敵を騙すにはまず味方から
「私、結婚します。結婚すれば家庭に入りますから賈ク様とはお別れですね」
さらり。今日の晩飯は焼き魚にでもしましょうかとでも言ったかのような口調で、乙女は賈クに人生の節目であることを告げた。
「はあ?」
タチの悪い冗談ではないのか。書簡に文字を書き入れる手を止めた賈クは呆れたように乙女を見上げる。半信半疑といった面持ちだった。
「ですから、私、結婚します」
毅然としてこう言い張る乙女。賈クは頭を抱えたくなった。なぜそのように大事なことを早く言わないのだと。乙女を腹心の部下として重用し続けていただけに、より一層彼女の行動は読めなかったし、本音を言うならば認めたくはない。
「……なんでまた、結婚なんて。そういうことには興味がないと言っていたはずだろう?」
そういうことに興味がないと散々話していたから、乙女には汚れ仕事も受け持つことを強いてきた。そんな彼女がいきなり仕事を捨てる決断をするなど、やはり信じられない。
「賈ク様にだって秘密のことはたくさんありますよ? とにかく、私結婚しますから。後のことはよろしくお願いしますね。ある程度の引き継ぎはもう済ませていますから」
妙に用意周到だった。彼女らしいといえば彼女らしいが、賈クは未だ怪訝な気持ちを抱えたままだ。
ばたばたと部屋を出ていく彼女の後ろ姿を目で追う。今までと何ら変わりない姿。一体誰と結婚するのかも言わないまま、賈クの前から姿を消した。
一体何だというのか。これだけ長い間共に過ごしていたのだから、もう少しこちらに歩み寄ってもらいたいものだ。賈クはそう思いながら再び書簡に視線を落とす。
「どうしたものかねえ……」
まだ彼女に任せたいことも残っているのだが。可愛い部下の慶事であるのに素直に祝えない自分が居る。賈クはため息を吐いた。これは嫉妬なのか? いやいや、そんなはずはない。執務に勤しみながらもそんな自問自答を繰り返す。それに、彼女の婚姻にはまだ隠された秘密があるのではないか。
そう考えながらもついに賈クは真相に行き着くことは出来なかった。さりげなく聞き出そうとしてもはぐらかされるばかり。俺に似て曲者になったものだ、と再びため息を吐く。そんな日が続き、気づけば乙女は賈クの副官という立場を辞した。
「賈ク。浮かない顔、だね」
郭嘉は相変わらず、いつものように薄い笑みを浮かべている。賈クも相変わらず、乙女が消えた穴が塞がらないのか郭嘉に指摘されるほどまでに日々の不満を顔に出していた。
「……はは、あんたにも分かるか」
賈クは苦笑いした。想像以上に乙女の存在は自分の中の大部分を占めていたのだ。たかが部下一人の動向にかき乱されるのを情けなく感じた。
「賈クはあの子のことを随分と買っていたようだからね。あの子が誰と結婚したのか、賈クは知っているのかな?」
「いや……知らないが……郭嘉殿は、知っているとでも」
含みのある物言いをする郭嘉だが、賈クは無難な答えしか返すことは出来ない。つくづく情けないものだと思った。
「どうやら、婚礼の儀も秘密裏に済ませたらしいんだ。その相手は特筆することもない、至って普通の将。彼女のほうから猛烈に差し迫って勝ち取ったとか……意外だと思わないかい?」
全くもって初耳の事実に、賈クは愕然とした。乙女の結婚相手の名は、聞いた事はあった。だが彼女とその相手がどこで出会い仲を深めたのか、共に行動する機会の多い賈クにとっても分からなかったのだ。それに、乙女の方から差し迫ったなどと。それは本当に乙女なのか。思わずそう感じてしまうほどに、普段の彼女の姿とは結びつかないのだった。
「……俺にはそんなこと一言も言わなかったがね。それよりもあんたはどこでその情報を?」
「貴方の為に人肌脱ごう、と思ってね」
つまり、誰が見ても落ち込んでいる様子である賈クの為に情報を仕入れてきたというわけだ。頼りにしていた部下の動向を知れば、少しは安心するだろうと考えてのことだろう。それはそれで、複雑な気持ちが賈クに湧いて出るのだが。
「まあ、礼は言っておこうか。……郭嘉殿に気を遣われるほど、顔だけじゃなく態度にも出ていたということか。全く俺らしくないものだ」
「まあ、彼女は確かに優秀だからね。いきなり居なくなるのは貴方にとっては余程痛手だろうということは容易に分かるさ。……それよりも、彼女について少しだけ、面白い話があるんだ」
郭嘉の言う面白い話は本当に面白い話なのか。少なくとも、笑い話ではないだろうとは簡単に想像がつく。賈クは話の続きを待った。
「彼女の結婚相手は、使用人を一人残らず解雇したそうだ。彼女は家庭に入ると言っていた通り全ての時間を彼に使うつもりなのだろうが、それにしても妙だとは思わないかい。彼に長年使えたいた人でさえも、為す術なくその決断を受け入れるしかなかったようだよ」
彼女には何か考えがあるのかな。面白いと思わないかい。そう言って笑う郭嘉は本当に愉快そうだった。確かに、いきなり彼女以外の人間を遠ざけるなど、何か理由があるに違いない。
「……単純な理由だとすれば、乙女が心底男に惚れているから、もしくは男が彼女にぞっこんであるか。だから異性も同性も関係なく邪魔だと思って暇を出した。……まあ、乙女の目的が分からない以上なんとも言えないね」
乙女は本当に新婚生活を謳歌しているだけなのか、それとも隠された真意が存在するのか。郭嘉も賈クも優れた軍師だが、それでもなお乙女の行動は読めなかった。何しろ情報が少なすぎるのだから。
「そうだね。私ももう少し探ってみようかな。賈クの陰鬱な顔を見るのも、楽しくはないしね」
「……そりゃ、どうも」
自分が思っている以上に、彼女の不在は悪い影響をもたらしているようだ。賈クは早く彼女の口から真実が聞けないものかと強く思うのだった。
そうして時が過ぎる。賈クは至って平常心を保ったまま、軍師として策謀を巡らせている……つもりだった。「賈クの様子がおかしい」という噂は広がりつつある。様子がおかしい理由は言うまでもなく、乙女が居ない、そして未だに彼女と直接話す機会もないということだ。さらに、もう一つ新たな理由が加わった。
「賈ク。彼女の旦那様はどうやら、殿に叛意がおありだとか」
賈クもそれくらいは知っている。不愉快そうに彼は眉をひそめるが、郭嘉は相変わらず優男の仮面を被ったまま、笑っている。
「……乙女が素直に従うとも思わないがね」
というよりも、従わないで欲しいというところが、賈クとしての本音である。
「叛意も今の段階ではただの噂。彼がこれからどう出るかが気になる所だね。そして彼女はこのことを知っているのか。きな臭くなってきたわけだし、結婚の真相について分かるかもしれない」
先日使用人を残らず解雇したことに加えて、この噂である。彼女が何らかの形で騒動に加わっているのは間違いのないことであろう。賈クはただ彼女が謀反などという馬鹿げた真似に及ばないかどうかが第一の心配だ。
「何はともあれ、俺は乙女が平穏無事にいることを望もうか……部下が斬られるなんてことになれば、夢見が悪くて堪らない」
そっけない言い方をしつつも、彼が乙女を思いやろうとしているのは普段の様子からして明らかである。
もう少し素直に感情を表すことも大切なのにね。郭嘉は心の中でそう思った。
その夜のことである。賈クは睡眠の時間も削って執務に勤しんでいた。明らかに、乙女が居なくなってから効率が落ちたような気がする。彼女の残していた仕事は彼女の言った通りに引き継ぎが済まされているし、賈クの仕事量が増えたわけでもない。
どうにか、戻ってくれないものか。賈クが欠伸をした瞬間だった。
「賈ク様、こんな時間まで何やってるんです」
いつの間にか開け離れていた窓から身軽に部屋の中に飛び込んできたのは、乙女だった。
「おいおい、なんであんたが……って血まみれじゃないか」
突然の、思いもよらぬ来客に賈クは腰を抜かしそうになる。ましてやその相手が真っ赤な血で装束を汚しているのだから尚更だった。極めて冷静に装ってはいるが、眠気が吹き飛ぶほどの衝撃だ。今まで見てきた彼女とは違い、髪型も化粧も趣向を凝らしたものになっている。その美しさと血みどろ姿の差は卒倒しそうになるくらいだ。
「勢い余って、旦那様のことを殺しちゃいましてねえ」
「はあ?」
結婚すると告げた時と同じように、重大な事柄をなんでもないように語る。賈クは空いた口が塞がらなかった。
「ほら、丁度謀反の噂が出ていましたよね? 私はずっと前からそれを知ってました。けれど私のような小娘が簡単にその証拠を手に入れられるわけがない。そこで結婚に持ち込んで証拠を掴んだのですよ。糾弾しようとした所抵抗されたので、首をコレで一突き。使用人は誰もいないのですんなりと終わりました。私がクビにするように促したのですけどね」
「それ、俺があんたにあげたものだろう……嫁に行くってのにそんなものも持ち込んでたのか」
乙女の潔白と結婚の真意、そして返り血を浴びた凄まじい姿と次々に理由が明かされるが、賈クの口から出たのは彼が贈った短剣についてだった。麻痺しているのだ。一人くらい暗殺した程度では動じない。それほどの汚れ仕事を今まで任せてきたのだから当然ではある。だがもっと他に言うことがあるだろう。賈クは自分で自分にそう言い聞かせたが、目の前の状況を飲み込むのと自分の疲労とが相まって的を得たことを言葉にすることが出来なかった。
「まさか、私が賈ク様のことを裏切るわけはないですからね。賈ク様に頂いたものは全部まだ持ってますよ。これ、お土産です。」
手渡された書簡には、乙女の婚姻相手の名前の他、数名と連絡を取っていたこと、謀反の噂が本当であるということを匂わせる内容が書かれていた。
「……あんたが俺を裏切ってなくて、本当に助かったよ」
過ぎた部下かもな、と賈クは思った。まさか初めから証拠を掴む為だけに結婚までこぎ着け、家中の支配権を握り、愛を賜った人間を躊躇なく殺すとは。
「賈ク様にも気づかれないまま終えるとは思いませんでしたけどね。まあ、どんな汚い手を使ってでも目的を達するのは貴方様も同じ。益々貴方様の部下に相応しくなったと思いませんか?」
それもそうだ、と賈クは小さく笑った。
「あの男は哀れなものです。私に騙されていたことに気づかずにいたのですから」
高らかに乙女は声を上げて笑った。恐ろしいこった。こうも俺に似るかね。賈クはそう思いながらも、自らの高揚を隠せずにいた。
何せ、血に染まった彼女が麗しく見えたもので。
「仮初とはいえ、あんたの晴れ姿を見られなかったのは残念だった」
ふと口から出たのはそんな言葉だった。血染めも良いが、着飾った姿ならなお美しいことだろうと思っての事だった。
「別に、今からでも責任を取ってくれても良いんですよ? 私の晴れ姿が見たいなら、ですけど」
晴れ姿を見せるために責任を取れときたか。つまり、好きでもない男と結婚した責任を負うつもりがあるならば、自分と結婚しろ、と乙女は言いたいのだ。
「まあ、それも悪くは無い」
彼女が自分の傍に居てくれるのならば、それで。彼女が居ないことがどれほどの不調をもたらしていたのか、賈クはもう無自覚ではいられない気がするのだった。
(20240326)