強情な運命を説き伏せて
※夢主は人間ではない







「お前からは、いつも良い香りがする」

女の声がする。荀イクは部屋の壁際で微動だにもせず立ち続けている声の主に対して、冷めた様子で返答する。

「……香を焚きしめていますから」

荀イクは書簡を卓上に広げ、女の顔を見ることもなく読み進める。必要最低限の会話だった。女もそれに害した様子はない。ただ指の一本も動かすことなく、荀イクが目で書簡を追う様子をじっと見ている。ただし、興味があってそうしているようではなさそうだった。荀イクが何をしているのかも、よく分かっていないのかもしれない。

「香りなど、気にしたこともなかった。そんなものはなくとも私はここにいるのだから」

「お嫌いですか。この香りは」

「……快か不快か、というものを考えたこともない。だがお前のそれは……不快ではないのだと思う」

女は抽象的で曖昧な言葉遣いをする。出会って長い時間を共に過ごしたわけでもないが、このような話し方しかできないのだろうということを荀イクは知っている。

このような口調でしか会話しようとしないのは、そもそも初めから本気で意味のある会話をしようと思ってなどいないからだろうか。荀イクには女のことが分からない。分からないから、彼も深い意味のある言葉をわざわざ用いようとは思わない。義務感のようなもので、惰性のようなもので会話しているのと同じだった。

「……そうですか」

それきり女は黙った。初めから荀イクしかいないかのように、彼が書簡を動かす音、水を飲む音、筆を動かす音だけが聞こえる。たった一人の音だけが、そこにはある。

この部屋は荀イクの執務室であるから、彼にとっては普段と同じように過ごす権利がある。女のことを目にも入れずに、気にすることもなくいられる権利がある。それが当然であり、女が存在するずっと前からそうしてきたことだ。

それでも、自分ではない何者かがいるという感覚は消えない。見られている意識は嫌でも働く。

荀イクはこの部屋に立つ女……いや、女と呼べるほど成熟していない娘を一瞥して、また書簡へと視線を落とした。知らない間に消えているのではないかとも思ったが女はまだそこにいる。

この女の背は低く、髪の色は人間離れしている。分別のつかぬ幼子のような顔つきをしたいる。多くの人と関わりを持ち生きてきた荀イクでさえも、彼女のような人は見たことがなかった。

実際に、人間という括りの中に縛ることができるような存在ではないのだろう。見た目に似合わない尊大な口調で荀イクを見上げながら、臆せずに話す彼女と出会ったのはつい最近のことだった。人間ではないとしたら彼女は何者なのだろうか。荀イクにさえ見当はつかなかったが、同じ理の中で生きるヒトではないのだということだけを嫌でも理解するしかなかった。

「もういいのか」

荀イクは数刻、この部屋に留まっていた。片付けを終え立ち上がると女が相変わらず背筋をぴんとした姿勢を崩さないままそう言った。ここはあくまでも執務に使うためのものであり普段はこのような所に寝泊まりなどしていない。余程切羽詰まっている時以外は。女の言葉を聞き、荀イクは再び口を開く。

「……やるべきことは終えましたから」

「そうか」

同じような問答を、今までもしている。驚きという感情を持っているとは感じられなかったが、女は荀イクが帰ろうとする度に不思議そうに聞く。この女にとっては数刻など僅か一瞬の出来事なのかもしれない。それならばこの幼女のようや外見の理由としても納得がいく。人間とは違う時の流れに基づいて生きているのかもしれない。

「あなたは……ずっとここにいるのですか。初めて出会ったときから、あなたがどこかに行っている姿を見ていません。……あなたのことが分からない。ただのひとつも」

到底信じ難いことだったが、この女はどうやら荀イクにしか見えることはないらしい。呼吸をする度に薄い胸が上下し、長い髪は僅かに揺れている。彼女が立つ床には影が見える。触れようと思えば触れることもできるだろう。その有り様をはっきりと見ることができるのに、彼の執務室を訪れた人間は彼女の姿を視認しなかった。しなかったのではなくできないという言葉の方がふさわしいようで、驚く荀イクに対しても彼女は何でもないように「私を見ることができるのも話すことができるのもお前だけだ」と言ったものだった。道理は分からない。だがそれが現実なのだった。

「私はここにいる。お前が死ぬまでは。お前の死を見届けることが、私の役目である気がする。今までもそうしてきたから。それが私だから」

「自分の死が間近に迫っているなど、何度聞いても考えられません」

「私は正しい。私は人の死が分かる。ずっとそうだった」

女は死を司る魔物か何かであるとでもいうのだろうか。

荀イクが彼女のことを初めて見たとき、今と寸分たりとも変わらずにここにいたのだった。何者だというのか。荀イクの真っ当な疑問に対してもはっきりと答えることはなかった。ただ確実なことだとして彼女が言ったのは、荀イクは近いうちに死ぬということだけだった。

「あなたは私が死んだのならば、そこでやっとここから消えることができるとでもいうのですか」

「そうだ。私は人が死ぬ姿をずっと見ている。ただそれだけだ。長い間、ずっとそうしていた。お前が死ねば私はここからは消えよう。だがお前の死を見ない限りここにいる」

「それはなぜですか。……私の死を見たいのならば常に私の傍にいればいいでしょう」

「お前がここで死ぬからだ。そうであるのだから私がわざわざどこかに行く意味もない」

「……確かにそれは合理的であると言えるでしょうね」

「私に言えるのはそれだけだ。その他にはなにもない」

分からないことだらけだった。荀イクはこのおかしな幼女から目を離して、部屋を出た。

死というその瞬間になるまで誰もが感じることのできない曖昧な概念についてあのように語られたとしても、だから何だというのだろうか。荀イクは人に何かを言われたからといって自分の考えを曲げるようなことはしようと思わない。例え人に疎まれたのだとしても、自分の考えを貫いてこそ自分という存在が確固たるものであり続けるのとができるのだと信じてやまない。

それが例え自分の未来に直結することであってもだ。死ぬべき運命を手をこまねいて受け入れろというのか。そんなことができるはずがないということを、荀イクは自分自身のことであるのだから良く理解している。

だが運命に抗うとはいかにして成し遂げられるのだろうか。分からないままだ。それでも、何があったとしても自分の干渉できないことを他人に指図されるいわれはないのだ。今まさに、自分の揺るがない思想が軋轢を呼び起こしている。だからこそ余計にそう思うのかもしれなかった。それでも突き進むしかないものであり、そうすることが最善であるとしか考えられないのだった。

荀イクは部屋を出て最後に女を振り返った。一糸の乱れもないその横顔。その瞳は一体何を見ているのだろうか。何も見ていないような気がした。彼女が自分から話しかけた荀イクのことさえも。






女は変わらずにそこにいる。荀イクから話しかけることはほとんどなかったが、彼女のほうはというと自分から荀イクに対し度々声をかけた。たわいのないものが多く、その会話は長くは続かない。女は長く生きているらしい。それにしては物事を知らないのか、口調のわりに話す内容は稚拙だった。荀イクが言葉を返しても女は感情を表に出すことはなかったが、彼との会話を楽しんでいるようでもあった。

「いつもよりも顔色が悪い」

「……気のせいでしょう」

荀イクはそう返したものだが、それはあながち間違いでもなかった。病的なものであるというよりは、精神的な変化のほうが大きいのかもしれない。彼自身もそれは自覚している。内面をさほど吐露したことのない彼女にすらそう思われてしまうのだから、相当な変化なのだろう。

「毎日見ているからだろうか。お前のことが次第に分かってきた。無理をしているように見える」

「……私はもうすぐ死んでしまうとでもいうのですか」

「それは分からない。だが今のお前は随分と思い詰めているように見える。お前を取り巻く何かが変化している。……上手くは言えない。が……お前のそのような姿を見たいとは思わない」

荀イクが思い詰めているのも事実だった。この女に打ち明けたとして、打開策が見えてくるわけでもない。

主君に進言を聞き入れてもらえない。だからといってこちら側が譲歩するつもりもない。その思いは変化することもなく、平行線を辿り続けている。どうすれば良いのかと考えるものの、一向に答えは見いだせず、自らの立場を危うくしている。

それを考えると、死というものも遠くないように荀イクは思った。折り合いが悪くなった主従のうち、従者側ができることなどたかが知れている。そのような状況下で最悪の末路を辿った人間は珍しいものでもない。彼らのことを思えば、自分がその途上に足を踏み入れているということを想像するのは容易なことだった。荀イクの意思はやはり堅いままで、そうであるからこそ、そうあることでしか生きられないからこそ彼は心を痛めている。

女もそれを分かっているに違いなかった。そうでなければこの感情が極端に乏しい彼女が、このような形で声を掛けることはしないはずなのだ。荀イクはふと、この女は同じようなやりとりを、近い将来死ぬ運命にある人間とずっと繰り返してきたのだろうかと思った。随分と哀れだ。死にゆく人間への情がこれまでにも生まれたことはあったのだろうか。だが過去の彼ならばともかく、同情して寄り添うほどの余裕など今はもう持つことなどできなかった。例え彼女から憂慮の感情を向けられたとしても。見せかけの言葉だけではなかったとしても。

「……あなたはそうやって、私と出会うずっと前から人を見てきたのでしょう。あなたは人の疲弊する姿を見るのは慣れているはず。あなたはそこにいるだけ。あなたが私にできることもない。そしてあなたが何を言ったとしても、私の未来は変わらないのでしょう。体調が悪いから、と今休んだとしても、それは気休めにすぎません。あなたの言う通りならば、私が辿り着く結末は初めから決まっているのですから。なおのこと私はこうやって働くしかありません」

受け入れたのではない。それでも初めから決まっているのだとしたら。どうせ何も変わらないのならば。もう何も言わないでほしかった。

「変わらない。そうだ。私はそうしてきたから。人が苦しむ姿など数え切れないほど見続けてきた。しかし……」

「しかし?」

「私はもう見たくなどない。……こう思うようになったのはお前と出会ってからだ。お前が私にそうさせたのかもしれない。お前はなぜ、と、思うのだろう。私には……何も分からない。なぜ私はここにいるのだろうか。分からないままにここにいる。死んでしまえばそれまでのことは無に帰る。だが私は違う。きっと解放されることはない。ずっと同じことを繰り返していた。人の死を見るなど虚しいだけだと知っていながらだ。そして私は、人間の喜びや楽しみを知らないままここにいる」

女の表情は仮面でも付けているかのように、無を映し出している。独り言のように淡々と声を発している。

荀イクは自分の役目を果たしているだけで、この女にかまけてなどいない。何がこの女の思想に影響を及ぼしたのだろうか。そう考える前に荀イクは彼女の目を見つめて言う。女の目は宝石を嵌め込んだかのような色と輝きを放っていた。

「……私はやはり、死ぬことなどできませんね」

「どういうことだ」

「私が生きていれば、あなたが私の傍にいるのならば。喜びを知ることもあるでしょう」

荀イクは自分でもなぜそのようなことを言ったのだろうかと自問したが、女が知らぬ間に荀イクと出会ったことで考えに変化が起こったことと同じ理由であるのだろうと自答した。

「似たようなことを言って死んだ人間も多くいる。私は知っている」

「彼らと私が同じであるという保障などどこにもありませんよ。百回同じ結果でも、百一回目は異なる結果になることがあるかもしれませんから」

女は納得できないとでもいいたげな表情を浮かべた。そのような顔を見るのは初めてだった。どうせなら笑えばいい。思わずそう思ってしまうのだから、荀イクは自身が思っている以上にこの女に対して情が湧いてしまっているのだと感じた。彼女を無理矢理この部屋から連れ出してしまえば、どんな反応をするのだろうか。








「それはなんだ」

「何だと思いますか。あなたは長い時を生きているのでしょう。ある程度の察しはつくのではないでしょうか」

「私は人を見ているだけだ。意志を持たないもののことはあまり考えたことがない」

極限状態であるというのに、口は回る。不思議で仕方がなかった。心の内を誤魔化したいがための行動かもしれない。世間のことを知らぬこの女であっても、話す相手がいないよりはましだ。いや、この女だからこそ話し相手となってもらおうと思っているのだ。荀イクは空の箱を女に見せる。

「何も入っていません。ここには」

「何も入っていないものを抱えて、お前は何をしたい」

「単純なことですよ」

「はっきり言わないと、私は分からない」

女は何も知らない。人間の用いる言葉の綾、物事の裏に隠された真の思いも知らずにいたのだろう。わざわざ尋ねるようなことはしなかったが、こうして生者と話すこと自体、彼女にとってはそう多くなかったのかもしれない。見ているだけだったとしても、もっと知識は備わるはずだ。彼女からすると荀イクと出会ったことそのものが変則的なことだったのかもしれない。それならば、やはり成し遂げることは一つだ。荀イクは箱を置く。

「私はどのように死ぬのだろうかと夢想した日もありましたが。こういうことだったのですね」

荀イクは笑う。表情のみでは、無理に笑っているようには到底見えなかった。死が間近にある。この女の言うことはやはり真実でしかないのだということに対して、笑わずにいられるとでもいうのか。そう言わんとしているような笑みだった。女はそれをただ見ているだけしかできないし、何もするつもりはない。彼女は荀イクとは反対に、感情らしいものを表には出していない。ただ荀イクのことを見ている。いつもと変わらないままだ。

「私はお前がどのような形で死に至るのかを知らない。……だがその時が来たというのか」

荀イクは自分がどのようにして死を迎えるのかをやっと理解することができた。今やもう、主君にとって自分は必要のない存在なのだ。平行線のまま、ついに再び交わることはなかった。最後に告げられたのは言葉ですらなかった。ならば取るべき行動は何か。自らの行為によって命を絶つこと。なんと単純なことだろうか。

「今までの私ならば、自らの想いに殉じていたでしょう」

荀イクはいつの間にか、どこからか取り出した小瓶を女に向かって掲げる。女はやはり、荀イクが何をしたいのかをあまり分かっていないようだった。

「それは」

「これを飲めば私は死に至ります。この部屋に来ずとも、あなたの姿を見ずに死ぬこともできた。けれども私はそうはしなかった。なぜだかお分かりですか」

「……私に分かるのはお前が死ぬならばこの部屋であるということだけだ」

「あなたもどこかで願っていたのではないですか。私は、どうやらあなたの思い通りにはいかないようです」

既に用済みだ。暗に告げられたその言葉を、荀イクは拒もうとしている。

鼓動が激しくなった。それは死への恐怖ではない。この小さな女を呪縛から解放できるかもしれないと思うと、逸る心を抑えることはできなかった。

小瓶が荀イクの手から離れる。硬い床に吸い込まれるようにして落ちるそれは、音を立てて砕けた。中に入っている液体が広がっていく。女は目だけを動かしてそれを追った。目は見開かれている。また一つ、見たことのない彼女の表情を見ることができたと荀イクは思った。その美しい瞳が揺れる。

「私のやるべきことはまだ終わっていません。……いや、始まったばかりです。この生涯を私の手で終えるだなんてそんなこと、選びませんよ」

粉々になった小瓶にも、自らが持ち出した毒薬にも置かれたままの空箱にも荀イクは再び目を遣ることはなかった。

「……私はもうこの部屋には戻りません。後のことはこれから考えるとしましょう」

さあ、行きましょうか。荀イクが投げかけた言葉に、女は微動だにせずとも動揺を隠しきれないでいた。

「行くって、どこにだ」

「人の喜びを、楽しみを知りたくはないのですか」

荀イクが腕を差し出す。二人はそれ以上言葉を交わすことはなかった。だがおずおずと女は指先を伸ばし、荀イクの手を掴む。

「……私に触れることができたのはお前が初めてだ」

陶器のような白い手が、しっかりと荀イクの手を掴んでいる。人間と変わらなかった。このまま同じ人として彼女と共に過ごすことができるのならば、彼女の正体が分からずじまいのままでも、これからどうやって生きていくのかをはっきりと思い描くことができなくてもいいと思った。

荀イクの胸の中では、いつからか止まっていた歯車が動き出している。それはきっと彼女も同じだ。荀イクが歩くのに半ば引っ張られるような形で、女も懸命に歩く。

「あ」

「どうかしましたか」

「良い香りがする。前とは少し違う」

「……気に入っていただけましたか」

「……ああ。」

それこそが人の喜び、楽しみというものなのですよ、とは言わなかった。言わずとも今のこの娘ならば知っているだろう。荀イクはこれから先、何も持たずともきっと幸せになれるだろうと思った。

(20241021)
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