最後の晩餐
月の光が射し込む静かな部屋で、二人の女が杯を傾けていた。風の音も、虫の声も聞こえない。これ以上ないほどの、静かな夜だった。
「王異様……そろそろ控えられたほうが」
乙女は主君を制するも、王異はそれに答えなかった。それどころか、もっと酒を注いでとでも言いたげに乙女を見つめるだけだ。
王異の顔は素面と何ら変わりはないが、既に乙女よりも何杯も多く酒を体に収めている。この細身の体でなぜ呑み続けられているのか、乙女は不思議で仕方がない。
が、乙女は王異の意思に抗う術を持っていない。仕方なく杯に酒を入れた。
「あなたとこうして過ごすのは、これが最後だから……」
酒を煽りつつ、王異はそう呟いた。その目は潤んでいるようにも見える。声も落ち着いてはいるが語気が弱々しい。彼女にしては珍しいその姿を乙女は目に焼き付けようと見つめた。王異の言う通り、こうして二人で夜を過ごすことが出来るのはこの日が最後だった。
「王異様……」
乙女は魏軍の参謀になった王異の副官だった。王異が乙女のことをどう評価しているのか、乙女自身は分からなかった。直接本人の口から聞いたわけではなかったからだ。
しかし王異は公の場以外でも彼女のことを気に入っているということは明らかだった。そうでなければ、二人きりで夜を過ごすなどありえない。そう王異を評した者も居た。
「私、あなたのことを正しく祝える自信が、ないの。それこそ、酒でも呑んでいないと……」
明日は乙女の婚礼の日だった。乙女は王異ほど高い地位に就いているわけではない。王異の力をもってしても、夫になる人間の要望である、家庭に入るということを拒むことは出来なかった。
王異の傍に居るのは、乙女にとってかけがえのないことだった。復讐に活きる彼女が存外思慮深いことも、聡明であることも、信じられないほど酒豪であることも……傍に居ないと知る由もないことばかりだった。その日々が今、終わろうとしている。
明日に迫った婚礼の準備が疎かになってでも、王異とこうして晩酌したいという思いが、乙女にあった。それほどまでに、乙女は彼女のことが好きだった。
「祝ってくれなくても、構いません。ただあなたの傍に私が居たということを、少しでも覚えてくだされば、それで……」
杯を静かに置いた王異は、乙女へ腕を伸ばす。そのまま背中に手を回せば、乙女の体は容易に引き寄せられた。
「乙女」
乙女の落とした杯が、床に落ちて割れる音がした。入っていた酒が、王異の衣服を濡らす。
しかし王異はそんなことを気に留めないようで、黙ったまま乙女の首元に顔をうずめた。
乙女はどきりとする。王異の表情は、今までに見たことがないほど美しいものだったからだ。
「愛してるわ」
胸の鼓動がうるさいほど聞こえた。
その言葉は、酒に酔って発した戯言かもしれない。それでも、今だけはこの言葉を信じて浸っていても許されるはずだ。明日が来ないことを祈りながら、乙女は黙って目を閉じた。
(20231220)