すくう
その日乙女は、わざと皆が寝静まった夜に家に帰った。嫁いできた当初は仲睦まじく、周りからも羨まれるほどに愛し合っていた。だが次第に横柄になる夫を前に逆らう術もなく、時には暴力を振るわれることもあった。
耐え難い苦痛である。だがそれまで自分の世話をしていた義兄の顔に泥を塗るようなことはしたくなかったから、黙って耐え続けていた。だがそれも限界に近い。きっと遅くまで帰らなかったことに対する怒りを向けられるのとは必至だろうが、それでも夫の顔を見る時間を一秒でも短く済ますためならば、こうして誰もいない夜を歩き続けたことは後悔するほどのことでもなかった。
屋敷に足を踏み入れる。暗い廊下に足音が響く。自分がいないことに腹を立てているだろう夫が寝ているということは有り得ないだろうし、すぐにでも飛んできそうなものだと彼女は思ったが、本当にここは誰もいないかのようだった。寝室に入ろうとしたとき、その扉を開けて出てきたのは夫……ではなく、全身に血を浴びたまま幽鬼のように立っている男だった。
「乙女。やはりお前を嫁がせるべきではなかったようだ」
悲鳴を上げる隙もなく、乙女は床に押し倒される。そこにいたのは義兄だった。暗がりの中に、彼の鋭い眼光だけが光っているようだった。
「あに、うえ……これは、一体」
「安心しろ。あの男は俺が殺した。お前が受けた痛み、恨みは全て俺が返してやった」
お前が穢れるからこの部屋には近づくなという彼は、人を殺したというにも関わらず楽しそうに笑っている。優しい義兄の面影が見えないような気がした。
「今までよく耐えた。これからは俺が守ってやる。これまでもそうするべきだった。お前は俺の元にいるべきだ、それこそ、その命が尽きるまでな」
生暖かいもので濡れたままの大きな手が髪に触れる。その瞳は兄が妹に向けるものではない熱を孕んでいるように見えて、乙女は戦慄する。「ずっと愛していた」聞き馴染みのない言葉が巣食う。自分は救われたのだ、と思うほどおめでたい頭をしていないのだ。
(20240803)