比翼の鳥になりたい
「夏侯惇様」

いつもは大きく見える彼の背中が、やけに小さく見える。返事をしないまま黙り込む乙女は、他に何と言っていいのか分からずにただ立ち尽くすのみだった。

定軍山の戦いで、夏侯淵が敗死した。その事実が彼にどれほどの傷跡を残したのか、想像するのは難しいことではない。

仇を討つこともままならぬままに、魏軍はあの地を放棄した。武人であり、夏侯淵の血族である夏侯惇にとっては耐え難いことだ。曹操が発した言葉も彼に暗い影を落としているのだろう。夏侯淵の死が関羽を引きずるきっかけになったのだと言われても、彼はもう帰って来ない。夏侯惇は曹操に不信感を抱き始めている。彼には忠実でいるだろうが、生まれてしまった溝を埋めるのは困難だろう。

屋敷に帰ってきた夏侯惇の顔を、乙女は未だまともに見れていない。

一人で過ごさせてくれ、と彼は言っていたそうだ。だが乙女にはもう辛抱出来なかった。乙女は夏侯惇の妻であるのだから。

「乙女。……来るなと言っていただろう」

何も言わないままの夏侯惇に対しても動じずに居る彼女に痺れを切らしたのか、重い口を開いた。彼にしては珍しい、覇気のない弱々しい声だった。

屋敷に帰ってくるまでは至って冷静に、気丈に振舞っていたのだという。一人で居るときくらい、本心を表に出していたいという事なのだろう。こうした時くらい、自分を頼ってくれても良いのではないかと乙女は思う。そのためにここに居るというのに。

「貴方を一人には出来ません」

再び間が空く。否定しないということは、ここに居ても良いということだろうか。乙女は少し安心しながらも、まだ彼のすぐ側には近づけずにいる。夏侯惇が何も言わないとしても、彼女はいつまでもこの部屋に留まっているつもりだった。一人にしておけない、ただその一心だけで。

彼が消えてしまいそうで、怖いのだ、乙女は。一人にしておけば、ふらっと何処かに行ってしまうかもしれない、二度と戻って来ないかもしれない……そんな予感があった。

「……もしもお前まで失えば、俺は」

ぽつり、ぽつりと夏侯惇は呟き始める。乙女の知る限り、彼がこのような弱音を吐くのは初めてだった。

同じだと思った。二人は互いに、片割れが消えてしまうことを恐れているのだ。

「私はどこにも行きませんよ」

ずっと、ここに居ますから。乙女の言葉をどのように受け取ったのか、彼女には分からない。

ただ夏侯惇が本音を話してくれたことに安堵した。それだけで良いのだ、今は。

「……傍に、居てくれ」

先程とは打って変わった彼の言葉に、乙女は無言で応じる。近寄って背中から腕を回せば、拒絶されることなく彼の手のひらを重ねられた。

「はい。……いつまでも、ここに」

このような状況であっても、熱いほどの温もりを感じる。

俯く彼が再び前を向けるまで、乙女はこのまま支え続けようと思った。

(20240305)
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