せるというだけでも嬉しかった。ボンボンだとバカにされたことが多かったからな。確かに親の財力に甘えていた部分もあった。私が今北海道にいるのは、中学生の時に偶然鹿児島を訪れていた鶴見教授と出会い、憧れたということが大きいのだが…自立した生活を送らなければいけないと思ったこと、そして…お前に再会出来れば、という思いがあったからだ」
 自分の意志をはっきりと、臆せずに伝える。それは彼の長所であるのだと、乙女はあの夏の思い出の中でも十分に感じていた。照れずに率直に言葉を伝える鯉登とは裏腹に、乙女は彼の最後の一言を聞いた瞬間、自分の顔が赤くなるのを感じた。記憶の中の幼い彼とは違う勇壮な顔立ちに、ただならぬ思いを感じたのかもしれなかった。
「音之進くん…私も、ずっと会いたかった」
 夏の日の思い出。二人で一緒に過ごしたことは、今も色褪せずに残っている。別荘を持つくらいには乙女は裕福だったが、鯉登よりも彼女は庶民的な一面を持っていた。鯉登は打ち上げ花火をねだったが、彼女が線香花火を持ち込んで共に楽しんだし、二人で地元の夏祭りにも行って、焼きそばやかき氷を食べたりもした。かけがえのない思い出として、今も二人の心には焼き付いたままだったのだ。
「あの頃は連絡先も知らなかった。ただ、お前が北海道に居るということしか知らなかったのだ。しかし今ならば違う。空白の十年間を、共に過ごしたい。いいか?」
 乙女には拒否することなど出来なかった。確かにあの一夏だけを過ごしただけの不安定な関係性である。しかしこの機を逃したならば、やがて二人は大学を卒業し、それぞれの進路に向けてまたバラバラになってしまうだろうという予感が感じられた。
「――喜んで」
 互いに互いのことを、好きだとか、愛しているだとかを発する必要はなかった。この感情が愛に関する感情なのか、はたまた単なる積年の思いが重ねられただけの友情なのか。それを決めるのは、もう少し先でもいいのだと乙女は思った。それはきっと、鯉登も同じなのだ。
「ああ、こげん嬉しこちゃない。あの夏のように、ふたいで夏祭いにいこう。そいかあ…」
 標準語で話していても、素はやはり鹿児島の人で、方言で話している姿が良く似合う。乙女は鯉登の話す薩摩弁を心地よく思いながら、これからの未来を想像していくのだった。

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