金の太陽に向かって
「乙女……!乙女……」

妖艶で美しく、それでいて常に凛とし気高い品格を保ち続けている甄姫が、我も忘れて一目散に駆け寄る。あまつさえ抱きつき縋り付く光景を、乙女は初めて見た。抱きつかれているのは自分であるというのに、どこか他人事のように彼女は感じる。

「甄姫様。どうかお顔をお上げください」

甄姫らしくない姿だった。主君にこのような真似をさせるなど、本来ならば許されないことだろう。だが甄姫がこうして泣きついているのは、乙女が許されなかったからなのだ。それを彼女も、甄姫も、痛いほど分かっている。それでも涙が出るのが人間だ。甄姫の人間らしさを傍らで見ることが出来るのも、もう最後かもしれない。

乙女は、長い間彼女に尽くした甲斐があったものだと思う。気に入らない相手ならば容赦なく罵倒しぞんざいに扱う一面を今まで見てきたのだ。そんな彼女がこうして自分を案じてくれる。その気持ちを受け取ることが出来ただけで、もう未練はなかった。

「……何故貴女が、敵と内通しているなど……そして、我が君は何故私の言葉を信じないのです。貴女には罪はない。そうでしょう……」

愛する妻の従者が敵と内通している。曹丕が怒り乙女に自害を命じているのだということを、きっと甄姫は曹丕本人から聞いたのだ。

だから、なりふり構わず乙女の元に甄姫はやって来た。乙女は曹丕を恨めしく思う。

「私は罪を背負って死んでゆくのです。貴方様は私の事など忘れて、未来へと歩みを進めてください」

ああ、と慟哭し甄姫は涙を流した。

甄姫を守るためなのだ。これで良いのだ。乙女は甄姫の背中に手を当てながら、目を閉じた。彼女が自分の無実を信じているのだという事実があれば、他に何も要らなかった。

甄姫の言った通り、乙女は敵と通じているなどという馬鹿げた行為は何もしていなかった。甄姫はおろか、曹丕や曹操のことも、決して裏切っていない。

本来死ぬべき運命を辿ろうとしていたのは、乙女ではなく甄姫だった。

曹丕は、甄姫ではない別の女性と関係を深めている。はっきりいって、彼にとって今の彼女はもう、用済みだった。

毒を飲んで死ね。彼が下した決断はあまりにも無慈悲だ。到底受け入れることなど、乙女には出来なかった。何の罪もない甄姫が何故死を賜らねばならないのか。

抗議した彼女をせせら笑いながら曹丕が提示したのが、代わりに乙女が自分の意思で死ぬ事だった。それも、敵と内通しているなどというありもしない汚点を残して死ぬ事だ。

それで主君が助かるのならば。乙女は残された甄姫がこれ以上悲しまぬよう、新たな従者と生活に困らないだけの金を曹丕が彼女に提供するのだということを交換条件として示した。

曹丕がそれを本当に実行し、約束を守るのかは分からない。だが、甄姫の死を目の当たりにする事だけは、どうしても出来なかったのだ。

「私……本当に、袁家で過ごした記憶を失くしてしまいますわ。あの家で過ごしたことは……全てが嫌なものだったわけではありませんのに……貴女が、居たから……」

袁家のことなど忘れてしまいましょう。かつて乙女が甄姫に告げた言葉だ。

降伏するしか道がないのならば、美しい思い出など消してしまえば良い。

だが、それは正しいことだったのだろうか。乙女は分からなくなった。ただ存在するのは、甄姫を思う気持ちだけ。

あの選択は間違いだったのかもしれない。甄姫の瞳から溢れ出る涙を見るとそう思ってしまう。

だが、後戻りはもう出来ないのだ。ただ一人で金の太陽を目指すことだけが、残された道だった。

(20240409)
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