交わしたっきりそれっきり
曹操の息子、曹沖が死んだ。齢わずか十三だった。幼いながらも将来を渇望された優秀な少年だった。それこそ、曹操ですら自分の後継者に相応しいのではないかと一時考えたほどだ。乙女は彼の葬儀にも参列したが、未だに胸の中に生まれた空白を埋めることができないでいる。
単に彼と大きく関わりがある……つまり、彼の武芸の師として世話をしていたという部分もある。それが大きく心の内を占めているはずだ。誰であっても、親しい人間の死には何かしらを感じ入るものがあるはずだろう。それを表には決して出さない人間もいることだろうが。だが乙女が曹沖の死を見て感じたことは、それだけではなかった。
「乙女」
「元譲。いいの、私のところに来て」
「構わん。常に監視しておかねばならぬほど馬鹿な奴ばかりではあるまい」
「ふうん」
上の空、と言った面持ちで兵の練兵を眺める乙女の元に、夏侯惇は兵の指揮を半ば放り出す形で声を掛けた。なぜお前がここにいるのだとでも言いたげに眉を顰めていた夏侯惇だったが、振り返って兵に指示を出し再び乙女に顔を向けたころには常の精悍そうな顔つきに戻っていた。結局兵のことを放置できないのならば、自分のことなんて無視していればいいのにと乙女は思った。
「……あまり思い詰めるな。考え事など、すればするほど頭も体も鈍る。ここが戦場なら、お前は……」
「分かってる」
「俺の話を聞け」
話を最後まで聞き終える前に逃げ出そうとする乙女の肩を夏侯惇は掴む。乙女は仕方なくその場に留まった。
「何」
「自分を見失うことだけはやめろ。俺だけじゃない、孟徳の手を煩わせることになる」
「……もっとはっきり言えばいいのに、あなたも」
「俺は言いたいことだけしか言っていない」
「嘘」
「なぜそう思う」
「さあね」
乙女は無理やり夏侯惇の手を振りほどいて去っていった。とても曹沖の死に対して大きな悲しみを抱え続けるとは思えない態度と行動だった。ぼーっとして兵の動きを眺めていたかと思えば、睨むようにして夏侯惇に突っかかる。この様子だけを見ると、彼女が大層可愛がっていたあの少年が亡くなる以前と何も変わっていないようだった。夏侯惇もそう思っていたのだろう、彼呆気にとられたように一泊おいてから手を伸ばし声も荒げたが、既に乙女の背は小さくなっていた。夏侯惇も多くの兵が見ている手前、うかつなこともできず何事もなかったかのように手を下ろした。兵たちが不思議そうに夏侯惇を見ている。二人が言い争うのは今に始まったことではなかったが、それほど夏侯惇は我を忘れて乙女の名を叫んでいたのだ。が、やはり兵たちに向き直った時には元の調子を取り戻していたのだった。
「……そうですよね」
乙女は曹操の言葉に、顔色一つ変えることもせずに頷いた。
「おぬしさえよければ、見合うだけの男を探させるが。もっともおぬしほどの女ならば引く手あまただろう」
「いいえ。私が望んでいるのはあの男だけですから。たとえ曹操様が信頼するお方であったとしても、あの男とともにいる以上に自分が幸せになる未来などありえません。男女の関係が全てではないでしょう。ですから、よいのです」
乙女は夏侯惇のことを好いている。それは同僚としてのものではないということは、乙女自身が一番知っている。愛しているのだと、胸を張って言える。彼の女として生涯を終えることができるのならば、それが一番幸せなのかもしれない。だが乙女は武人だ。邸の中で夫の帰りをただ待つ人形にはなれないし、外で駆けまわっているほうが楽しいと思っているから、そんなものになるつもりもない。彼の妻ならば戦場を走り回るくらいでないと務まらないのかもしれないが、それだけなら妻などという立場でなくともできる。夏侯惇と戦場を駆けることができれば、それだけでいい。そう思い続けてきたからこそ、周囲からの縁談の勧めも全て断り続けていた。曹操もある程度の察しはついていたから、あまり乙女の将来について案じることもなかった。
「だが、おぬしは……」
「いいんですよ、殿。私は戦場に立ち続けます。陣中で死ぬことができるならばそれが本望ですよ」
できる限り取り繕ってはいる。だが限界もある。現にこの男には早々に見破られてしまった。以前から乙女は体の調子が悪いと思っていたが、そこに曹沖の死という衝撃が重なったこともあるのだろう。心労はいつしか大きな病となった。それはいつ乙女を死へといざなうのだろうか。
「おぬしがあやつのことをわざわざ尋ねたのは、それを言いたいがためではないはずだ。本当は己の平穏を願っているのではないか。戦場に立ち続ける必要もあるまいに」
「まあ、あの男に見守られるままに死ぬことができたら、確かに幸せですけれど。でも彼がそのような考えなら、私はもう何も言いませんよ。最後まで将として彼の隣に立ちましょう。……ですが、化けて出る程度は許してもらいたいものです」
それとなく、夏侯惇が結婚というものに対してどのように意識しているのかを探ってほしい。それが乙女の尋ねたことだった。仮に想いを寄せている女がいるのならば、それはそれで諦めがつく。
だが、曹操が覇道を成し遂げるということが彼にとって全てなのだろうということ程度分かっている。女のことこそ二の次であるに決まっている。事実曹操は言った。夏侯惇が所帯を築くのは曹操が全てを成し遂げたその先でないと有り得ないだろうと。夏侯惇自身がそういったらしいのだから、信じる他あるまい。それに、そのようなことを知らぬままに彼に惹かれたわけではない。
「化けて出る、か……間違ってもわしの傍には現れてくれるな。夏侯惇ならともかく、な」
「では、殿のことは遠くから見守るだけにしておきましょうか。……くれぐれも元譲には私の病について口外しないよう、お願いしますよ。彼はきっと、私の病を知れば殿に直談判してまで私を仕事から外そうとするに違いありませんから」
「……ああ」
――直接おぬしからその隠された想い……すなわち恋慕と治ることはないだろう病のことを打ち明ければ、あやつとて聞く耳を持たないわけでもあるまいに。何せあやつとて……
曹操は喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。乙女は分かっている上でそうしているのだろう。曹操と乙女の付き合いも短くはないから、もう何も言わなかった。ただ夏侯惇と乙女が結ばれるのならば、それは曹操自身にとっても、やはり一番良い形であるのだろうとだけ思った。二人がそう感じているのに、何も気づいていないのは夏侯惇ただ一人だ。いや、夏侯惇すらも本当は気づいているのかもしれない。言わないだけだということも十二分に考えられる。長い付き合いなのだから、口に出さずともよいはずだ。その考えはどんな時と場合にでも通用すると思っていても、彼のことであるから間違いとはいえない。しかしそれは乙女にも言えることなのだ。曹操は似たもの同士である二人を思って、深く溜息をついた。せめて乙女の病が治れば何かが変わるのかもしれないのだが。その希望を持てるようには思えなかった。
「乙女」
ある日血相を変えてやってきた夏侯惇の顔は、いつも以上に切羽詰まっているようだった。何も持っていないようであるし、急用があるということでもなさそうだ。乙女は心底不愉快だというように顔を歪めた。
「何」
「昨日倒れたと聞いた。俺に隠していたのはなぜだ」
さらに乙女は眉間の皺を深めた。最悪だ。その一言につきる。この男だけは知られたくなかったというのに、だ。執務を中断して夏侯惇を見上げる。字の震えを悟られないようにして、乙女は書簡を隅に追いやる。
「……誰から聞いたの」
「お前の部下からだ。お前のことを何か話しているようだった。俺がいるということに気づき慌てて去ろうとしたから吐かせたところ、練兵中に倒れたと言った。嘘ではないのだろう」
あれ程この男にだけは言うなと釘を刺しておいたのに。最も夏侯惇に凄まれた上でまだ何も言わないなど乙女ならともかく兵卒ができるはずがない。もっと別の手段を用意しておくべきだったと歯噛みした。
「倒れたことは本当だけど、」
「だけど? 言い訳があるのか」
何をそこまで怒る必要があるというのだろうか。乙女は分からなかった。言い訳などない。単に病が進行しているだけだろう。そのように正直なことを言えるはずもないのだが。確かにこの調子で睨まれれば兵は一溜りもないだろうと呑気な考えが浮かんだ。
「別にね、大したことじゃないから。それよりなんでそんなに苛立ってるわけ。大したことじゃないから言わなかったわけでしょ。さすがに殿には伝えているけど……」
「気に食わんだけだ」
「何、それ」
「……お前が本当に大事ないと言うのならば、ひとまずは信じてやろう」
偉そうに! 乙女は言いたいことだけを言って去ろうとする夏侯惇にもう一度何かを言ってやらないと気が済まないと思った。言いたいことといえば聞こえは良いが、その実具体的なものは何一つ発していない。気に食わないとはなんだ、信じてやろうとはなんだ。言わなければ何も伝わってこないということを、この男は分かっていないのだ。勢いよく立ち上がって、大きな背中を追いかける。だが踏み出した一歩はそれ以上歩みを進めることなく、乙女の体は沈んでいった。
「乙女……?」
大きな物音に振り返った夏侯惇は、自分の目の前で起きたことをすぐには理解できなかった。
この女、やはり何かを隠していたのだ。そう気づいた瞬間に、血の気がさあっと引いていくのを感じた。倒れたままぴくりとも動かない乙女を抱き上げて夏侯惇は歩く。
言わなきゃ分からない。乙女が夏侯惇に対して毒づきながらそう心の中で呟いていた言葉は、夏侯惇の心の中にも同じように渦巻いていた。けれども自分もそうであるのだとは気づくことはないのだった。力なく手足をだらりと垂らす乙女を見て、ただ彼女の無事を祈ることしかできなかった。
「……夏侯惇」
乙女はその後、浅く呼吸をし続けていたものの、結局目を覚ますことは一度もなく緩やかに旅立った。陣中で死にたいと彼女は願ったが、それは叶うことはなかった。彼女ですら、この末路は予想していなかったもののはずだ。
間違いではないだろうな。典医に掴みかからんとする勢いで夏侯惇は乙女の死を信じられずに責めていたものだが、固く握られた拳は典医でも曹操でもなく、自分自身に向けられていたものだったのかもしれない。
「いくら孟徳とはいえ、俺にあいつのことを隠していたということは許せるものではない。分かっているだろうな」
涙は出なかった。倒れたとはいえ顔色はいつもと遜色変わらないように見えたし、今もなおそのままだ。眠っているようにしか見えないし、ふいに起き上がって突っかかってきそうなくらいだった。それこそあの日のやり取りをそっくりそのままやってのけることができそうなくらいだった。曹操も同じようなことを思っていたのかもしれない。だがこちらは幾分かの余裕が垣間見えた。慣れぬほうが良いとは分かっていても、肉親や親しい人間の死を幾つも経験すると嫌でも慣れてしまうものなのだろうか。きりがないと言えば聞こえは悪いが、そうでも思わないほどまでにこの男は、人の死を知り続けている。
「……わしとておぬしのことを思っていたのならば打ち明けていただろうな」
「どういうことだ」
「おぬし、本当に何も知らなかったのだな」
これが曹操でなければ、手が出ていたかもしれない。夏侯惇は曹操の言葉に大きく苛立ちを募らせた。なぜお前が知っていて、俺があいつのことを知らないのだと思った。
「病のことをおぬしだけには知られたくない。乙女はそう言っていたから、あやつの意思に従ったまでよ」
「俺が信頼に足らないとでも」
「その逆だ。わしよりおぬしのほうがよっぽど信頼されているだろう。もし乙女の病のことを知っていれば、おぬしは何をしていた」
「……全ての仕事を後任に引き継がせ、安静にするように命じる。働き詰めだったことも一因だろう」
今更言ってもどうにもならないことを尋ねて何になるというのだ。夏侯惇は馬鹿真面目に答えている自分にも嫌悪する。妙に冷静に答えることができてしまったということも、気味が悪かった。一方曹操は夏侯惇の答えが乙女の予想とほぼ合致していたことを確認し、彼に悟られることのないように心の中でだけ笑った。
「やはりおぬしと乙女はよく通じ合っておるな」
「……今そのように称されたとて意味もない」
本当に通じ合っているのならば、この結末とて少しはましになっていただろうに。夏侯惇はそう思ったが、曹操も少しは感じるものがあったのだろう、咳払いをして話を強引に切り替えた。
乙女の死に一番堪えているのは紛れもなく夏侯惇だ。だがこうなることを知っていた上で何もしなかった曹操も、夏侯惇の様子を見ていると気が滅入っていくようだった。せめて彼女の言うとおり、陣中で最期を迎えることができたならば、少なくとも彼女は幸せだったろうに。
「それもそうだな、夏侯惇……今わしらが考えねばならないのはこれからの話だ」
「何の話だ。これからのことなど今は考えられる気がせん」
「そう怒りを滲ませるな。葬儀のことだ。覚えているだろう。倉舒(※曹沖の字)の葬儀の折、甄家の娘を共に葬ったことを」
覚えていないはずなどない。曹沖の死に大きな衝撃を受けていた乙女の姿を一番近くで見ていたのが夏侯惇だった。深く追求することは一度もなかったが、単純に彼の死のみに感じ入っていたのではないのだろうという密かな予感が夏侯惇にもあった。あったというだけで、それを確かめる手段は既に潰えている。予感だけが、夏侯惇の胸中を蝕んでいた。
「ああ……覚えている」
曹沖は齢十三、未婚のまま亡くなった。奇しくも同時期に、同じく未婚のまま亡くなった少女ががいた。曹操はその遺体を貰い受け、ともに葬った。二人は他人だ。だが少女は曹沖の妻として埋葬された。葬儀と挙式が混じりあった、大層奇妙なものだった。霊が慰められるとでもいうのだろうか。夏侯惇はそういったものには疎くあまり分からなかったが、乙女は悲しみながらもどこか興味深く思ったのか、やけに熱心に儀式を見つめていた。
「それで、だ。一度だけ、特に詳細を聞くこともなかったのだが、乙女は婚姻に対して考えを洩らしていたことを憶えている」
「あいつが、まさか」
「そのまさかだ。情勢が落ち着けば羽を休めたいと言っておった。つまりだな、あやつに対しても同じようにしてやろうと思ったのだが……おぬしはどう思う」
嘘だった。乙女が結婚するならば夏侯惇でないといけない。それは曹操も承知している。仮に曹沖の時のように相応しい死者が傍にいたとしても、曹操は決してそのように取り図ることはないだろう。その上で曹操は夏侯惇に鎌を掛けているのだった。
「ありえん」
間髪入れずに飛んでくる答え。曹操はさらなる探りを入れる。
「ほう。なぜだ?」
「……前にも言っただろう。俺は、孟徳が覇道を為すのを見届けない限りは女にうつつを抜かすことなどしない」
「ならば、その先は」
この先、とっくに分かりきっている答えが返ってくることだろう。曹操が聞くまでもないことだった。
「……乙女ならば、きっと俺を受け入れるだろう、と……思っていた」
言わなければ伝わらない。けれどもいつか伝わるだろう。それに、まだその時ではないはずなのだ。そんな考えなど、端から間違っている。
気づくのが遅かったのだ、とそこで初めて夏侯惇は自覚した。あの時動かなくなった彼女を抱えながら、なぜ伝えなかったのだ、と酷く責めたくなった。己の動転を隠すためでもあったと今なら言える。夏侯惇はそこで初めて、もう二度と戻ることのない日々を深く追憶して、抑えきれずにこみ上げる感情から必死に背こうとした。いっそのこと、めちゃくちゃに暴れてやりたかった。
「そう言うだろうと思っておった。安心しろ夏侯惇。先の言葉は真実ではない。……おぬしの気持ちは、言わずとも伝わっておろう」
曹操は最後にそう言って部屋を辞した。鎌を掛けられていたのだ、と気づいたころには既に曹操の姿はなかったが、夏侯惇からは曹操に怒りを向ける感情はいつの間にか消え失せていた。
慰めの言葉一つで救われるほど単純なものではない。それでも今は曹操の言葉に縋るしかないのだ。
乙女の葬儀は滞りなく終わった。やはり、夏侯惇は涙を流すことができなかった。全てが終わった後ならば泣くことくらいできるのだろうと思っていたが、そうはならなかった。薄情な男だと乙女は思うのだろうか。それでもどこかで、あいつならば文句を言いながらでも受け入れてくれるだろうと信じたい思いがあった。
その日の夜、眠っていた夏侯惇は、何かがのしかかっているように体が重く感じた。違和感に目を覚ます。一つしかない夏候惇の眼が、目の前を大きく映し出す。
「元譲」
「乙女……?」
夢でも見ているのだろうか。夏侯惇は目を擦ったが、幻でもないようだ。思わず敷布を握りしめた夏侯惇だったが、彼女の冷たい手がそこに触れ、反射的に体が震えた。夏侯惇の体に馬乗りになっている彼女は、綺麗なままだった。
「私、寂しいよ」
「……」
何が言いたい。夏侯惇は妙な胸騒ぎを感じた。未練が残っているまま死んだ人間もこの世のどこかにいるだろうが、彼女がそうであるとは思えなかった。寂しい、などと。本当に乙女なのか? 夏侯惇は何も言えずにいる。
「曹沖様とあの娘を見て私、思った。別にここで結ばれなくてもね、死んじゃった後に結婚しちゃえばいいんだって」
だからさ、私のために死んでくれない?
乙女の手が首元に伸びる。夏侯惇は彼女の手首を勢いよく掴み、そのまま捻った。いくら愛しい女だからと言って、躊躇する時間はない。痛みに怯む乙女の隙を突き、武人として戦場に立つには細すぎるその体を力任せに引きずり降ろす。夏侯惇はやっと起き上がり、整理できておらず働かない頭を必死に巡らせた。寝台から落ちた乙女はゆっくりと立ち上がる。幽霊にしては現実味がある。だが彼女の言動は、現実として存在していた彼女のものとは感じられない、空虚なものだった。
「……本当に乙女か?」
乙女は憂いを帯びた表情で笑った。
「ごめんね。元譲。墓まで持っていこうと思ってた……でも、できなかった。ごめんね。これなら、ずっと前から言えばよかった。元譲が私のために何かをするなんて、ないんだけど、それでも。今だってそう」
「……いくらお前が相手でも、この命は渡せん」
「分かってる。分かってるはずだった。でもね、やっぱり元譲のお嫁さんになりたかった。今からでも遅くないんだって、思っちゃった。そんなはずないって、あなたが殿を差し置くなんてあり得ないって、昔から……、そう、ずっと前から分かってたのに。だから、私は自分の気持ちに蓋をしたくてあなたにいつも素っ気ない態度を取ってた」
「……」
「ごめんね、でもずっと大好きだよ。今更言っても、どうにもならないのは分かってる、けど。言わなきゃ分からないんだって、それくらい分かってたのにね」
「乙女」
「元譲はさ、殿のことを支えて、殿の天下を見届けて、ね」
「その先は」
「先?」
「……その先まで、待ち続けてくれるのならば……」
お前を娶ろう。
色気も状況に則した雰囲気も情緒のかけらも何もない、たった一言だった。死人に向かって何を言っているのだろうか、俺は。だが目の前に確かに存在している彼女を前にして、何も言わないことも、抱えている感情を誤魔化すこともできなかった。あの二人は、本当に結ばれたのだろうか? 死人同士を結婚させるなんて馬鹿げている。それでも、言わずにはいられなかった。乙女を鎮めるためではない。紛れもなく、自分のためなのだ。
「元譲らしい言葉が聞けて良かった。……好きだよ。ずっと待ってる」
「ああ……」
翌朝、夏侯惇は珍しく寝坊した。懇意にしていた同僚、乙女の死から僅かのことでもある。よって部下は大層心配していたものだったが、何でもないと平常を装った。本当に装うことができているのかはともかく、何でもないふりをひたすら突き通した。
あれからというものの夏侯惇は、自分がいつ眠ったのか、そもそも乙女がいつ消えたのかすらよく覚えていなかった。朝気づけばそこは乙女がいたとは思えないほどいつもと変わらぬ光景だけが広がっていたし、そもそもあれが本当に現実であったのかどうかも定かではない。
それでも、乙女の冷たい手から伝わる感触と温度だけは鮮明で、それだけがやはりあれは現実だったのだと示しているように思えた。
「乙女が夢枕に立った。おぬしはどうだ」
曹操がふいにそう言った。夏侯惇はまさか乙女のことが口の端に上るとも思わず、激しく動揺した。
「乙女がか!?」
「そうだ。一瞬の出来事だったが、確かにあれは乙女だった」
「何か……言っていたのか」
「おぬしのことをよろしく頼む、とは言っておったな。おぬしはどうだ」
「……俺のところには、何も。薄情なやつだ、全く」
曹操が声を上げて笑う。夏侯惇もつられて、少しだけ笑った。
なぜ、心から信頼する早々に隠し事をしたくなっただろう。はっきりとした理由があるということではなかったが、二人だけの秘密というものも悪くはないと思った。何せ、曹操も乙女の件では夏候惇に隠し事をしていたのだ。きっとこの夏侯惇の小さな意趣返しを見て、乙女もどこかで笑っているに違いないと思った。
(20241029)