まぶたの薔薇は今も青い
「乙女殿も魏の出身だと聞いた。……あなたも丞相の志に導かれたのだろうか」
初めて姜維と話した時のことを、乙女はよく覚えている。犬のようだ、と思った。それは忠犬である、健気で賢いものの象徴であるという意味合いではなく、諸葛亮の後ろを何の疑いもなく着いていく様子が心底滑稽だと感じたためである。
乙女もかつては姜維と同じように、魏の人間として戦っていた。姜維が諸葛亮の計略によって降らざるを得ない状況に持ち込まれたことを乙女は知っている。それは才のある彼の力を欲したがゆえだ。諸葛亮は彼の才しか見ていない。彼が母親を一人残してこの国にやってきたことも、その母親がいる国を攻めようとしていることも、諸葛亮はそんなこと気にするまでもない些事だとしているのだろう。どうせ三国が蜀の旗のもとに統一されるのだから、などと途方もない夢を見続けているのだ。
それなのに姜維は、盲目的に諸葛亮のことを慕っている。何が仁の世だ。理想を掲げながらも罪のない人々を終わりのない苦しみに陥れている男なのだ。乙女は諸葛亮の卑劣さも姜維の無神経さも腹立たしいとしか感じなかった。
乙女は蜀の将として戦ってはいるが、心は未だ魏にあると思っている。あの時降伏などせずに首を掻き切るべきだった。それとも姜維のように自分が簡単にこの国の掲げる志やらに心酔するような人間であれば。こんな思いをせずに済んだはずだ。乙女は姜維を睨む。同郷だからと言って気安く心を許せるような男ではない。自分を嫌う蜀古参の将は姜維に対しても常に彼を蹴落とそうと目論んでいる。だから姜維は、躍起となって自分に近づこうとしているのだろうか。傷の舐め合いなど、考えたくもない。そんなものは間違っているのだ。自分には気を許せる人間など、いない。姜維でさえその枠に収まることはできない。この国の誰も、自分を飼い慣らすことなどできない。乙女は強情な人間だった。
「……私はそんなのじゃない」
眉間に僅かな皺を寄せて吐き捨てる乙女を見て、姜維は少しだけ慌てたような素振りを見せる。だがすぐに平常心を取り戻したのか、つれない返事を投げかけられたにも関わらず彼は淡く微笑みを浮かべていた。
「私も初めはそう思っていた。だがきっと、あなたにも分かる時が来るだろう。それは今すぐに、という話ではない。けれどもいつか、仁の志はあなたにも受け継がれるはずだ。あなたののことを見ていれば分かる」
「姜維殿には私のことは分からない。私は魏の人間として死んでいきたいの。あなたとは違う」
「……魏の築こうとする世では全ての人を幸せにすることなどできない。かの国の思想は、今もなおあなたの内にあるようだが、寛解する日が来るはずだ。長い時間がかかろうとも……全ての人は仁のもとで生きるべきだということを、あなたは知ることができる……この地にいる限りは」
なんて無責任な言葉なのだろうかと乙女は思った。自分の理想を人に押し付けても得られるのは大きな犠牲だけだ。まさに諸葛亮が姜維にそうしたように。姜維が国許に母親を残しているということ以上のことを乙女は知らないし知るつもりもなかったが、彼ほどの人ならば許嫁くらいいてもおかしくはない。一人の降伏というものは巡り巡って多数の代償を産む。降伏し今の立場を得ている乙女はそれをよく知っているつもりだった。彼女の降伏を知った上官は他にも蜀に逃げ出そうとする人間がいるのではないかと疑心暗鬼になり、彼女と親交の深かった同僚を誅したとは風の噂だ。
仁を盾にして人を弄んでいる諸葛亮はやはり信用できる男ではなかったし、そんな男に酔っている姜維のことも自分にとっては敵同然だと乙女は思った。本当の意味での味方は自分にはいない。魏で今も懸命に戦っているであろう想い人のところに、帰れるものならば帰りたかった。
「なぜ。私よりも見合っているお方がいるはずでしょう」
「あなたでないといけないのだ。これは丞相のご意志などではない。私がそうしたいと感じている。実際のところを言ってしまうと、これは丞相ですらも良くは思わないだろう、それでも……あなたが良いのだ、私は」
姜維直々に頼み事があるというから何だと思い、乙女が渋々出向くとそれは彼本人からの求婚だった。突然のことに思考が追いつかない。それでも冷静さを取り繕って姜維を見遣ると、僅かに頬を赤く染めていた。少なくとも乙女にとっては初めて見る表情だった。こういう顔もするのか、と驚くしかなかった。
訳が分からない。姜維とは仕事を通じたやりとりの他にはほとんど会話を交わした覚えなどなかったし、自分がそうであるように姜維も自分のことをよく思っていないだろうとばかり思っていた。乙女が何も言えずに黙っていると、姜維はいつか見たように微笑む。何の濁りもない瞳がそこにある。残してしまったものに固執する自分とは異なる、苦しみを知っているはずなのに輝き続ける瞳がそこにある。目を背けてしまいたかった。
「あなたが愛した魏を、あなた自身が胸を張って歩けるようになるまで、私は戦い続けよう。それまで……私はあなたを守り続ける。私は何者にも屈さない」
「魏を侵そうとする人間が、良く言う」
「だが私達が魏に帰ることなど許されない。かつての故郷を私達が歩むには、そこが私たちのものである必要がある」
「仁に染まった魏なんて、私はいらない」
「仁の志は誰にでもあるもの。それを表す手段を彼らは知らないだけだ」
話が平行線のまま、何の解決にも至っていない。乙女は辟易する。彼を言い負かそうとしているのではなく、単純にこの国の志とやらが気に入らないだけなのだ。それを知らないはずはないだろうに、この男は執拗に迫る。このまま続けていても埒が明かない。自分が折れる形になるのは気に入らなかったが、乙女はそれよりもまず問い詰めなければならない本題を追求することにした。
「……なぜそうまでして私を妻にしようと望むの。分からない。……あなたは蜀古参に連なる将の娘とでも結婚するべきでしょう。それがご自身の立場にふさわしい生き方というものでは」
諸葛亮でさえ良くは思わない。その一因は乙女が魏の人間だったというところだろう。この国の中には、国のために尽くそうとしている彼のことですら良く思っていない人間も多くいる。諸葛亮の全てを受け継ぎ懸命に働く彼でさえそうなのだから、蜀への不審感を隠そうとしない乙女は当然よく思われていない。この状況でわざわざ彼女と婚姻するなど自分から死地に飛び込むようなものであるのだ。諸葛亮の意思を継ごうとしている彼ならば尚更、避けるべき選択のはず。けれども彼はそうしなかった。
「あなたを救いたいからだ。見えない鎖から解き放たれるべきだということ……それに気づいていないのはあなただけだ」
「あなたに私は救えない、永遠に。今でも瞼の裏には故郷と愛しい人がいる」
「そうだとしてもだ。私はいつまでもあなたのことを愛し続けるだろう。例えあなたが他の人を想っているとしても……いつか必ず、私のことが好きだと思ってもらえるまで……」
そう言って姜維は、急に黙りこくってしまった。やっぱり、どうして姜維が自分のことを愛しているのかは分からないと乙女は思った。けれどもこの縁談を突っぱねる気にはならなかった。
ありのままの自分を否定しないでいてくれるということが、乙女の琴線に触れたのかもしれない。彼もどこかで、乙女の持つ何かを感じ取っていたのかもしれない。初めて会った日を除いて、その後彼の口から魏に対する憧憬を否定されたことは一度もなかった。乙女がどれだけ姜維に悪態をつこうとも。
忘れずにいることはできない。けれどもやはり、どんな手を使うことができたとしても、あの地に戻ることは不可能なのだ。戻るにしてはこの国に居すぎている。彼のことをきっぱりと拒絶することができないのが何よりの証拠だ。こんな自分を真っ直ぐに見つめてくれる人間など、この国には居ない。目の前にいる男以外には。
ごめんなさい。故郷の想い人に対して乙女は懺悔する。いつか一緒になろうと約束したことに自惚れたのは自分だけではなかったはずだ。だがそれは叶わなかった。今何をしているのかすら知ることもできないまま、時は過ぎていく。
中途半端で何者にもなれずにもがき苦しんでいる。故郷と想い人への渇望や罪悪感は雁字搦めとなって離れてくれない。姜維はもう何も言ってはくれなかったが、伸ばされた彼の指が肌に触れた。涙など出ていないのに、拭うかのように指の腹が目元を撫でる。本当は声を出して泣きじゃくりたいくらいだったが、そうしてしまうのは情けなくてできなかった。それに、一度でもそうしてしまうと、本当に故郷のことを忘れてしまいそうだった。
「……眠れないの」
もぞもぞと体を動かす度に、敷布が擦れる音がする。乙女は横で眠れずにいるであろう姜維の方には顔を向けることなく、天井を見上げつつそう言った。姜維は寝返りをうって、冴えているままの瞳を乙女の横顔に向けた。
「……その通りだ。あなたの前では、嘘などつけないな」
自分以外の人間が彼の妻としてここにいたならば、彼は嘘をついていたのだろうか。……いや、そんなはずもないだろう。姜維は誰に対しても嘘などつかない。馬鹿だ、と形容したくなるほどに一直線で、自分が傷つくことへの恐れなど微塵も抱いていない。それは己の身のことだけではない。身体の奥深くにある、誰にも触れることなどできない心も同じだ。誰に何を言われようとも考えを曲げることはないし、嘘をついて妥協するくらいならばたとえ折り合いが悪くなったとしても真っ向に立ち向かう。そんな男なのだ、彼は。
そんなことを考えてしまうほど、彼と共に過ごした年月は乙女にとって長いものとなっていた。もう彼のことを昔のように、諸葛亮に踊らされていただけの滑稽な男だと蔑むことはなくなった。
「あなたはかつて言った。……瞼の裏には今も同じ景色が広がっているのだろうか」
「……今も同じよ」
乙女は嘘をついた。本当は、あれだけ焦がれていたはずの想い人のことはもうほとんど思い出せなくなっている。故郷の記憶はある。だがそれはまるで遠い夢のようだった。その中で唯一、曹魏の青い旗印だけがやけに鮮明だった。敵陣に見えるそれではない。もっと近くにあったそれだけはずっと、死ぬまで離れてくれない気がするのだった。
「私は……分からない。今まで私は何を見ていたのだろう。目を閉じれば、浮かんでくるのは戦いのことばかりだ。恐れているのではない。私には立ち止まっている暇などないのだから。だが……」
「だが?」
「……いや。何でもない。いい加減に、眠らなければ。明日の朝も早い。あなたも決して、無理はしないように。あなたに何かがあれば私は耐えることなどできないだろうから」
姜維は再び寝返りをうって、乙女に背を向けた。乙女はというと、未だに目を開いたまま何もない天井を見上げている。
「姜維殿」
「……どうかしたか」
「愛しています」
「……私もだ」
姜維の表情は乙女からは見えない。だがどんな顔をしているのか、容易に想像することができた。
最も、諸葛亮が亡くなってからは二人で語り合う時間も減った。彼の笑顔も久しくは見ていない。たまにふとその堅苦しい顔が綻ぶ瞬間はあるが、あの日彼から求婚されたときのようなものとは毛色が異なっているように乙女は思う。本当の意味で平穏が訪れることも、きっとないのだろう。
姜維はかつて言った。「あなたは解き放たれるべきなのだ」 と。
もう自分は、全てのしがらみから解放されたのだ。乙女は姜維の静かな寝息を聞きながらぼんやりと考えた。そうでなければ終わりのない北伐で命を燃やすようなことはしない。けれどもそう言った彼こそが、死者がかけた呪いの中で生き続けている。そうやって生きることしか許されない状況を、当然のものだと享受している。心底気味の悪い。昔の乙女ならば躊躇うことなくそう言っていたはずだった。それを言えないのは、姜維のことを知らずのうちに愛してしまったからだ。誰に指摘されるまでもなく、分かってしまったことだった。初めから途方のない夢なのだということくらい、知っていた。それでも彼を止めることができないのも、やはり彼を愛しているからなのだろう。いつからこうなってしまったのだろうか。きっかけなど、何もなかった。
乙女は目を閉じた。ぼんやりと、青色が広がる。昔はもっと、はっきりと思い出すことができていたはずだ。人の記憶というものは曖昧で不完全だ。
やはりあの時、この国に降る前に己の心の臓に刃を突き立てるべきだった。乙女は毎日のようにそんなことを考える。そうすれば、姜維が先の見えない苦しみを苦しみと思わなくなるまで戦い続ける姿を見ることもなかったのだから。仁の志なんてこの世には存在しない。仁の世のために尽くしている彼がその恩恵を受ける日は、きっと来ない。諸葛亮もとんだ置き土産を彼に残したものだ。
乙女はもう一度「愛しています」と言った。寝入っている彼からの返答はなかった。今夜は寝苦しい夜になりそうだった。
(20240930)