右手があなたを知ることはない
戦いに出る以上、怪我を免れることなど不可能だ。そう覚悟は決めているものの、だからと言死というものを恐れる気持ちが消え去っているわけでもない。中にはそのような人間もいるのかもしれないが、乙女はそうはなれなかった。
そこが、甘いところなのかもしれない。乙女は感覚がなくなってきた右腕をぶらぶらと揺らしながら天幕に入る。やっと一人きりになったことに安堵したのか、そのままふっと力が抜け尻もちをついた。この場に誰も入ってこないという確証はないため、ずるずると奥の方へと移動する。たとえこの狭い空間の中とはいえ、堂々と立っていられる心の余裕などなかったから、隠れるように角のほうへと移動した。できるならば誰にも会いたくなかった。
奇襲部隊の一員として動いていたものの、運悪く放たれた弓は乙女の右腕に深く突き刺さった。 その反動で武器を地に落とすという武人としては致命的な行いの後、死にもの狂いで退却した。初めて、彼女が明確に死を意識した瞬間だった。
忙しく動く衛生兵に詰めかけ右腕に刺さったままの矢尻を抜いたものの、今までに負った怪我とは比べ物にならないくらいに血が吹き出たし、奥まで刺さったそれには毒が塗られていたようだった。薬を塗りたくって包帯を巻いても痛みと痺れは右腕全体を襲い、今に至ってはもう腕の感覚すらないのだった。
これはもう駄目かもしれない。乙女の表情は重い。怪我のことだけではなく、まともに顔向けすることはできないだろうということが、さらに彼女を暗く沈ませた。何を言われるのかなど容易に想像がつく。止血のためにきつく包帯を見ると、もう白かったはずのものは真っ赤になっている。手当をした人間による見立てではもう回復は難しいのではないかということであったが、早く凱旋して典医の正確な判断を仰ぎたいものだった。
「乙女」
名を呼ぶ声が聞こえる。顔向けできないなどと考えた途端にこれだ。乙女は己の不運を呪って、うずくまったまま顔を伏せた。声の主である男のことを嫌っているのではない。むしろその逆だ。だからこそ今は会いたくなかった。
「毒矢を受けたと聞いた。私に見せてみろ」
天幕に遠慮もなく入り込んできたのは紛れもなく鍾会だった。相変わらず傲岸不遜な物言いと振る舞いをする。これが鍾会でなかったら乙女は力を振り絞って追いやっていたのかもしれないが、そのようなことをできる相手ではない。
乙女は彼の「お気に入り」だとされていた。言葉遣いや向ける態度はその他の有象無象に向けるものと何ら変わりはなかったが、人々はそう噂している。気難しく気に入らない部下をすぐに追いやる鍾会にしては、彼女を重用している期間というものは随分長い。けれどもそれ以上の浮いた話が漏れ出ることもなく、乙女はむしろあんな男の元でよく働けるものだと同情されることもあった。
部下には存外優しいものだ。乙女はずっと鍾会のことを見ているから、それくらいのことは分かる。だが鍾会のことをこれ以上もないほどに慕っているからこそ、面と向かって彼と相対するのが苦痛でしかない。
「……申し訳ありません」
鍾会はへたりこんだままの乙女を見下ろし、真っ赤になっている包帯を見て顔を歪めた。その他にも細かな傷が存在しているということが目に入ったのだろう。潔癖な傾向のある彼のことだから、不快感をわざわざ隠そうともしなかった。 敵を作りやすい彼の傍にいたのは、彼が歩むべき栄達の道をこの目で見届けたいからだ。それを絶たれるのだとしたら、この世には何の未練もないと言い切ることができるほどに、乙女は鍾会に陶酔しきっている。けれども今となっては鍾会が向ける視線が痛かった。
「腕が動かないらしいな。とんだ無茶をする」
「その通りです。全ては私の甘さがゆえ」
「……だからお前は、戦うべきではないと言ったんだ」
やり場のない怒りを乙女にぶつけるわけにもいかず、それでも鍾会は毅然として立っている。彼女の腕に触れ労るようなことはしない。必要以上に気遣うこともしない。それでも乙女は、やはりこの男は周りが認識しているよりも優しいものだと思った。この男の本当の優しさは、自分だけが知っていればいいのだ。
「私は貴方が掴むべき未来を、この目で見たいのです。貴方のすぐ隣で。それは邸の中で帰りを待つだけでは到底務まらない。何よりも、私自身が満たされませんから」
真実だった。鍾会の先の言葉には、その言葉以上に深い意味が隠されている。それに気が付かないほど乙女は愚かではない。しかしながらそれを今肯定するわけにはいかなかった。そうしてしまえば、今まで固辞していた意味がない。全てが終わってからでないといけないのだ。
「どの道それが治らないのならば戦場に立つことは叶わない。お前は私の無事だけを祈っていれば……それだけでいい。考え直す好機だとは思わないのか」
「私は欲深い女ですから。知っているでしょう。それだけ、では足りないということを」
ありふれた淑女のように部屋の中で彼の帰りを待つだけの人生など、なんてつまらないものだろうか。乙女は青白い顔を上げて、不敵に笑う。彼の願いが成就する瞬間を、見逃すなどできるはずもなかった。
「……馬鹿な女だ」
「けれども、そんな馬鹿な女に焦がれているのですよ、貴方は。だから、私を囲おうとした」
「今度こそ……お前を私だけのものにしてやろうか。お前は自分が誰のものなのかを分かっていない。だからこうして軽率な行動に出る」
「私はもうとっくに鍾会様のものですよ。同時に、貴方も私だけのもの」
「当然だ。だからこそ言っている。……来るべき日、私の隣にいることを許すのはお前だけだ」
鍾会は妙に恭しく跪いてから乙女の右手を取った。自尊心の高い彼が膝を着くなど、乙女以外には見せない、普段ならばありえない姿だった。指の先に至るまで、未だに感覚は戻らず自分のものではなくなってしまった気がする。温もりは確かに存在しているはずなのに、彼が触れているのは自分以外の女の手であるような錯覚を覚える。乙女はもっと彼の手に触れておけば良かったと今になって後悔した。
手の甲に鍾会の唇が触れる。彼らしくない仕草。乙女はこんな状況であるにも関わらず笑みを零した。
やっぱり、馬鹿な人だ。それはそのまま同じ言葉となって乙女にも返ってくるのだということを、知ってか知らずか彼女は思った。
「これ以上、私を狂わせるな。お前のせいで私は……どうにかなってしまいそうだ」
大人しく囲われているほうがかえって彼のためにはなるのかもしれない。素直でない性分であるから表立って慈しみの言葉をかけることはこれからもないのだろうが、乙女が危険に晒されるような状況を最も望んでいないのは彼自身だ。
第一乙女自身が戦うことを望んでも利き手が欠けたままでは何の役にも立たない。鍾会の溜飲を下げるに値する乙女の行動とは、彼女が大人しく邸にいることだ。……鍾会の妻として。
「どうにかなってしまっても、私はいつまでもお傍にいますよ」
「……ならば自分の立場を弁えろ」
彼の瞳が仄暗い怒りに染まっている。そうなるだけのことをしてしまったのだから、彼を咎める術や資格はない。
だが、理由はどうであれ鍾会もこうして自分に執着し続けているのだという事実は、乙女を微かな悦びへと昂らせた。それを表情に出すこともなく、鍾会の言葉に対して黙って頷く。
やっぱり、囲われるだけのお姫様になっても良いのかもしれないと乙女は思った。武人としての自分だけではなく、ただの女としての自分を見つけ出してくれたのはこの人のほかにはいないのだ。
「左手、繋いでくれませんか」
「なぜ」
「右手が貴方を知ることはもうありませんから」
「……まだ分からないだろう。私は全力を尽くす。お前も着いてくるんだ」
「治ればまた戦いに出るかもしれませんよ、私は」
「それとこれとは話が別だ。既に分かっているだろう」
鍾会は乙女の右腕をゆっくりと下ろした。反して、左手首を掴んだかと思えば勢いよく引っ張るようにして乙女を立ち上がらせる。優しいのか優しくないのか、二人以外の人間が見たならば釈然としない動きだった。
「衛生兵など当てにはならない。私がもう一度その怪我を手当してやる」
「鍾会様、人の傷を見るのが嫌だっていつも仰っているのに」
「……お前だからいいんだ。……こんなこと、私に言わせるな」
そのままの勢いで歩き出す鍾会に引きずられるようにして乙女もまた歩き出した。手首ではなくて手のひらを握ってほしいのだ、とは言わなかった。
(20241002)