祈りも願いも胸の痛みも
「比翼連理……あなたとはいつまでも睦まじくありたいものです」

「ひよく、れんり……?」

「夫婦仲が良い、ということの例えです」

「比翼連理。……夫婦仲が、良い……」

乙女は荀攸の言葉を反芻する。その声色は幼子のようにたどたどしい響きを持っている。それでも荀攸は彼女の無知を責めることもなく、淡々と話すだけだった。

「初めて聞きました、そのような言葉……私、知らないことばかり」

「構いません。あなたに分からないことがあっても、俺がその意味を伝えればいいだけですから」

「荀攸様……」

「何であれ、あなたが俺の言葉を聞いてくださる、ということが何よりも嬉しいものです」

「……そういうものなのですか」

「はい。俺はあまり……率直に気持ちを伝える、という面に関しては得意ではありませんから。……あなたを退屈させてしまうこともあるでしょう」

「……私、あなたの言葉を聞くのが好き。退屈なんてしていません」

「……それならば、喜ばしいのですが。……そろそろ帰りましょうか。暗くなってからではいけません」

「はい……」

二人が夫婦になってから少しの時が過ぎたが、彼女には分からないことが多かった。今だってそうだ。荀攸が発する言葉は難しくて、何を伝えたいのか正しく読み取ることができないと感じる時がある。その度に無知を恥じる乙女だったが、そんなことをしていてもきりがないのだと感じるようになったのはいつ頃だっただろうか。

彼女はこの国の生まれというわけでもないから、ある意味当然なのかもしれなかった。元の国に帰れずに嘆いてばかりだった学のない女を好いて、その上妻にする。聡明な彼は、乙女という女のどこを好いているのか。彼にとって、随分と不相応ではないのか。人々がそう噂をしていたことを乙女は知っている。彼女自身もそう考えたこともあるが、結局聞く勇気が生まれたことはなかった。荀攸も己の全てを妻にさらけ出すような男ではなかったし、乙女もそれをどこかで感じていたから何も言わなかった。けれども不思議と、荀攸といれば望郷の念は薄れるのだ。彼と共にいないことを選ぶ理由など乙女にはなかった。少しでも彼の隣に立つ女として堂々と振る舞えるようになりたいと思う彼女だったが、そう上手くはいかない。荀攸はそんな彼女に対しても、何も言わなかった。ただ隣にさえいればいいのだ、と言わんばかりに毎日を過ごしている。






「近頃、どうしてか右手の指先が上手く動かないのです」

「指先、ですか」

「はい。……感覚が、あまりないと言えば良いのでしょうか。……お医者様に診てもらって、良くなればいいのですが」

荀攸は妻の体の不調にも動じることはなかった。過剰に心配することもなかった。だが乙女はそんな夫を見て、寧ろいつも通りに振舞ってくれていることを嬉しく思う。いつも荀攸の言葉をそのまま自分のものであるように受け止めていることが多かったから、彼が取り乱したならばその影響もそのまま受けてしまうだろう。つまりは彼の気が動転すれば平静を保つことなど不可能に近いだろうと感じていた。荀攸が冷静でいればいるほど、安堵がもたらされるのだった。

「対処は早いうちにするべきです。……俺が付いていますから」

「はい……」

荀攸の指先が乙女のそこに触れた。やっぱり、感覚はなかった。強く摘まれても痛みは感じないのだろうかと思った。

乙女は荀攸の計らいで、すぐに腕の良い医者に診てもらうこととなった。だが医者ですら有効な解決策を提示することはできなかった。病の原因は分からないが、病であることには違いない。だがこの症状は治るどころか、今度はまだ感覚のある箇所が傷んでくるだとか、同じように何も感じなくなったり、動かすことができなくなってしまうだとか、何一つとして乙女を安心させるような言葉を医者が紡ぐことはなかった。不安を煽るだけで、治るのかどうかは明らかにならなかった。

「荀攸様」

乙女は医者に言われたことを額面通りに受け取っている。だがその表情はこの症状に悩まされる以前と変わらないように見えた。

「他の医者にも診てもらいましょうか。一人の言葉に頼るのは危険です。複数の知見を得なければいけません。その上で最善を選びましょう」

「はい……でも、」

「でも?」

「荀攸様の言葉に頼るのは、許されますよね」

「……俺を買いかぶりすぎではありませんか」

「だって、あなたは何だって教えてくれる」

「……俺にも分からないことはあります。あなたにすら言えないことだって……存在します」

「言えないこと?」

「さあ、早く休みましょう。無理をして動けばさらに体に不調を呼び起こすかもしれません」

「はい……」

荀攸は何かを隠している。乙女にさえ、言えないことがある。そういった予感を、ずっと前から感じていた。強引に乙女を寝台に寝かせようとする荀攸にも黙って従う彼女であったが、その予感がやっと確信に変わった。それでも今更、この期に及んで何を隠しているのかを追求するほどの意欲が残っているわけでもない。乙女は素直に目を閉じた。そうして日々は過ぎていくのだ。






「……荀攸様」

荀攸が部屋に帰ってきた途端、乙女は彼の名を呼んだ。いつもと同じように呼んでいるようにも、焦燥や悲嘆の念が含まれているようにも感じられる。そんな声だった。

「何かありましたか」

寝台から起き上がり腰掛けている状態の乙女の目には涙が浮かんでいる。今まさに零れ落ちようとしているそれを見る荀攸は何でもないように装ってはいる。だがささやかな驚きを感じたのか、彼にしては性急な動きで彼女の目元を指先で拭った。

「私、怖いのです。これだけ長い間、多くの人に診てもらっているのに何も分からないなんて。これからがどうなるのかも分からない。荀攸様にずっと迷惑をかけている……こんな、体が不自由で、今となっては片目も見えなくなってきている。荀攸様に頼りきってばかりで、私……」

「ゆっくり、話しましょう。無理に話してはいけません。息を整えましょう」

乙女を蝕む原因不明の病は、ゆっくりとだが、確実に進行していた。指先だけでなく腕全体を自分の意思で動かすことはできなくなった。それだけでも乙女を大きく苦しめるものであったが、近頃は右目の視力も失われつつあった。右腕の状態も相まって、その事実は暗い影を落としている。

肌に触れ直接拭ってもそれだけでは留めることなどもはや不可能な程に、荀攸の指先は乙女の目から落ちる暖かい涙でじわりと濡れていく。もう片方の手で背中を撫でる荀攸だったが、乙女の抱える悲しみは簡単に癒えることもない。何をしても気休めにしかならないのだ。

「……荀攸様だけが、私のような女を家に置いていることを誹謗されるのです。今までも……私、見てきました。でもこれからはもっと……こんな何の取り柄もなくて、後ろ盾もなくて、さらに体がおかしい女なんて……あなたに支えられることでしか、私は生きていけない。あなたにふさわしくありたいのに。同じように、対等でありたい、それだけなのに」

ぼろぼろと、涙と共に乙女の唇からは思いの丈が吐き出される。夫婦になった時から、いや、なる前からだ。ずっと彼にとって自分の存在は本当に必要なのだろうか、見合っているのだろうかと考え続けていた。そんな彼女であるのだから、自らの体が病魔に侵されつつあるということはまさに自らの存在そのものを揺るがす事態であるのだった。ただでさえ、荀攸がいなければこの広い地で生きることなどできないくらいに何も知らないのだ。広い地ならいざ知らず、この狭く屋根に覆われた何の危険もない場所で、自分だけの面倒を見ることすらできなくなってきている。それが乙女の、普段から強く保っているわけでもない矜恃を酷く傷つけているのだった。

「……あなたは、そんなことを考えていたのですか」

いつからか、乙女が気づかないうちに荀攸は背中を撫でるのを止めていた。頬を滑る指が離れる。乙女はやっと荀攸の表情を左目に映した。

「それならば話は早いです。……もっと早く言ってくださっていてもよかった。俺は初めから覚悟していましたし……何よりもあなたが苦しむずっと前から、こうありたいと思っていました。……そうですね、こうなればあなたの腕が動かないのは寧ろ好都合です。これ自体は……想定外だったのですが」

「何の、話ですか……あ、」

どちらにせよ、終着点は同じですから。そう呟く荀攸の表情は常と同じようにしか見えない。同じであるはずだ。だがどこかがおかしい。珍しく饒舌に話しだす彼。だがそれだけではないはずだ。その明らかな違和感を解き明かすことはできなかった。しかし、これは自分の無知ゆえ、などではないはずだ。腕が動かないことを、この病のことを好都合だと評すのも、今までの彼の振る舞いや言動とはどこかが異なる。同じ人間であるはずなのに、違う。彼は何を言っているのだろうか、この人は何をしたいのだろうか。乙女はそう考えても、涙が止まらないせいで上手く息を吸えずにいるからなのか、いつもにも増して頭が回らなかった。

荀攸が懐から何かを取り出す。銀色の刃が光を反射して煌めいた。鋭い切先が彼自身に向けられる。それだけで周囲の空気が何もせずとも急激に冷えていくようだ。止めなければいけない、と咄嗟に思い立つも乙女の利き手は動かず、それならばと伸ばした左腕は届かなかった。反射的に目を閉じる。だが、薄く開いた瞼は驚きで直ぐに見開かれることとなった。

躊躇なく振り下ろされた刃は、衣服をものともせずに通り抜ける。そのまま荀攸の左腕を深く裂いた。伝った血はすぐに衣服に染み込み、さらにぼたぼたと垂れ、白い敷布を汚した。乙女が座る目の前で、一体何が起こったのか。瞬時に飲み込むことなどできなくて、乙女は左手で口元を抑えながら目を見開くしかできなかった。悲鳴を上げるほどの余裕すらない。ただ息を呑む。刹那、時が止まったかのような静寂が訪れた。荀攸は乙女の、もうほとんど見えなくなっている右目を見ている。

「……あなたとそっくりそのまま同じに、とはなれないかもしれませんが。こればかりは仕方ありません。ですが腕の腱を斬ってしまえばあなたには近づけるでしょう」

「な、何をして……」

乙女の声は小さく耳をすませなければ聞き取れないほどだった。病を得てから外出することが少なくなっていったせいかただでさえ白い顔色が青くなる。荀攸は自らの腕を斬り裂いたというにも関わらず涙のひとつさえ浮かべずに、ただ腕から止まることなく流れ出ている血と乙女の顔を交互に見ているだけだった。この人は正気を保っているのだろうか? 保っていないからこそ、痛みを感じることもなくなってしまったのだろうか? 乙女は訳が分からないままにそう思った。目を背けたいはずなのに。自身が愛しているこの荀攸という男のことを理解したいが為に、彼からは目が離せないでいるのだった。

「……以前、比翼連理の仲でありたいとあなたには話しました。比翼の鳥は、一つの翼と一つの眼しか持たないために、雄鳥と雌鳥が隣り合うことでしか生きていけません」

「荀攸様、それ、は、」

乙女が知らなかったことだった。あの時はただ仲の良い夫婦の例えなのだ、ということしか知ることはなかった。荀攸の言っていることは言葉の持つ本来の意味としては紛れもなく正しいものであるが、彼が言っていることはそれ以上の意味が含まれている。乙女はそれを察して、思わず込み上げる吐き気を必死で抑える。荀攸はそれに気づいていながらも彼女が今言おうとしていることには取り合わなかった。

「あなたが俺に負い目を感じているのならば、俺は片腕を斬り落とすことも目を潰すことも厭いません。そうすれば互いが互いの支えなしでは生きられなくなりますから、あなたが気に病むことなどありません。俺たちは……それこそ比翼の鳥のように。木目が重なり一つのものとなった連理の枝のように生きることができる」

語る荀攸は動けずに荒い息を吐いている乙女から決して目を離さないでいる。涙を流し錯乱する妻をものともせずに、彼女の言葉を待つこともなく話し続ける。酒に酔っているかのように、雄弁だった。

「……ずっと望んでいました。あなたと俺は同じです。これからは片時足りとも離しませんし、俺が離れることもありません。……俺たちは自分の意思だけでは生きられない。けれどもいいんです。あなたもそうだと知ることができたのですから。文字通り比翼となりましょう」

病などという障壁がなければ、彼に見合う女として生きられたはずだ。小さな努力を積み重ねることもできたはずなのだ。乙女は、自分がそう考えていたことすら間違いだったのかもしれないと思った。病でなくとも、辿る末路は同じだったのかもしれない。その先は……想像すらしたくなかった。初めから間違いだったのかもしれない。そう信じたくなどない。それでも、だ。

涙の向こう側で、欠けた視界の中で乙女は振り絞るかのようにしてやっと口を開いた。

「あなたが隠していた秘密とは……この事だったのですか」

「秘密は一つだけ、などとは言っていません。ですがもう過ぎたことです。どちらにせよ、俺たちは一蓮托生ですから」

刃が再び翻るのが見えた。それだけだった。

(20241015)
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