牙を隠した獣
我が部隊は降伏する。
于禁は雨が降り頻る絶望の中で、大勢の兵士を前にそう告げた。
仕方がないのだ。于禁はざわめく兵士たちを前にしても何も言わなかった。常に厳格で自他ともに厳しく接する彼が、珍しく黙っている。この戦況では、こうするしか道は残されていない。ただそれだけの事。
彼は唇を噛み締めながら、慟哭する兵から静かに目を逸らした。
雨は止まない。冬に降る雨は、冷たく、体力を奪う。戦場にあっては、身体だけでなく心も凍えさせる。于禁は、自らの骨の髄まで冷えきっていく感覚を覚えた。決して寒さだけではない。自らが今まで貫いてきたものすべてが凍てつきなんの意味も成さなくなってしまったような、そんな感覚が全身に駆け巡ったようだった。
兵士の瞳は、様々だった。悲しみを抱える者も、未だ消えない闘志を抱える者も。それでも于禁の判断に逆らう者は居なかった。
だが于禁は、右腕として立つ女の目を見た途端に、さらなる戦慄が走るのを感じた。
女は。于禁に付き従っている、この女は。
「なぜ笑っているのだ」
于禁はなりふり構わずに、女の元に近づく。大勢の兵士が見ていることなどどうでも良かった。既に醜態は嫌というほど晒された後なのだから。
「なぜだ」
低い声で于禁は唸り、女の胸ぐらを掴む。眉間に皺が深く刻まれた。胸ぐらを掴んだ手は、僅かに震えている。
「于禁殿。私たち、やっとお揃いになれましたね」
この絶望の最中で、女は唇を三日月のように歪ませた。それは、嘲笑しているかのような笑みだった。
「な、何を……」
于禁は力を強めた。自分の動揺を隠すように。二人の不穏なやり取りに、兵士たちもその空気を感じ取ったのかどよめきが大きくなった。構わずに女は言う。
「あなたがこうして苦しむのを待っていた。これで分かったでしょう。私の屈辱がいかほどのものなのか」
息を呑む。そうだ。この女は。于禁は目を見開き、胸ぐらから手を離した。
女は変わらず、薄ら笑いを浮かべたままだ。
この顔を、于禁は知っている。いや、知っていたはずだった。
「お前は、下ヒで、」
下ヒの戦いで、女はあの鬼神と共に戦っていたのだ。人も馬も降り頻る雪の中で、懸命に……生きようとしていた。もがいていた。
「思い出してくれましたか? 私はずうっと覚えています。忘れることなんて出来ない。貴方が私を追い詰めたことも」
あの日も今日と同じだ。女はあの、勝ち目の無い極寒の地の中で戦っていた。于禁は水攻めの光景を思い出す。今の自分と、置かれている状況は同じなのだ。
この女は、耐えきれず降伏した。彼女を捕らえたのは于禁だった。あの鬼神とは違い、従順だった。だから于禁と肩を並べるほどに、今まで戦果を残していたのだが。
「このような機を、ずっと待っていたというのか」
降伏を決断した時よりも、于禁は自らの鼓動が鳴り響いているのを感じた。
少なくとも女は、よく働いていた、と思う。全て偽りだったとは、信じられない、いや、信じたくないのだ。女を信頼していたから、このような末路を辿っても良いと思っていた。それなのに、だ。
「そうですよ。私、執念深いんです。貴方のことなんか好きじゃないから。私は呂布様にしか忠誠を誓わない。今まで于禁殿に文句言わず従っていたこと、感謝してくださいね」
雨は止まない。
于禁は女に対して、何も言わなかった。
自分の選択は間違っていない。そう考える于禁の意思は固い。だが女の言葉を聞けば、それが揺らいでしまう。
もし降伏しなければ、この女は自分に忠実なままだったのだろうか。ありもしないたらればを描きながら、于禁は絶望した。もうこの地に信ずることが出来る人間などもう居ない。
于禁たちの部隊は、降伏したことにより関羽の捕虜となったが、そこに女の姿は見当たらなかった。
女は、人知れず自刃していた。自身の首に刃を突き立てるなど、生半可な覚悟で出来るものでは無い。
于禁は女の遺体を見て、絶句した。
彼女が于禁に本心を告げた時と変わらない笑みをたたえていたのだ。
本懐を遂げた彼女に対して、何も成し遂げることが出来ないまま無様な姿を保ち続ける己。
「私の役目は、」
自分の生きている意義とは、役目とは一体何だというのか。于禁は女に問うた。
女はもう何も発さない。
雪が積もる下ヒで、女は何を思っていたのか。どんな気持ちで我らに屈したというのか。
教えてくれ。
男の声にならない叫びを聞く者は、もう居ないのだ。
(20240314)