宇宙はひとつずつ消えていく
姜維を、いや蜀そのものを取り巻く状況は芳しくない。そのくらいのことは乙女にも分かる。

これまで見聞きしたもの、得たことの大半が通じぬこの時代の中で、彼女は大人になりすぎた。

学ぶしかない。知るしか道は無い。元の時代では逃げることもできただろうが、そんな選択肢さえここでは与えられることはない。

息苦しいというほかあるまい。それでも乙女は呼吸をしている。地に足をつけて立っている。ここは紛れもなく現実で、苦しくても息を止める訳にはいかない。

終わりの見えない夢の中で漂い続けているようだ。

「わたしの、親しかった人は言いました」

姜維はまたそれか、と言いたげに表情を歪めた。何も言わずに視線を書簡に落とす。そこに何が書かれているのか、乙女は分からない。自分が関わることではないと思ったから、わざわざ内容を尋ねることはしない。どうせ戦のことばかりが書かれている。自分がとやかく言うような権利はない。

そう分かっていても、この男とは分かり合えない部分があるからだろうか。わざと乙女は姜維を不愉快にさせることを言ってしまう。

姜維は乙女が元の時代の話をすることを嫌っているようだった。初めはむしろ目を輝かせて飛びついていたが、そんな余裕はなくなってしまったのだろう。

あるいは、余裕のあるなしに関わらず乙女が姜維の知ることなど一切ない人間の話をする事が気に入らないだけかもしれない。この男は、存外嫉妬をする。乙女もそれを知っているし、嫉妬をするような人間だからこそ自分を他所に放り出すことはしないのだ、と考えている。

大切にされている。だが恩を抱くのはそこまでの話で、乙女は姜維の思想が分からない。多くのことを知り理を理解してもなお、分からないものがある。

「生きることに意味などない、と」

姜維は書簡から目を離し、じっと乙女を見据えた。その瞳から光は消えていない。だがどこか濁っているようにも見えた。不思議な瞳だと乙女は思った。このような瞳を乙女は知らない。

「なぜそのようなことを言う。私たちが命を懸けて突き進んでいるこの道こそがまさしく生きる意味。なぜ分からない」

「私を教育することすらできていないのだから、やっぱり姜維殿の志は万人に通じるものではありませんよ。意味のあることをしてこそ道が拓けるのではなくて、無意味なことにこそ意味があるのでしょう」

いっそ殺してくれてもいい。逆上した彼が首を絞めてくれるのならば、この先が見えない地獄から解放されるだろう。どうせ戻ることができないのならば。乙女は苛立つ姜維を見つめるが、それ以上互いに手を伸ばすことはなかった。

「早く魏軍を打ち倒すしかないようだ」

乙女は目を閉じた。姜維の思想に乙女が染まらないのと同様に、彼女の言葉が伝わることもない。生きる世界が違うのだから当然の帰結だ。交わることはない。それで良いのだ、きっと。





それから暫くして乙女が目を覚ますと、そこは自室の寝室だった。

ずっと夢の中にいるようだったが、あれは本当に夢だったのだろうか。乙女は傍に置いていたスマートフォンを取って、夢の中で同じ時を過ごし続けた男の名前を調べた。

彼の考えが全て間違いだったとは思わない。だが乙女は男の辿った道を見て、どうもやり切れなくなった。

意味なんて必要ないのだ。それを肯定できるような世の中であれば、あの地で過ごした乙女があの時代を地獄と称することもなかったはずだ。

そこまで考えを巡らせてふと、現在の乙女の思想における根幹を作った男の姿が脳裏に浮かぶ。

どことなく姜維に似ていると感じたが、きっと気のせいだろう。考え方は真逆に近しいのだから。乙女はもう一度目を閉じた。もう二度と「夢」を見ることはなかった。

(20250406 )
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