草原の風
これを見れば張コウを相手に語っている理由が分かります(読まなくても本筋には関係ありません)
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張コウ様。今宵も二胡を奏でているのですね。先日はあのような話を私にしてくださり、感謝の念に堪えません。

私はあれから、草原で過ごしたあの日を毎日のように思い返しました。私はもう、この国に骨を埋める定めとなのだと言っていいでしょう。故郷に戻った日から、草原の風を思い起こすことはなくなりました。

私にはもう、その資格はないのです。一人で中原に舞い戻った時に、そう思いました。けれども張コウ様のお話を聞いてから、まだ私はあの日を思い返しても許されるのではないかと感じたのです。

大切な人が、私にも居ました。今はもう生きているのか、そうでないのすら分かりません。

張コウ様。今度は私の話を聞いていただけますか。あなたが想い人に今も向けているその感情は、私にもまだ存在していたのです。

興平の間に、乱が起こりました。私は勿論、戦う術がなかったものですから、右往左往するばかり。誰も私の身を守る余裕などありません。

その乱の隙を突いて、匈奴がやって来ました。彼らは馬を巧みに操ります。我らが対抗するには、その力の差は大きすぎたのです。

私は気づけば騎馬兵に拉致されていました。馬はぐんぐんと進みます。騒げば何をされるか分かりませんし、走る馬から脱出する方法などありません。

彼らの居住地で、私は馬から下ろされました。ああ、私は彼らに弄ばれて、生涯を終えるのだ。そう思いました。見知らぬ地で、見知らぬ人に囲まれ……このような状況で、これほどまでに絶望したことは、初めてでした。

しかし、彼らは驚くべきことに、私を丁重にもてなし始めたのです。彼らが育てた動物達の乳製品や肉を使った料理が出され、私は彼らに衣服を贈られ、共に過ごしました。

私は彼らにとって、貴賓のようなものだったのです。地位のある人間には、地位のある人間を与えることが相応しいのだとされたのでしょうか。私は左賢王の妻として彼らに迎え入れられました。彼の妻として生きた時間も間違いなく宝物だったのです。

私は元々、河東郡のある家に嫁ぎました。ですが早々に先立たれてしまい、私は実家の屋敷に帰ることになりました。その人との思い出はほとんどありません。それでも私にとって、二度目の婚姻でした。

見知らぬ土地で初めて会う人に囲まれながらも、新しい家族を得ることを心のどこかで喜んでいる自分が居たのです。

それは、左賢王……私の夫だった人に加えて、彼の妹だった……乙女殿と出会えたことも、喜びの一因でした。

彼女は、中原の景色を知らないのだと言いました。遊牧生活を営み続ける中で、私達のような暮らしに憧れが募ったのだと言いました。

ですから私は中原で育った日々を彼女に話し続けました。彼女は私のことを、「姉さま、姉さま」と可愛らしく呼んだのです。それが愛おしくて……家族が出来るってこういうことだったのかと、その頃は思いました。

何せ私は、一度夫に先立たれた身です。実家でも優しい父上が居ましたし、家族のありがたみが分からないということではありませんでしたが、自分が築いた家庭というものは築く前に途絶えたものですから。嬉しくて嬉しくて、たまりませんでした。

乙女殿とは、遠乗りにも出掛けました。雄大な草原の風景は、中原では見られないもの。自分の心もこの広がる緑のように、穏やかな心地になっていきました。

匈奴には、文字がありません。しかし、私達と同じように言語は勿論ありますから、私が暗記していた詩を詠うと、彼女はとても喜びました。

私が暗誦した詩を、乙女殿も詠いました。馬の背に乗って揺られながら、私は次第にこう思いました。故郷の景色を思い出すことが次第になくなり、帰郷が叶わないのは悲しいことであるのは確かです。しかし、新たな地で安住を得たことは、私にとって確実に幸せなことなのだと。

私は彼女に、音だけでなく文字として詩を教えたこともありました。彼女は思いがけないほど早く詩の作り方を覚えました。人の熱意とはこうも力をみなぎらせるものなのだと思いました。

姉さま、姉さまと私を呼ぶ声。こんな毎日が続けばいい。そう感じました。けれども、私に帰郷を告げる知らせが届いたのです。

私に帰郷を促したのは、紛れもなく曹操様です。私の父は、それは才に長けた人でしたから……その血が途絶えてしまうのが惜しいと、曹操様は仰せでした。

ああ、私はまた家族を失ってしまうのか。心配そうに私を見つめる彼女が、その時も私の傍に居ました。

私は、家族と別れる決断を迫られたのです。否、別れないという選択は無いに等しいといっていいでしょう。帰郷は嬉しいこと。誇りであること。そう思うことしか、私にはないのです。何の力も持たない私には。

彼女に、私がこの地を離れなければいけないことを伝えた時、彼女は初めて涙を流しました。美しい彼女にこんな仕打ちをすることしか私には出来ないのかと、酷く打ちひしがれました。夫も私の帰郷を促す便りと使いに腹を立てたものですが、元々は彼らが私を略奪したことがきっかけですので、強く交渉することは最後までありませんでした。

そうして迎えた帰国の日、私は詩を詠いました。帰郷の喜びと、家族を喪う悲しみを詠ったのです。

彼女は私に対して、幼子のようにしがみつきました。彼女も辛かったのでしょう。使いの人間に引き離された後も、彼女は最後まで私を見つめたまま、その姿が見えなくなるまで動くことはありませんでした。

彼女は別れの日、私にこう言いました。

「草原の風を忘れないで」と。

空の青さを、緑の豊かさを、太陽の輝きを、風の柔らかさを。

彼女の言ったことを、忘れたくない。しかし、あの地を捨てた私に、思い返す資格はない。

そう思っていました。けれど、それは違うのだと……私はやっと気づいたのです。

張コウ様……私、彼女に懺悔をしたいのです。どうか二胡を奏でていてくださいますか。

私は彼女に捧げた詩を、詠います。もう二度と会うことはない、彼女に向かって。

風は、どの地に居ても、等しく吹き続けます。どうか私の詩が、彼女の元まで届きますように。彼女の心を、そして私の心を……鎮めてくれますように……

(20240226)
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