忘却のそばで待ってる
※エンパ、君主夢主


「いよいよ、あなたが天下を統べる世が来る。この国はさらなる力をつけ、誰も抗うことはできないでしょう。この大地はひとつの国となるのです。誠に喜ばしいことです」

乙女は玉座に腰掛けたまま、司馬師の話を上の空のまま聞いている。司馬師は、今にも落ちそうな太陽を眺めていた。橙色の光がこの広間にも入ってくる。一日は瞬く間に過ぎていく。

年月が過ぎ去るのは早い。乙女は司馬師の言葉を聞いているものの、彼が本心からそのようなことを言っているのかどうかが理解できなかった。

「……何かご不満でも?」

振り返る司馬師の表情は、はっきりと読み取ることはできない。

「あなたは私が覇者となって、それで幸せなの?」

「なぜそのような、分かりきったことを。あなたがこの大陸を統べる王となることが私の使命ですから」

過去にも聞いたことがある気がした。

何も知らない他人が見れば、誰もが司馬師のことを忠臣だと称える。献身的でありすぎるのだ。献身的な部下はいい部下の条件かもしれない。だがそれだけで務まるものではない。

乙女からすると司馬師は、狡猾な男としか思えない。献身の裏には、司馬師自身の意思が色濃く反映されている。

国を動かす策を与えることを通して、自らが望むままに多くの人を動かしている。そこに乙女自身の意思はあまり存在しない。

それならば、自分で人を、国を動かせばいい。なぜ司馬師がそうしないのか。乙女は何度も考えたが、納得のできる答えは見つからない。

彼が言う使命が何であるとしても、大して興味は持てない。自分に王者たる資格があるとは思えないのだった。

「だって、私は……」

傀儡のようなものだから。そう言おうとした。言いたかったが、どうしても口には出せなかった。言ってしまえば、この関係が終わってしまうかもしれない。

本当に司馬師がそうであると認めでもすれば、捨てられてしまうかもしれない。彼の庇護がなければ生きていけるはずもなかった。

乙女は今日一日、司馬師の目を見ていない。戦いのことを忘れて、夢の中に逃げ込みたいと思った。

「決戦の時は近い。小さな悩みなど考えるだけ無駄というもの。早く休まれるのが良いでしょう」

「………」

そう言われると、意地でも休みたくなくなってしまう。我ながら子どものようだ、と乙女は思った。司馬師の真意が分からないから、このように反発したくなってしまう。司馬師のせいだ。昔は反発すれど、こうして思い悩むことはなかったというのに。

司馬師は恭しく頭を下げ、広間を出ていく。誰も見ていないのだから、そんな形式ばった仕草を見せ付ける必要もないというのに。寧ろ、あのような行動を見せつけられる度に心の隔たりを感じてしまうのだった。

後ろ姿、指の先に至っても品位に満ち溢れている、堂々とした姿。昔から、どんな境遇にあってもそれは変わっていなかった。

そんな姿を見ていると、二人で挙兵した頃が懐かしくなる。

「やれるところまで進むだけ」そう誓って兵もろくにいない頃から手を取り合って戦いに明け暮れた。

上も下もないのだからと、敬語を使うこともなかった。対等であることに、深い意味などない。だがそれだけで幸せだった。乙女は戦いを通じて人々の生き様を知り、もっと多くの人の助けになりたいと思った。悪政に苦しむ人々を救うためには、自分たちが動くしかない。その結果として待っていたのは、国を得ることだった。

国を、人を抱えるには大きな責任が伴う。上に立つものがいなければ、その責任は果たせない。待っていたのは、乙女こそが上に立つということだった。

それを進めたのは司馬師だ。兵の懐柔も、民衆から信を得ることも、全て彼が担った。その目線の先には乙女がいる。

乙女は元来、自らが武を奮うことが自分にとって一番輝けるものだと思っていた。

王の立場では、戦場で指揮をすれど自らが前線で剣を振るうことはそう簡単にはできなくなる。何よりも司馬師がそれを許さなかった。

国を得ることは自由を築く第一歩だったが、乙女の自由は司馬師によって制限されたのだった。

「あなたが上に立つべきです。それこそが天命であると……私は確信している。あなたの為でもあり、私のためでもあるでしょう」

「なに、それ」

「あなたがこの中華を統一し王となり、全ての人から信を得ること。あなたならば可能です。私には務まらないのです」

かつての問答を思い返す。具体的なことには一切触れずに、話を終えた。付け入る隙も見当たらなかった。

その時を境にして、司馬師が対等に接することはなくなったのだった。

どうしてこのようになってしまったのだろうか。国を築く礎を得た時から、変わってしまった気がする。

だがどうしても、乙女にはそう遠くない日の記憶であるというのに思い出せないことがあった。

どうしても思い出すことができない。乙女は目を閉じる。脳裏に浮かぶのは戦場の記憶。自由に駆け巡った記憶。自由は、民に与えることができる。だが自分自身の自由は制限されていると言ってもいい。

その自由は本当に幸せなものだったのだろうか?

幸せだったはずだ。そう言いたかった。何か大切なものを忘れている気がする。

司馬師の言う通り、決戦に備えて休むべきなのだろう。それでも乙女は玉座から動くことができなかった。金縛りにでもあったかのように、見えない何かが縛り付けてくるようだった。





乙女が目を覚ます。そこは自身の私室だった。故郷を出ていった頃とは想像もつかない、華美な寝台。あれから眠ってしまったのだろうか。上質な寝具が丁寧に掛けられており、眠ったままの彼女ができるはずもないことが現実として起こっている。

こんなことをやってのけるのは一人しかいない。起き上がると案の定、傍には司馬師がいる。

こんなものを用意するくらいだったら、民の為に資金を使いたいのに。主君の為にと用意された寝台ひとつに対してもそう漏らした乙女を制したのもこの男だった。身分に見合ったものを使わないと意味がない。そう易々と手を触れることができない位置にいてもらわねばいけない。そのように振る舞うことが正しいことであるのだ。頑なに拘る司馬師を言いくるめることもできないまま従うのみだった思い出が蘇る。

それでも司馬師のことを、単なる同志としてではなく、かけがえのない存在として信頼していることに変わりはなかった。だからこうして、彼だけは私室に入ることを許可している。

それでも、二人が男女であることには変わりはない。少なくとも、乙女が覚えている限り司馬師が自分を部屋にまで運び出し、そのまま居座るということはなかった。不信感が募る。

「子元。どういうつもり。私が目を覚ますまでずっといたというの」

起き上がると頭痛がした。頭痛の原因の一つはきっとこの男だ。乙女は頭を押さえながら司馬師を見上げる。

「あんな所で眠りについて体調を崩すようなことがあれば、私はおろか将も兵もその影響を受けてしまうでしょう。ですからこうした次第です。しかし、いくら私とあなたが、今まで築きあげた時の流れを共有してきたとはいえ、些か無防備に過ぎるのでは。部下のひとりにしか過ぎぬ私に抱えられ、目を覚ますまで男の気配に気が付かなかった」

「……この部屋に入ることを許可しているのはあなただけ。それは皆が知っていることでしょう。だから侍女たちもあなたのことを怪しむなんてことはしない。けれど、私を運んだ後はさっさと出ていけば良かったのに」

司馬師が真の忠臣である、と至る所で囁かれる理由の一つであるとも言える。私室に入ることを許可されているということは、信頼の証でもあるはずだ。

乙女は司馬師のことを、男女の隔たりを超えた、大切な人間だと思っている。そこにあるのは同志としての気持ちに他ならない。

本当だろうか? 何をされたわけでもないのに、どこか嫌な予感がした。

玉座で耽っていたときと同じだ。

決戦は近い。憂いは断つべきだ。だが知らない方が身のためであるという直感がある。

「だからこそ、あなたは無防備だというのです。私のことを、あまりにも信頼しすぎている。あなたと……私を除く他人の間には、見えない壁のようなものがある。あなたはそれに気が付かないだけ……それもやむを得ない話です。ですが仮に、私以外の人間がこのような行為に及ぶのならば、私は……」

「……何の話をしているの」

「いえ。……あなたと私の仲ですから。あなたが何をそんなに思い悩んでいるのかも私にはよく分かる。このような時勢ですから、悩みの種は取り除く方が良い。そう思ってあなたが目を覚ますまでここにいただけですよ。それにしても警戒心のない御方だ、と感じたまで」

「あなたの思う、私の悩みは」

「なぜ自身が王という立場であらねばならないのか。なぜ、昔のように武器を振るうことが許されないのか。こんなところでしょう」

「その通りよ……何でも、お見通しね」

互いの立場は大きく変化した。

昔は乙女が司馬師の感情を読み取り助言したものだ。それが素の感情、言動であると身近な立場であるから分かっているものの、彼の全てを見透かすような態度や言動は誤解を生むことが多かった。他者と折り合いがつかなくなった時、緩衝材として支えとなっていたのが乙女だった。

今やそれが真逆となり、乙女は司馬師の考えを読み取れなくなっている。反対に司馬師は乙女の心の内をはっきりと理解している。乙女は酷くもどかしい気持ちになった。

「……あなたが覚えていないのならば、それはそれで幸せだったのでしょう。ですがあなたは満足などしていない。そして私も……十分に我慢をした。あなたに恨まれようとも、私は気に病むことはありません。ですがあなた自身に思い出してもらわねば意味がないもの、なのかもしれません」

司馬師が寝台に身を乗り出す。乙女は声を上げる間もなく両肩を掴まれ、そのまま敷布の上に押し倒された。

「ちょっと、子元!」

その瞬間、強烈な既視感が乙女を襲った。友情、親愛の範疇を超えるこの行動に危機感を覚えたのではない。

司馬師が衣服に手を掛けようとする。乙女は、頭痛が酷くなると同時に声を思い切り出して叫ぼうとした。しかし、結局司馬師は衣服を脱がすこともせず、その手は彼女の口元を覆うのみだった。

その覆う手も、随分と優しい。本気で襲う意思がないことは明らかだった。

乙女が司馬師の腕に触れる。血が通っている暖かい腕だ。戦場で、彼の腕に触れた最後の日はいつだったか。

最後の日は。司馬師の腕は今と変わりない温もりを持っていたはずだ。だがそれとは違う、彼とは違う熱を、乙女は知っている。否、今この瞬間に蘇ったのだった。

思い出すべき記憶でありながら、思い出さない方が幸せだった記憶がある。これと同じような仕打ちを、あの薄暗い戦場で、顔も知らぬ男たちから受けたことがあった。

その時叫んだのは、この男の名前だ。抗うため、行為を拒絶する言葉よりもまず初めに飛び出してきたのがこの男のことだった。

国を得るための大きな一歩だった。あの時司馬師が駆けつけなければ、今の地位は築くことができていなかった。

憔悴しきった中で、司馬師から涙ながらに告白されたことを、なぜ忘れていたのだろうか。この男の涙など、想像ができないにも程がある。そうであるにも関わらず、そうならざるを得ないほどに彼も心身を削っていたのだ。

「……子元。私、私……忘れていた。あなたは私を守ってくれたのに」

司馬師を見ると、あの瞬間と同じような表情をしていた。

「……思い出されましたか。あなたが思い悩むようになってから、ある程度の察しはついていました。ですが、私はずっと迷っていた」

「私は……あの時を思い出さないようにしていた、けどそれは、あなたの想いも忘れてしまうことだった。私が、あなたの元で頂点に立たなければいけない理由も」

穢れてしまった。何よりも司馬師の目の前、でそのような目に遭ったということを知られることが耐え難かった。

それでも司馬師は、乙女のことを決して見捨てなかった。それどころかその場で怒りのまま振り下ろした剣は、無体を働いた男達の体を引き裂いた。返り血を浴びた司馬師は、冷静ではなかった。それでも乙女に触れる手だけは優しかった。血に濡れた手で乙女を抱きしめ、無事を安心すると共に愛を囁いた。愛してしまったのだ。仲間としてだけではない、と。

「あなたに触れることができるのは、私だけであってほしい」本心からの言葉を、忘れる訳にはいかない言葉を、乙女は記憶から消し去っていた。一連の出来事が心に深い傷を残してしまったのか、それ以来彼女は何も語らなかった。司馬師もそれからは何も言わなかった。ただ乙女が常々語っていた夢である、多くの人の助けになりたいのだという思いを踏みにじることはしたくなかったからだろうか。二人で逃げることもせず、兵や民を見捨てることもせず、彼が取った手段は「乙女を、誰の手も届かない位置として祭り上げる」ということだった。

王となり力を得れば、その分兵や民からは期待も恨みも、様々な感情を抱かれることとなる。司馬師は戦場という心的外傷を刺激する場から乙女を遠ざけること、乙女が誰もから愛されることに尽力した。そうすれば乙女の望みも、司馬師の願いも叶う。そう信じての行動が、今までの全てだった。


「全てはあなたを愛してしまったがゆえです。だからこそあなたを、血で血を洗うような戦場に立たせることはできない。それは私の役目なのです。あなたに相応しいのは光を浴びることに他ならないのですから。ですがあなたと契る資格が私にあるなど……そんなことは、考え難い。あなたが記憶を失ったであろうことを知っていながら、国中を動かすために私が力を振りかざしていたのですから」

司馬師は自分が起き上がると同時に乙女を優しく抱き寝台の上に座らせた。相対する二人の間に、邪な感情はない。司馬師は律儀な男だった。乙女が感じているよりもずっと。

「……その当時の私は、あなたの言葉に何と返答したの?」

「それは……」

「……やっぱり、辞めておきましょう。戦いの前に浮かれるなんて、らしくないから。でも、一つだけ聞いてくれる?」

「私にできることならば」

「“その時”がくれば、昔のように……あなたと対等な立場で話したいの」

「あなたが、私を許してくださるのならば」

そんなの、許すに決まっているじゃないか。

乙女は静かに頷いた。

司馬師のことは、友人であり、家族であり、同志であると思っていた。だが、情愛を向けられているとは思ってもみなかった。

それでも、彼からの一方的なものだったとしても、この男ならばよいと思ってしまう程度には長い時を過ごしていたのだった。

戦いを終えなければ意味がない。だがもう心の靄は全て消え去った。

一国の主としての責務を果たさないことには、何も成し遂げることができないだろう。乙女が、王でなければいけないのだ。それは皆を、そして司馬師を、何よりも乙女を幸せにする道程だった。

(20250509)
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