沈んでいけばいい
「人を殺してしまった」なんて、空想の出来事のように思える。彼女からそんな連絡が入ったのは、夜が更けてきたときのことだった。たまたまリーグでの仕事が長引いて家に帰ってくるのが遅くてよかったものだと思う。この場で着替えるのも億劫だと思い、いつも石を採掘する道具を入れている大きな鞄に服を詰める。エアームドを呼び出せば、この忠実な鎧鳥はボクと荷物の重さに文句のひとつも言わずに彼女の元へと飛び立ってくれた。

 それにしても、どうして自分はこんなに冷静にいられるものなのだろう。彼女の声は今までに聞いた事のないくらい震えていて、確かにその瞬間はボクの心臓も大きく音を立て、この状況が異常であることを知らせていた。どうして人を殺めることになったのか、彼女の身に危険はないのか……言いたいことは山のようにあったが、それをその瞬間聞くのは野暮なことだと思った。とてもじゃないが彼女にはそれ以上の言葉を紡ぐ余裕は持っていないようだったからだ。すぐに行くからとだけ告げ、会話を終えた。荷物を持ち出し家を出る頃にはこうして今のように、何事も無かったかのように振る舞うことが出来ていた。

「乙女ちゃん」

 もう随分前に作った合鍵で彼女の家に入ろうとすれば、どうやらそれよりも前に開け放たれていたようだった。どうやらこの先客が、彼女の箍を外したらしい。ボクの呼び掛けに応じた彼女は立ったまま、床に倒れる血まみれの男とボクを交互に見つめ、何も言わずに涙を流した。

 可哀想に。ソファやカーペットにも血飛沫が飛んでいて、それは彼女の衣服も例外では無かった。彼女は未だに、血がこびりついた包丁を手から離さずにいたようで、左手に持っているポケナビとの対比が奇妙に思える。

「よく頑張ったね」

 何を言われるのだろうかと怯えていたに違いない。ボクがこの行為を咎めるなんてことをしなかったものだから、当然のように彼女は目を見開き驚いた。未だに何も発することのない彼女の涙は止まらず、顔を伝っては倒れた男の血溜まりに吸い寄せられていった。

「指が震えてる。とりあえず、手に持ってるものを離しなよ」

 頑なに握っている包丁とポケナビを、指を一本一本解きほぐすことで離していく。その間も彼女は何も言わない。いつもなら饒舌に話してくれるのに。さっきだって、ボクに電話するほどの余裕はあったはずなのにね。自分の手に負えないほどパニックになった時は、自分自身でも予測が付かない行動を引き起こしてしまうものなのかもしれない。それがボクに対する電話だったのは、光栄に思うけれど。両親に電話すれば警察を呼ばれてしまうけど、ボクならばそんな事しないって思ってくれたのかな? 

 そういう所が、可愛いなあ。なんて思って頭を撫でると彼女はびくりと体を震わせた。やだなあ、まるでボクがこの子を襲ってるみたいじゃないか。でも、ボクが今のキミになんの情欲も抱いていないって言ったら確かに嘘になるかもしれない。こうして泣き腫らして目を充血させて。ぶるぶると産まれたての子鹿のように震える彼女を見ていると、ゾクゾクしてしまう。

「ソファに座ったらどうだい。汚れているみたいだけど、今度ボクが買ってあげるからさ。何があったのか、話してごらん」 

 動こうとしない彼女を半ば無理やりソファに座らせた。その隣に腰掛けると、肘掛に血痕がべったりと彩られている様子がハッキリと視界に映る。

 彼女の腰を引き寄せ、反対側の手を細くて陶器のように白い手の上に重ねる。よくもまあ、この細腕で人殺しなど出来たものだ、と思う。涙を指先で拭ってやると、彼女は安心したかのように目を閉じる。そうしているうちに、彼女はついに口を開いた。

「ダイゴさん……」

 ゆっくりでいいから、と促すとようやく落ち着き始めたのか、彼女は小さな声で語り出す。

 答えは単純で、遠い昔に付き合っていた元彼に言い寄られたのだという。彼女に返却した鍵とは別に、隠れて複製していた鍵を使い復縁を迫った。彼女はあまり詳しいことは語らなかったが、殺意を抱くほどのものなのだから、余程のトラウマがあったのか、それとも……ボクの乙女ちゃんに手を出そうとでも、したのかな。服も乱れていないし、事が行われていたという心配は無さそうだったのが幸いだ。もしそんな事があったのならば、ボクのほうこそ正気でいられないだろう。

 元々彼女と付き合い始めたのは、彼女が思いを寄せていた男に振られてしまって弱っていたところをボクがつけ込んだのがきっかけだった。ボクならきみを悲しませることなんてしないよ。月並みの言葉だったけどそれは本心だったし、彼女を傷つける全てのものには、消えてもらわないと。

「その服はもう処分したほうがいいから、着替えておいで。出来れば、汚れてもいい服にしたほうがいいよ」

 聡い彼女はそれだけで全てを理解したようだった。分かってくれて嬉しいなあと思うと笑みが溢れる。何が言いたげにしている彼女の唇に指を当てた。これでボクたちは共犯者だ。

 よろよろと立ち上がる彼女は不安定な足取りで部屋に入っていく。自分も持ってきた服に着替えようと思い荷物の中に放り込まれた、石の採掘をする時に使っている服装に身を包む。スーツが汚れてしまっても気にしないけど、流石にいつもリーグで着ている服装のままだったらボクがこれからとんでもないことをしようとしていることがバレてしまう。まあ、それでも構わないけれど。お金はあるし、彼女と二人きりなら逃亡生活も悪くない。

 気づけば床に広がる血溜まりは乾いていた。後で掃除しないとなあ。綺麗にしないと、残った赤を見る度に乙女ちゃんはきっとこの男を思い出してしまう。

「……お待たせ、しました」

 ラフな格好に軽く上着を羽織った彼女が部屋から出てきた。これで準備が整う。傍に来るように促すと、彼女は何も言わずにボクの隣にやって来た。このままキスの一つでも落とそうかと思ったけど、邪魔者を処分するのが先だ。

 もう動くことのない男を肩に担ぐ。彼女は男の首を切ったようだった。うつ伏せで見えなかった男の顔は未だに目を見開いたままだった。殺されたといえ最期に目に焼き付けたのが乙女ちゃんだったのならばきっとこの男も本望だろう。いくらエアームドでもボクらを乗せて飛ぶのは無理だと思いネンドールを呼び出した。複数あるネンドールの瞳に汚れたものを映してしまうのは忍びないが、そうは言っていられない。自然豊かなこのホウエンは人間一人を隠すくらい容易いものだ。大きな山ならえんとつやま、おくりびやまが有名だけど、小さな山ならここの近くにだってある。ネンドールにテレポートを命じると、ボクらは人気のない山の中に立っていた。

「ここなら誰も来ないよ」

 男の体をどさりと下ろす。まるでマネキンのようだ。ネンドールをボールに戻して、軍手を着けた後に大きなシャベルを手に取る。黙々と男一人がすっぽり入る程度の穴を掘るのは流石に大変だった。彼女には小さなスコップでも渡そうかと思ったけれど、こんな男のために彼女が汗水垂らして働く必要はあるのかと疑問に思い辞めた。代わりに彼女には「ボクを見ていて」とだけ伝える。そうすれば彼女は従順にボクを見つめてくれた。良いね、その表情。こんな酷い行為をしてしまっても誰にも言わず、逃げ出さずに、ボクだけを縋っていてくれているんだ。

 たまたま使わずに鞄に入れたままだったブルーシートに男を包み、深い穴へと落とす。その上から土を元通りに被せ直すと、彼女は深く息を吐いた。

「ダイゴさ……あっ……」

 軍手を地面に投げ捨てて、彼女を抱き寄せ口付ける。舌を入れ歯列をなぞっていけば、それだけで彼女はくぐもった声を上げた。抱きしめた彼女の胸の鼓動が聞こえる。きっとこれが生きているということなんだろう。地中で眠る死んだ男に見せつけるようにして、さらに唇を重ねる。こんな状況だというのにも関わらず、彼女の頬は紅潮していた。高揚感、背徳感がボクを支配して離さない。月明かりの下、夜はまだ明けなかった。

 彼女の家に戻ったら、今日のことなんて忘れるくらいにうんと抱いてあげよう。同じ秘密を共有した者同士で、快楽を享受しようじゃないか。

 ふと、ボクはあることを思いつく。元々きみが思いを寄せていた男は、本当はきみのことをちゃんと愛していたことをそろそろ打ち明けてみてもいいかもしれない。それを知っていて壊したのはボク。けれどそんな些細なことはもう関係ないだろう? きみはこうしてボクに依存しているし、罪を犯したキミを無条件に愛せるのは、きっとこの世でボクしか居ないんだから。
 
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