無題
「美しくなければ意味がないの」
 私が彼女に知り合ったのは、たまたま撮影の仕事で一緒になったことがきっかけだった。
 そんな彼女の口癖が、これだ。
 美しさを至上とする…いや、至上としなければいけない。それは私にだって理解できる。そう、私だって自分が美しくないと認識している状態で人前に出るのは苦痛だ。けれども、私と彼女のそれは、少しばかり違った。私がジムやコンテストで責務を果たすにはポケモンの力が不可欠だ。それは私だけの体ではないから、時には大きな苦労を伴う。しかし自分だけの力ではないからこそ高めあえる。喜びを分かち合うことも出来る。
 しかし、彼女は違う。彼女は己の身一つで成り上がってきたのだ。ポケモンの力を必要とせずに自らの身体像のみで勝負を重ね、このホウエンで地位を獲た、稀有なモデルなのだった。この世界で生きる以上、ポケモンと関わらずに生きることは困難であるだろう。それでも彼女はポケモンを仕事に用いることはなかった。仕事に限らず、日常においてもだ。それもそのはず、彼女はポケモンにトラウマを持っているのだと知ったのは彼女と知り合って長い時が経ってからたった。幼い頃に野生のポチエナに襲われたことがきっかけで、彼女はポケモンに関わることが出来なくなったのだという。小さいポケモンとはいえ牙は鋭く、獲物を追い続ける性質を持つ。それが彼女の心を蝕み続けることは容易かったのだろう。
「わたしを覆うこの布を隔てた下には、未だにあの時の跡が残っているわ。ポケモンを憎んでいる訳ではないの。ただこの跡を見る度に湧き上がるのは、もっと美しくなってやろうという思いだけ」
 そう告げられたのは、いつの日だったか。
 ポケモンの力を借りることが出来ないこと。それは自分自身の商品価値を高めることでしか芸能の道を生きることが出来ないということに繋がる。彼女はやっとの思いで掴み取った地位が消えてしまうことを恐れているようだった。傷跡を隠し通せるような仕事を選ばなければいけないという負い目がある以上、それ以外の条件が劣悪でも仕事をほとんど断らなかった。そして自分への依頼が途絶えないように容姿を、能力を磨くことも怠らなかった。彼女が美しさに固執するのは当然だろう。
 私はその傷跡ごと君を愛すよ。たったその言葉すら、彼女には伝えることが出来なかった。彼女はきっと、私の思いすら跳ね除けるほど強い人間なのだろうと思っていた……
 
 
 そんな彼女が、“不慮の事故”で顔に大きな火傷を負ってしまったと知った。けれども私は知っている。それが不慮な事故であるはずがないということを。
 残っていた仕事を早めに切り上げても、既に辺りは暗がりが広がっていた。この時間なら、もう処置を終えて家に帰っている頃合いだろう。急いで彼女の元へと向かう。インターホンを鳴らしてもやはりというべきか彼女は出てこなかった。仕方なく電話を掛ける。玄関は閉ざされたままだったが、電話はすぐに繋がった。それは彼女の揺れ動く気持ちを暗示しているように感じられた。
「今、インターホンを鳴らしたのは私だ。お願いだから、出てきてくれないか」
 数秒の沈黙の後、彼女は口を開いた。
「美しくないわたしは、もう価値がないの。あなたに会う資格もない」
 彼女の声は震えていた。今すぐに会って、私は君の美しさだけに惹かれているのではないのだということを伝えてやりたい。互いに家を知っているのに曖昧で名前の無い関係のまま、ぬるま湯に浸かり続けていた自分が恨めしい。この進展のない現状に甘えた結果がこれだ。彼女は強い人間ではない。強く振る舞わねばいけなかっただけの、ただの人間だ。なぜ私はそれに気づかなかったのだろう!
 彼女に会いたい。今すぐに。目の前の壁を断ち切るのは今この瞬間以外に、存在するだろうか。いや、ない。
「月並みな言葉しか贈ることの出来ない私を許しておくれ。私は君を愛している。頼む、開けてくれないか」
 彼女の返事は無い。しかし、返答の代わりに鍵が開かれる音が聞こえた。僅かに開かれたドアの向こうに、彼女は立っている。
「………」
 私は足をドアの内側に差し込み、半ば無理矢理な形でドアノブを引いた。彼女は驚きドアから手を離す。強引なやり方は私の好む所では無かったが、もはやそうも言ってられなかった。
 明かりのない玄関でも、彼女の左の頬から首筋に掛けて、痛々しく赤い傷跡が覆っていることは明確に分かった。一人で苦しみを抱えた彼女を、このまま放っておくなんて、私には到底出来ない。
「君を守ることの出来なかった私こそ、何も言う資格はない。けれども、その傷跡ごと愛させてくれないか」
 それは懺悔に近い響きだった。
 事故などと言われているが、彼女を妬んで顔に熱湯を掛けた輩は私の部下だった人間だった。すぐさま解雇を言い渡した際の、あの醜悪な顔が頭にこびり付いて離れない。彼女の才能と、私との関係。憶測と嫉妬で疑心暗鬼にでもなっていた結果なのだろう。
 こうなってしまったのは全て私の責任だ。彼女に会う資格がないのは、本当は私のほうなのだ。
「ミクリ……わたし……」
 彼女の瞳からは涙がぼろぼろと零れ落ちる。それは嗚咽に近いものだった。思わず私は、傷跡に触れないようにして彼女を抱き寄せる。いつも気高く気品を放つ彼女は、ぴんと張った糸が切れたようだった。私に体を委ねる彼女の体は思っている以上に細くて小さなものだということに改めて気づく。
「まだ何も言わなくていい。けれども覚えていてくれないか。私は君がどんな姿になっても愛することを誓うよ……」
 そんなありきたりな言葉が罪滅ぼしになるとは思えなかった。返事は夜が明けてからでもいい。ただ、せめて彼女の苦しみが消えてなくなるまで、この暗闇は私達を捉えて離さないでいて欲しいと願うだけだった。
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