幻より夢をみたい
三國と戦国が混じり合い、人々は遠呂智の猛攻の前に為す術もなく大勢の人間が散っていった。各国が降伏し力を持つ人間が次々と囚われ、屈辱ながら属国へと成り下がる中でも魏は遠呂智と対等な立場として同盟を結んでいた。
だが曹丕の動向は不可解なものとなってきている。敵を捕虜にすることもせずに見逃し、降伏した人間は殺すことなく仲間として迎えいれる。遠呂智軍から離反する布石のように思えてならないと乙女は思う。曹丕の采配によって死を免れた反乱軍ですら、彼の考えは完全には読めていないはずだ。しかし、目ざとい妲己がそれを見逃すとも、許すとも思えない。事実、遠呂智軍から離反した孫策を逃亡させる為の手助けを曹丕や石田三成が行ったことは、妲己にも知られているはずだ。彼らのことであるからその場は上手く誤魔化したのかもしれないが、時が来る日は、近い。
乙女は、自分自身も重大な決断に迫られているのだと思う。曹丕の方針を盲目的に信奉するなど考えられない。それはこの男も同じだ。この男が曹丕の思惑に素直に乗るとは思えない。乙女は隙を縫って男を呼び出し詰め寄った。
「仲達。お前はどう思う」
「……何の話でしょう。近頃曹丕殿を、そして遠呂智を取り巻く情勢は随分様変わりしているようですが」
わざと本題に入らずに婉曲した言い方をする。初めからはっきりと言えば良いものを。乙女は司馬懿を睨むが、この男は意地の悪い笑みを浮かべているだけだった。――茶番でしかない。何が面白いのだ。だがこのやり取りすら楽しんでいる節がある。この男はいつもそうだ。
「曹丕殿がいずれ遠呂智を裏切るということ程度、お前も分かっているはず。私が聞きたいのはその先」
司馬懿がいずれ曹丕も、曹操さえも出し抜き頂点に立ってやりたいのだという野望を持っていることを乙女は知っている。その秘密を共有している人間として、司馬懿は乙女のことを買っているのだった。司馬懿が曹丕の前では従順に振る舞いその野心をひた隠しにしているのと同様に、乙女も彼の前では堅実に働きながらも腹に一物を抱えている。単なる魏軍の将という言葉だけでは抑えきれないものがあるのだ。
「その先、ですか」
それを聞かれるのだろうという程度、初めから分かっているだろうに。 笑みを浮かべたまま話を進めようとしない司馬懿を見て舌を打った。司馬懿の口調の白々しさに苛立ちを隠しきれなくなったからでもある。
「……誰も見ていない。その話し方をやめていつものように話せ、仲達。聞いていられない」
すっと司馬懿の笑みが消えた。仮面が剥がれ落ちた、という言い方のほうが正しいのかもしれない。どちらにせよ、媚びるためのもの、取り入るためのもの……ではなく彼個人の素の表情が浮かび上がる。どちらにせよ意地が悪い人間であることに変わりはないと乙女は思った。
「……私があの男の元で才を持て余し続けるつもりだと思うか、お前は」
「いいや全く。だからこそ聞いているんだ」
「私はその時が来れば遠呂智に従う。諸葛亮と手を組むのは忌々しいが、いずれは私が全てを奪い取る。そのためならば魏を捨てることなど何も思うまい。魏など元から踏み台よ」
やはり。乙女は予想通りの答えが返ってきたと思った。曹丕と袂を分かつ最大級の機会なのだから、そうしないはずがない。そういった決断を臆することなくできる男なのだということはとっくに知っている。だが、それはあまりにも無謀すぎる。遠呂智の世で頂点に立つのは遠呂智であって、司馬懿ではない。この男が遠呂智をも越えるというのだろうか? 長らく行動を共にしてはいるが、そうとは思えなかった。智謀だけであの化け物をどうにかできるのならばこの狂った世は秩序だっているはずではないのか。諸葛亮でさえ、何を考えているのかは知ったことではないが結局は何もできずにただ遠呂智に従っているのだ。最も、知略、軍略といった分野においては何がどうあっても司馬懿には勝てないと乙女は踏んでいる。だから何を言っても無駄であるのだとは分かっている。この考えが正しいのかどうかも定かではない。
「そうか。お前ならそう言うとは思っていたが」
「待て。一体何が言いたいのだ。お前は曹丕……殿をも憎んでいるはず。あの男の元に着こうとでもいうのか」
「……分からない。あの男次第だな」
そうは言ったが、本当は曹丕の考えなどどうでもよかったのかもしれない。
「決断は早いうちに越したことはない。だがこれだけは言える。お前があの男を弑するためには、私の力が必要だ。そうだろう」
「分かっている。……私は武働きしか、取り柄がないことも」
「分かっているのならばそれでいい」
分かってはいる。それにどんな状況下であったとしても曹丕は乙女にとって憎むべき男であるということには変わりない。逆恨みのようなものだとは、乙女自身自覚している。だが許嫁が……親の決めた婚約とはいえ、心を許していた男が戦死した戦いを指揮していたのが曹丕だったということだけは真実であるし、彼の為に犠牲になったと聞く。それが部下の務めとして素晴らしいものであったと、乙女は到底納得できなかった。
傷心していた所に入ってきたのは良からぬ噂だ。乙女の許嫁が戦死したのは曹丕が戦死を装ってわざと死に追いやったのだとか、味方の手にかかったのだとか、後味の悪い話が出回っていることを乙女は知っている。事実がどうであれ、死を導くきっかけとなった曹丕が憎いことには変わりなかったが、それらの噂はさらに乙女の苦しみを増幅させた。本当のところはどうであるのか。あの場にいなかった乙女に真実が寸分違わず伝わるということはない。だから彼を恨むのは筋違いなのかもしれない。しかしこうでもしないと耐えられなかった。
ただ黙って受け入れることに納得がいかなくなった乙女曹丕に訳を聞いたこともあった。が、真っ当な答えは返ってこなかった。最も曹丕が言う真っ当な答え如きで乙女が納得するはずもないのだろう。曹丕もそれは分かっていたはずだ。悲しみはやがて消え、残ったのは曹丕に対する憎悪だけとなった。自らも戦場で命を奪うにも関わらず、近しい人間の死にはこうして感情を露わにする。何とも卑しい人間だと乙女は自分を嗤った。
司馬懿と距離が近づいたのはその後のことだ。乙女の持つ叛意に近しいともとれる感情を見抜き、手を組むことを提案した。その手腕は流石としか言いようがなかった。いずれ司馬懿が頂点に立つためには、曹丕を出し抜かねばならない。利害が一致しているから、乙女は司馬懿の策に従うこと、そして司馬懿もまた乙女の武を頼りにすることを決めた。
あくまでも目的が一致しているからこそ成立しているだけであって、互いの目的が果たされたその先はどうなるというのか。乙女は曹丕を消すことができればそれで良いが、司馬懿はそこでは終わらないだろう。今度は乙女が司馬懿によって消されるという可能性もある。
目的が果たされるにしろ、果たされないにしろ、どちらであっても乙女の辿る末路は分からない。だが司馬懿の力を借りないことには、何も状況は変わらなかっただろうから、致し方なかった。
それは二つの世界が混じりあってからも変わらない。人が及ばぬ力で世界が支配されつつある今でも、機会が巡ってくるのならばそれで良い。曹丕が簡単に死ぬとは思えない。特に今の情勢なら尚更だ。ならば自らも遠呂智に付き、化け物に魂を売った人間として彼らと相対するべきなのだろうか? 自らの手で目的を遂げる為ならば、それが最善なのだろうか?
だが乙女は、そこまで考えを至らせてもなお未だに決断を下せずにいる。それは本来の目的とは異なるものも含まれている。
「お前は。……仲達は、私にどうしてほしい?」
「遠呂智側に着くに越したことはない。私ならばお前が直接あの男を斬る策を描くことができるだろう。……それを実行できるのはお前と私だけだ」
司馬懿が今更考えを改めるとは思えない。それに、乙女の目的が果たされるためには司馬懿が不可欠だ。だが遠呂智に着いたとして、曹丕達に敗北、最悪の場合死を賜わる可能性があるということを否定することはできない。今遠呂智に着くことは本当に最善と言えるのだろうか? それは乙女の目的に限った話ではない。司馬懿にも大きく関係することだ。だが乙女は最後まで言うことができなかった。自分達は本当の仲間というわけでもない。ただそれぞれの最終到達点の間に交わる点が一つだけ存在しているというだけだ。私情を鑑みるほどの絆など初めからありはしないのだ。それでも、と思ってしまう部分もある。司馬懿が命を落としてしまうということがあれば、今度こそ耐えられないと乙女は思った。悲しみを怒りに変えるまでの力も残らないほどに、打ちのめされてしまうだろうという予感があるのだ。司馬懿を死なせたくはない。そのためならば魏軍にいるほうが勝機はあるのではないだろうか。だがそれは言葉として発されることはなかった。
曹丕は小田原城で妲己を捕らえた。全ては遠呂智を打倒するための同盟だったということは明らかで、それに呼応して各地ではさらに反乱軍の勢いも強まっていた。
目的を果たす前に死んでしまっては意味がない。間違っても曹丕より早く命を落とすなど、やはり考えられない。最善は何か。そう思うとまだ曹丕を裏切る気にはなれなかった。たとえ司馬懿が遠呂智に着こうとも。実際に司馬懿は引き止めることもなかった。所詮、見せかけの協力関係だったのだろうという気持ちがさらに強くなった。
諸葛亮と組むなど忌々しい。かつてそう言っていた司馬懿は彼と二人でこの山崎に布陣している。結局司馬懿は当初の宣言通りに遠呂智に着いたが、乙女は曹丕の元にいる。あの男と直接対峙することは耐え難いと思った。けれども自らの保身を考えると、こうするしかない。……司馬懿を失うことは許せないのだという気持ちとは裏腹に、彼を追いやるための軍に馳せ参じている。それでも構わないのだ。元から交わる運命にある人間ではなかったのだから。そう覚悟を決めたはずだった。だが今乙女の心の内にあるのはそれだけではない。
生きなければ意味がない。それでも、戦場では誰もがいつどこであっても命を落とす可能性がある。分かっているはずだ。それも過去のものとなってしまった。許嫁の死を見て尚更生きることへの執着が強まったはずであるのに、だ。微かな希望は残っているとはいえ、どうなるか分かったものではない。ただどうせ死ぬのならば司馬懿の真意を聞いてから死にたいと思った。乙女は差し迫る恐怖にも微動だにせず、毅然としていた。
「散々私たちを引っ掻き回してくれたけど、そう上手くは行かないんだよねえ乙女さん? どれだけ私たちの兵を殺したのか知らないけど、あなた一人がどれだけ血を浴びたって私達に勝てるはずないんだから。そこのところを分かってる?」
「早く司馬懿に会わせてくれ妲己。私は曹丕の動向に興味はない」
後ろ手に縛られた縄が痛くて敵わない。そう強がるが、胸の鼓動は激しい。戦場にいる時特有の高揚感に交じって、それら以外の感情も乙女の脳内を支配している。妲己に何かを勘づかれていないか、隠し通すのに必死だった。
遠呂智軍が何を企んでいるのかすら、本来ならばどうでも良いことだ。武器さえあれば妖魔共と同じようにこの女も今すぐ剣で切り刻んでやれるというのに。死というものが手を伸ばせば届きそうな位置にある。けれども自分の手では掴むことはできない。全ては妲己と……そして司馬懿に握られているのだ。それでもまだ乙女は未だに、自分が囚われの身となっている事実を認めるわけにはいかなかった。やるべきことはまだ残っている。
「……司馬懿さんが随分あなたのことを評価してたけど、死ぬ前に会いたいなんてそーんなに仲が良かったの? まあいいわ。私は優しいから、司馬懿さんの目の前であなたを殺してあげる」
「……仲達がそれを許すかどうか。あの男次第では私も遠呂智の指揮下に入るだろうな」
「なあにそれ。……というか、これ曹丕さんにもけっこう前に言ったんだけど、あなたも流石あの人の部下って感じよね。捕虜の分際で遠呂智様のことを呼び捨てないでくれる? 私は司馬懿さんが苦しむところも見てみたいんだけど。遠呂智様の軍師は私一人で十分なんだから。……司馬懿さんにお客さん。とりあえず、今のところは、ね……通してあげて」
異形の兵士が妲己の指示で道を開く。妲己も遠呂智も、彼女に付き従う兵たちも。全てが不気味だ。特に近頃は彼らと共に戦うということを脱したわけであるから、余計に乙女はそう感じた。また彼らと共に戦うという未来の可能性も残されている。選択肢は自らの意思で切り捨てるものではないと、気を取り直した。
兵士をかき分けた奥、天幕の前に司馬懿は立っている。縄目の恥を受けている乙女を見て彼は狼のように鋭い目を一瞬だけ見開いた。
「私が曹丕さんに従うなんてそんなことあり得なーい。なのにこの子は全く油断もしていないんだもの。あーあ、滑稽すぎておかしくなっちゃう。……司馬懿さんに会いたいってせがむから連れてきたんだけど、この子とどういう関係なの? 司馬懿さんは気に入っているみたいだけど、遠呂智様の役に立つのかしら? ここで殺しちゃったら曹丕さん怒っちゃうのかな?」
司馬懿は何かを悩むような素振りを見せたがすぐに常の調子を取り戻したようだった。乙女はできるだけ無表情、平常心を取り繕っている。思い浮かぶこの後の展開として最も最悪なものはここで斬り捨てられることだ。曹丕への憎しみを昇華できなくなるのは苦痛でしかないと考えていたが、今となってはそれだけではない。全ては司馬懿の一存にある。乙女は司馬懿と目を合わせることができなかった。
「……いや。この女には利用価値がある。妲己、お前が始末するまでもない。その時が来れば私が勝手にする。貴様は反乱軍を相手にしろ。この女一人の悲鳴を聞いたところでお前の嗜虐心は収まるまい」
司馬懿は妲己を遠ざけようとしている。乙女は安堵した。どうやら酌量の余地があると司馬懿は認識したらしい。妲己はというと、司馬懿と乙女を交互に、わざとらしく訝し気に見やった。
「何をこそこそ考えてるのか知らないけど、変なことしたら司馬懿さんもただじゃおかないんだからね? まあいいわ。私はそんなに暇じゃないし、好きにすれば」
妲己の姿が見えなくなるまで、司馬懿は何も話さなかった。ようやく口を開くだろうか、と乙女は横目で彼を見たが、何かを言うよりも早く司馬懿は乙女の腕を掴み天幕まで体ごと引っ張った。抵抗するまでもなくそれに従う。二人きりのほうが都合が良いことには違いない。そうして司馬懿はできる限りの人払いをした。天幕の外にも兵を近づけないようにしているのだろう。司馬懿にとっての敵……魏軍は未だここには迫る様子はない。そう慌てるような状況でもないのだろう。遠呂智傘下の兵、そして司馬懿に直接従う少数の奇特な人間はそそくさと二人から離れていった。
「 武器を捨てそのような辱めを受けるなど、お前らしくない」
いくら乙女が縛られたままとはいえ、大声で話すような真似はできるはずもない。司馬懿は叫びたい気持ちをできる限り閉じ込めながら乙女の顔のすぐ近くに迫った。
「私が簡単に捕えられるなど、思わなかった……とでも言いたげだな。事実、お前の想像以上のことは何も起こっていない」
「……その通りだ。……妲己が曹丕を裏切った折、わざと降ったのだろう? 何がお前の心境を変えたのか……まあよい。お前をここで殺す意味もない。私の下で戦え。妲己には私が適当に理由を捏造して話せばよい」
近くにあった剣で司馬懿は乙女を縛っていた縄を斬った。ひとまずは安泰。どうやら己が自覚していたよりもさらに司馬懿は自分のことを信頼しているらしい。乙女はこの男のことを改めて評価した。やはり手を組むに値するだけの価値はあるのだ。
「礼を言おう。私は確かにわざと遠呂智軍に捕まりここに来た。すぐに殺されるかお前の元に辿り着けるかすら分からなかったが、こうするのが一番早い方法だと思ったからな。だがここに来た本当の目的はお前とかつての誼のまま曹丕を陥れるという話だけではない。仲達。私が何を言いたいのか分かるか」
「何の話だ」
「返答次第ではお前を殺す」
司馬懿の手首を捻り、彼の握っていた剣を奪う。油断していたのだろう、抵抗する隙も与えないうちに首筋に刃を近づけば流石の司馬懿も動きを止めた。乙女の腕を知らぬほど短い付き合いはしていない。だがよく回る口は未だに休まるということを知らないようだった。
「物騒な。……曹丕に絆されたか? 私を殺した所でお前はここにはいられまい。魏からの刺客としてあの女に八つ裂きにされるのが見えている」
「曹丕が私の許嫁を死に追いやったとばかり思っていたが。全てはお前の仕業だな。初めから私を煽るためにやったことだった。私が単純な女だから」
「というと?」
司馬懿が笑った。人を嘲るような笑みだ。曹丕が言ったことはきっと間違いではなかったのだ。乙女はさらに剣を司馬懿の首元、肌が今にも触れそうな位置にまで近づける。
「この戦の前のことだ。曹丕は私がお前と秘密裏にやり取りしていることなどとうに知っている。だから私がお前から離れたことで私の裏切りはなし得ないと思って話したのだろう。今までは泳がされていただけだ。お前をここで、私の手で手っ取り早く始末させるためかもしれない。曹丕は言った。私の許嫁はあの場で味方に手をかけられた。それを指示したのはお前だ、仲達」
「……ずっと憎んでいた曹丕の言葉を信じるというのか、愚かな」
「だが真実だろう。私に近づき手を組むことを持ちかけたお前は、私がお前にしか縋ることができないようにあの時点で既に手を打っている。全ては曹丕に憎悪を向けさせるため。お前から疑いの目を逸らすため。あの人と曹丕に関する悪い噂を流したのも仲達だな。目的を果たすまで手を組むものとばかり思ってこちらは従っていたが、初めから私は都合よく使われていただけだった」
乙女がわざと投降し司馬懿に近づいた理由がこれだった。仇は曹丕ではない。曹丕に対する怒りのあまりに見えていなかっただけで、本来憎むべきはこの男だったのだと、他でもない曹丕は言った。だが自分自身の手で直接問いたださねば気が済まなかった。あのまま魏の将として戦い続けていても、この男に辿り着くかは定かでない。どちらにせよ不確実な方法だ。だが結果的にはこれが正しかった。
「……ふ、全くもってその通りだ。だがな、お前の許嫁とやらは殺されるに値するべき男だった。敵方と通じていたのだからな。……お前がそれを知らぬままだったから、お前一人が勝手きままに憎しみを募らせていたから、それを存分に利用しようと思ったまで。まさか曹丕に秘密をばらされるとは思いもしなかったが……」
乙女の指先が僅かに震えた。その理由には司馬懿こそが本当に憎むべき人間なのだということが分かってしまったということ、そして許嫁が自分にすら自らの悪事を隠していたこと。両方が含まれているということは明らかだ。後者については、司馬懿がでたらめを言っていることも十分に考えられる。結局何が本当のことなのかを、この問答で全てを知ることなどできないのだ。だからこそ、選ばなければならない。今ここで。
「……そうか。……曹丕の言葉もお前の言葉も、全てが真実であるとは思っていない。……以前の私ならばそうだったとしても。だがどうであれ、一つだけは明らかにしたい。あの人を奪ったのはお前だということで違いない。そうだな?」
「そうだ。それを確信してお前は何をしたい。このような訳の分からぬ真似をして……まあよい。お前に許されているのはこの私の指揮下で戦うか、私を討った後にこの場で妲己の手に掛かって死ぬことだけだ。お前が何を考えていようと、その武技だけは使い物になると認めてやっている。好きに選ぶがいい」
選ぶのは自分自身だ。それを分かっているから、こうして危険を顧みずに司馬懿の元に来たのだ。
単純な人間だから、こうして知らぬ間に利用されるのだ。相手が司馬懿にしろ、曹丕にしろ。そうだとしても、自分にはできない。……初めから分かっていた。ずっと前からそう思っていたことを、乙女は真実がどうであっても今更変えることはできないと思った。
司馬懿の首元から、剣が徐に遠ざかる。
「お前に従おう。……お前が死ぬところは見たくはない。その気持ちは変わらない……本当のことを知ったとしても」
剣が音を立てて地に落ちる。平静を装っている司馬懿もどこかでは命を握られていることには心中穏やかはいられなかったのだろう、やっと安心したように息を吐いた。
「先程の威勢が嘘のようだな。……良いのか、本来の、真実を知ったお前は私を憎むはずなのだ。……かつての仲間に刃を向けることになるぞ。もうあの男と戦う理由もない」
司馬懿にしては優しい、という言葉を用いることも奇妙なものとしか感じ得ないが。乙女はこの男も人のことは言えないものだと思った。威勢が嘘のようだ、という言葉をそのまま返してやりたいくらいだ。そのような事を考える程度に余裕が生まれていた。
「良い。……私はいつまで経っても馬鹿な女だ。私はな、曹丕ではなくお前に絆されている。……お前が仇であろうとも、そんなことはもうどうでも良くなるほどに。お前の命じるがままに人を屠ってきたのだ。私はその生き方しかできなくなった。この生き方を捨ててしまうのは、惜しい」
「私が用済みだと判断し、お前を妖魔どもに始末させるかもしれんぞ」
「仲達より先に死ねるのならばそれはそれで良い。どうせいつそれが訪れるか分からない身だ。生への執着を捨てたわけではない、だがお前の野望とやらに尽くすことができるのならばそれで良い。……これでは不十分か?」
やはり自分はこの男と最後まで共にあるべきなのだ。それならば、いっそ初めからこちら側に着いていれば良かった。人を敵に回したとしても、人に何の恨みがありはしないのだとしても。……どちらにせよ、この男を一人で易々と死なせるようなことはできない。曹丕の命だけを狙う必要が消えた今、残る目的は一つ。この男を守るために生きることだ。乙女はいつも二人きりで悪巧みをする時のように笑って見せた。
「いや。……自分の立場を……それだけではないな。私のことも良く分かっているようだ。お前は私には必要不可欠な存在。……最も妖魔如きに討ちとられるような女ではないだろう、お前は。それを頼りにしているのだからな。私は魏を滅ぼすだけでは満足などしない。それを成し遂げるにはお前がいなければ、な。お前をあの時こちら側に無理矢理引き込むことをしなかったのも、お前が私の元に返り咲くだろうという確証があったからだ。私が直接手を下さずともな。正にその通りになった」
情などない、互いの目的を果たすためでしかこの関係は有り得ない。しかしそう思ってはいない、いや思いたくはないのだという気持ちが確かにあった。乙女は自分だけがそうであるのだとばかり思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。互いに、互いの持たざる才に、そしてその人自身に魅入られていたというのだろうか。
それも悪くはない。……いや、それはあまりにも理想的すぎる。二人の関係性のみではない。司馬懿の思い描く未来全てがだ。だが今の司馬懿なら、利害の一致など考えるまでもなくこの身を委ねることができる。理想を信じるのも、決して間違った選択ではないのだと乙女は思った。
「仲達は遠呂智という化け物の中ですら収まらないほどの大望があると。とんだ悪人になるつもりだな」
「だがそれをお前も受け入れているのだろう。お前こそとんだ奸物だ……そうだな。良い機会だから言ってやろう。よく聞け。私が全てを統べた暁、私のすぐ隣に立つのはお前のみだ。嬉しかろう? 人と妖魔の血に塗れてなお立っているお前を……美しく思うのは、この世でたった一人。私だけだ」
人の和から外れ、さらにその人でないものさえも凌駕しようとする男の、打算も狡猾さも抜きにした純粋な笑顔を、初めて見た。
この男、こんな表情もできるというのか。これならば別に、己がこの天下を統べずとも理想に近づく手段などいくらでも取ることができるだろうに。とは決して言わなかった。
「奇遇だな。私もだ。……お前になら抱かれてもいい」
司馬懿がさらに、声を出して笑った。乙女も口角を上げる。愉快だった。意味もなく笑いがこみ上げた。指先ひとつ、触れられたことなどない。二人の間を取り持つものは、いくつもの因子が複雑に重なり合った上に成り立っている。その一つの中に、武や智謀といった要素とは全く異なる、人としての欲が確かに存在していても、不思議ではない。不思議なものとは思えないほどに、陶酔している。どちらか一方ではなく、互いにだ。
「私はお前の好いた男の仇であるというのに。その男も浮かばれぬだろう。私がお前を組み敷く光景はさぞ憎いことだろうな」
「いずれ全てを奪い取る稀代の悪人の隣に立つのだ。その程度に罪悪感など抱かないほうがふさわしいだろう」
乙女は地面に落ちていたままの剣を拾った。普段使っている得物とは異なるものだが、これも悪くはない。
この力は司馬懿の為だけにあるのだ。それを封じ込めて何になるというのか。
「………ではいい加減に動くとしよう。無駄話をしすぎたな。私は何をすればいい? 手始めに妖魔を斬ってやってもいい。どうせあいつらも不要になるのだから」
「そう逸るな。お前がいれば私の知略もさらに冴えわたるというもの。さあ、ここからが司馬仲達の本領発揮よ」
司馬懿が生きていれば、それだけでいい。そのためにここにいるのだ。今更裏切りの、そして悪人の汚名を着ることには何の躊躇いもなかった。
(20241113)