Giving In To The Love
わたしは将来、父親の会社を継いで暮らしていくのだと思っていた。けれどそれはもう過去の話。わたしは今、望まぬ結婚生活の最中にある。そう、それは両親の意向……つまりわたしは父親の事業を存続させるための、言うならば人柱になったのだった。父親の会社とはライバルで互いに争ってきたデボンコーポレーション。わたしが事業を継いでいつかデボンを大きく出し抜く未来を夢想せずに、わたしがデボンに嫁ぐことで保証される安寧に身を任せた両親をわたしは到底許すことが出来なかった。両親は身勝手な考えでわたしをデボンに売ったのだ。
ツワブキダイゴ。その男の名がわたしの夫となった人物だった。この男のことも、わたしには理解出来ない。御曹司であることをひけらかすわけでもなく質素な家を構えているのに、遠い地方に別荘を構える。そして金でどんなものでも買える立場であるはずなのに、金では買えないような石に執着する。それはわたしと暮らすようになってから月日が経っても、微塵も変わらなかった。親同士の策略に操られ結ばれてしまっただけ。それを示すように、ダイゴという男はわたしに何も求めることはなかった。
「今日はリーグの皆と会議と、多分飲み会があるから…帰るのが遅くなるかもしれない。ごめんね」
「……行ってらっしゃいませ」
いつも通りの日常。夫婦にしては淡白な会話だった。わたしは彼の申し訳なさそうに眉を下げる表情を何度も見てきた。それでもその表情を柔らかく綻ばせることは、わたしには出来ない。それはわたしだけじゃなくて、彼も同じ。わたしの婚姻が決まったあの日に生まれた心のもやを晴らすことは、この気高く高貴さを身にまとった男にも出来ないのだ。
ポケモンリーグの覇者として、そしてデボンの跡継ぎとして。どちらの仕事でも慌ただしく駆け回り、時間が空いたと思えば洞窟や山の中で石を探す。わたし達は同じ家に飾られているだけの、縁もゆかりも無い人形のようなもの。ただの人形が愛情もないのにどうやって家庭を作ることが出来るというのか。
わたしはこの家で、一生仮面を被って生きているのだと思っている。いや、本当は彼にこそこの仮面を取り払って欲しいのかもしれない。曲がりなりにも夫婦なのだから。けれどもそれが叶わないことはもう分かっている。なぜならば…それを裏付ける出来事が過去にあったからだ。
わたしが昔馴染みの男性と偶然街で出会った時のこと。ここで出会ったのも何かの縁だということで、ネックレスを贈られてしまったのだ。彼も立場がある人間であったし、やましい意味合いが含まれていないことは明らかであった。それでもその日は予定していた出来事を後回しにしながら、長い時間を共に過ごしてしまった。彼の付けていた香水の匂いはきっとわたしに移ってしまったし、ネックレスも言われるがままに付けた。いくら愛がない人間であってもあの男……ダイゴは怒りを禁じ得ないだろう。そう思ってネックレスも外さずに帰宅したはずだった。けれども彼は、怒りも、嫉妬も、失望も、軽蔑も、何も表すことはなかった。
「そのネックレス、似合ってるよ」
彼はただ一言、そう発しただけだった。いつもと変わらない、澄ました表情。そこから、この言葉が本当に心の底から純粋な意味合いを持って放たれたものなのかという判別を付けることはわたしには出来なかった。きっと彼は、わたしが他の男と居たことを知っている。香水も、ネックレスも、普段のわたしの趣向とは大きく異なっていた。
それなのに、これ以上は何も言わなかった。これは全く偶然の、成り行きであって決して彼を試したわけではない。それでもこの結果はわたしの心に深い陰を落としたには違いなかった。きっとこの人は、わたしが望まぬ結婚をしたことをこれ以上ないほどに理解しているから、わたしが何をしていようともどうでもいいのだろうと思った。わたしは彼を愛しているわけではない。それでも、この男の妻として、自分の尊厳を傷つけられた気がしてならなかった。
「帰るのが遅くなるかもしれない」
先程受けた言葉を反芻する。彼がこう言っているということは、日付を跨ぐ前には帰ってくるのだろう。
彼は、約束を違えない男だった。わたしが好き勝手……というには語弊があるが、とにかくわたしがそういう振る舞いをしてしまった以上、彼にも自由に振る舞う権利はあるはずだ。いや、もしかしたら彼はわたしが気づかないだけで他の女性と逢瀬を重ねているのかもしれない。彼の石に対する気持ちは本当であるだろうが、石探しを口実にすることで家を空けることも容易いはずだ。それに、普段から会社の跡継ぎとして、リーグのチャンピオンとして華々しい活躍をしている以上、わたしよりも仮面を…そう、善人の仮面を被るのも、上手いのかもしれない。
もっとも、あの男に女性の影が見えたとしても、特に気に病むことはない。それならばわたしも、彼に分かるように堂々と男性と関係をもってあげる。そう思っているはずだったのに。この後わたしは自分の本当の気持ちというものは心の奥深くに仕舞われていただけなのだということに気づくことになる。
「ただいま」
相変わらず、この男は約束を守って帰ってきた。ただ、彼にしては遅いかもしれない。あと少しで日付が変わってしまう所だったのだから。わたしは既に夕食も入浴も済ませていて、ただベッドに入り眠りに就けばいいだけ。しかしある違和感をわたしは感じた。そう、いつもどんな時でもシワひとつ付けることの無かったスーツが縒れている。それだけでなく、今までとは違う匂い、そう、女物の香水のような香りが漂っているのだ。
やはり、わたしが今まで鈍感だっただけで、愛人でも居るのだろうか。そして朝帰りとなると余計に怪しまれると思ってこんな中途半端な時間に帰ってきたのだろうか。朝言ったリーグの人達との集まりというのは嘘だったのだろうか…ぐるぐると思考が目まぐるしく回る。こうなる日が来るとしても、動じない自信があったのに。他の女と会って、何をしていたの。どうしてそんなに、平静でいられるの。わたしの中で渦巻くものは紛れもなく、彼に対する醜い嫉妬だった。
「どうかしたかい?」
後ろめたさの一つも感じていないような彼の言葉と表情。水浅葱の瞳が、ソファに座り怪訝な顔をしているであろうわたしを見つめる。わたしはこの気持ちを隠すべきだったのだろう。わたしも似たようなことを過去に行っていたのだから。到底人のことを言える立場ではない。しかし気づいた時にはもう遅く、正直なわたしの口はわたしが思っているよりも早く彼を非難していた。
「他の女性と、何をしていたのですか」
言ってしまった。醜悪としか言いようがない。第一、彼が遊んでいたという証拠を確実に掴んでいるわけではないのだ。だが次に発された彼の発言にわたしはただ呆然とするしかなかった。
「ふうん。きみも、嫉妬してくれるんだ」
弁明する訳でもなく、狡猾な笑みを浮かべる。信じられない。わたしに嫉妬させる為だけに、他の女と夜を過ごしたというのか。わたしは彼を愛しているわけじゃない。それは本当なのか? わたしは分からなかった。こんなにも胸が苦しくなるなんて、この生活が始まってから初めてのことだった。
「わたしが居ながら、どうしてそんなことが、」
わたしが次に言葉を言い終える前に、視界が反転した。ソファの上に押し倒され、天井の代わりに彼の顔が迫る。ここまで至近距離でこの均整のとれた顔を見つめるのは、初めてだった。女物の香水の匂いがやけに鼻腔をくすぐった。不快感が身をつつむ。自分でも心情の整理が出来ずに、ただお互いの視線が交わった。
「そう、ボクも同じ。きみが今浅ましい感情をボクに向けているように、ボクもあの時、必死に繕っていた下ではきみと同じ思いを抱いていた」
彼はそれ以上何もせず体を起こし、わたしの隣に腰掛けた。対してわたしは、押し倒されたままの姿勢を崩せずにいる。なんとも滑稽な姿であるだろう。
「きみがボク以外の男と会って、アクセサリーまで貰ったことをボクは知ってる。きみも覚えているよね。あの時のボクは平静を装っていたけど、本当に胸が張り裂けそうだった。きみを独占出来るのはボクだけだと思っているから。きみが他の男の前ではニコニコしているのだと思うと、化けの皮が剥がされるような思いがしたよ」
独占。聞き馴染みの無い言葉が耳を掠める。いつもの彼とは別人のようだった。愛の言葉一つもかないこの男が、あの時、わたしに嫉妬の感情を抱いていたというのか。本当に?
「だから、きみにも同じ一面があると知って安心したよ。きみのそれがボクを裏切るものでないのと同様に、今日ボクに他の女性の面影が残っているのも、きみを蔑ろにしているわけじゃない。まあ、それをきみの本心を引き出すように利用したのは、紛れもなくボクだけど」
つまりわたしは、まんまと彼の掌の上で踊らされていたということなのだろうか。何のために? この男はわたしと同様、望まぬ結婚生活を強いられてきた哀れな御曹司なのではなかったのか。わたしは自分の抱いていた感情以上に、彼のわたしに対するそれに興味をそそられてしまった。それすらも彼の手の内に追いやられているだけなのかもしれない。
「それって一体、どういうことですか。あなたはわたしのことを、愛していないのだと思っていました」
いつまでも転がっている訳にもいかず、わたしは姿勢を正して彼の隣に座り直した。彼の横顔から笑みは消えていたが、先程とは打って変わって真剣そうな眼差しが生まれていた。
「それは誤解だ。今まで黙っていてすまなかったと思っているよ……きみはご両親の意向で無理矢理ボクと結婚したものだから、きみにはボクのことを気にせず、好きに過ごしていてほしいと思っていた。だからボクも、きみに無理強いしたくなかったし、きみを求めることもしなかった。けれどももう限界だ」
彼は深いため息を吐いた。そして、わたしの瞳を射抜く。それは欲に塗れたもの…けれども、決して卑しいものではなかった。分からないことと、初めての連続。わたしはただただ戸惑うだけだ。
「きみは覚えていないだろうけど、ボクはずっと昔からきみのことが好きだったよ。デボンが主催するパーティーで周りに馴染めずにいたきみを初めて見た時から、ね。ボクは人見知りするような人間ではないけれど、きみに話しかける勇気はとうとう最後まで出せなかった」
そんなに、ずっと、前から。わたしの声は声にすらなっていなかったかもしれない。それは彼からの、初めての告白だった。
じわじわと、顔が赤くなる感覚が迫り上がる。錯覚かもしれないし、本当に紅潮してしまっているのかもしれないが、わたし自身が確認する手段はどこにも存在しない。
彼が嘘をついているようには思えなかった。わたしがパーティーで誰にも話すことができず壁や父親にくっついてばかりだったのは、本当だったから。
彼はわたしのことを最初から愛していたのだ。愛しているからこそ、器用に振る舞うことが出来なかっただけなのだ。
「今日きみを試すようなことをしてしまったのは謝るよ。けれども、これは知っていて欲しい。確かにボクらは互いの会社の未来のために結婚をしたも同然だけれど、きみの両親はきみを売ってなんかいない。ボクがきみを好きだってことが、決め手になったんだから」
心臓がうるさく音を立てる。彼なりに気を使って、回り道をし続けてきた結果だったのだろう。その道が今、やっと交わった気がした。そして同時に、わたしも初めてこの人のことを心から愛するという覚悟が定まった気がした。わたしも意地を張り続けていたのだ。自分の意思ではないものだからと、ずっと目の前のことから逃げ続けていたのだ。わたしも向き合っていれば、もっと早くに彼の感情に気づくことが出来たのかもしれないというのに。
「わたし、初めて自分の気持ちに気づくことが出来ました。もう初めの頃とは違う。わたしもダイゴさんのことを、もっと知りたい。もっと、好きになりたいの」
気づけばわたしの腕は自然と彼の背中に伸ばされていた。彼は驚いたようだったが、すぐにわたしのことを抱き返してくれた。わたしは迷わずに彼の首筋に顔を埋める。肌を通して伝わる体温が、こんなにも熱いなんて思わなかった。
「ボクもだよ」
そういう彼の声はとても穏やかで、わたしはまだ見ぬ未来が幸福に包まれているのだろうという予感をひしひしと感じるのだった。