来世では、幸せになりましょう
夫、荀イクと主君である曹操は、近頃になって折り合いが悪くなってきたらしい。それは乙女も痛いほど分かっていた。
これからの世を形作るために何をするべきか。いくら主君と臣下という関係性であっても、その意見に食い違いが出るのは不思議なことではない。
だが、曹操は必要以上に荀イクのことを疎んじているように乙女にも思えた。かつての官渡の戦いでは、乙女は曹操を叱咤激励した。彼の働きがあったからこその勝利だった。あの頃の曹操は彼を称えたものだが、もはや今は、見る影もない。日に日に自らの在り方を苦悩し続ける荀イクの様子を家人から聞くのは、乙女としても苦しいものだった。
「もし私が、この世から消えてしまったとすれば」
荀イクは乙女と二人で過ごしていた時、唐突にそう言った。不穏な情勢のもとであっても彼は妻に対して常に愛を持って接していたし、彼は出来るだけ政に関することを乙女の前では話さなかった。だから、今現在の荀イクの、そしてこれからの彼の辿る行く末を匂わせるような言葉を彼の口から聞くのは驚くべきことだった。
「何を、おっしゃりますか」
心臓がどきりと跳ねた。乙女はいつものように佇む荀イクの横顔を見る。その瞳は片時も揺らがない。真っ直ぐ、己の信念を見つめているのだ。その時も、乙女にとってはそう見えた。だからこそ、彼の言っていることが不吉なことの暗示のように思えた。
「私が……消えてしまうとすれば、あなただけでも、幸せになってもらいたい」
「文若様は、私と居るのが幸せではないのですか」
食い気味だった。この現状は、やはり彼にとっては不幸そのものなのかもしれない。だが乙女は、自分との営み全てが否定されたかのような錯覚に陥ったのだ。それは違うだろうということくらい、心の中では分かっている。彼を困らせたいわけではないのだ。乙女は後先考えずに言い放ったことを恥じる。
「……すみません。そういうつもりではありませんでした。あなたと共に居る時間が続けば、それ以上に幸せなことなどありません」
「いえ、私のほうこそ……申し訳ございません。ですが、なぜそのようなことを」
荀イクに余計な気を遣わせてしまったのかもしれないと乙女は思った。彼が言いたいのはそんなことではないのだということは分かっているのだ。
「あなたは、私に縛られる必要などないのです。私といるのは、肩身が狭くなるだけですから。私が旅立てば……あなたにはもっとふさわしい人が見つかることでしょうね」
荀イクはそう言って、寂しげに笑った。
「私はどこまでも、旦那様に着いていく所存です」
荀イクはただ静かに笑みを浮かべているまま、何も言わなかった。荀イクが何を言おうとしているのか、乙女には分からない。ただ、彼が言っていることは単なる仮定や想像上のことだけでなく、本当にいつか起こってしまう未来のように思えた。
曹操と荀イクの間に生じた軋轢は元通りにならないままだった。荀イクは曹操に献策することさえ禁じられた。彼は体調を崩す日も増えていった。
乙女の前では平常を装ってはいるものの、明らかに疲弊している。それに気づかない乙女ではなかったが、なんの力も持たない彼女にはどうする事も出来なかった。
その中で、乙女が危惧していた、最悪の事態が起こってしまうのだった。
「だ、旦那様が……」
初めに発見したのは、たまたま彼の部屋を訪れていた従者だった。
騒ぎをきき、乙女は慌てて駆けつける。
そこには、既に息を引き取っていた荀イクが倒れていた。
「文若様!」
乙女は地面に伏した荀イクの傍に近づく。青白い顔は、紛れもなく死人のそれで、乙女は背筋が粟立つのを感じた。信じたくはない。だが、このような姿を見れば、信じざるを得ない。
荀イクがこうなってしまうかもしれないという予感はあったのに、何も出来なかった自分が情けないと思った。冷や汗が止まらず、乙女はふらりと倒れてしまいそうになったところを家人に支えられ、ようやく立っている。
毒を煽ったのだろう、小さな杯には僅かに液体が残されていた。
「私も! 旦那様の元に行かせて!」
泣きじゃくりながら家人の腕を振り切って乙女は杯に手を伸ばす。二人で居られたからこそ、幸せだったのだ。ほかに何も要らなかった。
だが思うように体は動かず、再び家人によって組み敷かれる。「早まってはなりません」乙女の頭上からはそのようなら声が降ってきた。違う。わざと早まっているのだ。乙女はぼんやりとした頭でそう思った。
なぜ荀イクは死ななければならなかったのか。乙女は自室に連れ戻され、寝台に寝かされていた。あの後、彼女は衝撃的な光景を目に焼き付けたからなのか、気絶してしまっていたらしい。
天井を見上げながら、乙女は家人の話を聞いた。
曹操から、中に何も入っていない箱が贈られてきたのだという。それは何を意味しているのか。荀イクのことだから、それだけで悟ったのだろう。
主君に対し、箱に何も入っていなかったといえば、「箱には品を入れていたはずだ。そんなことは有り得ない」と嘘を吐いたことに仕立てあげられてしまう。反対に、贈り物に対して礼を言えば、今度は「箱には何も入れていなかった。なぜそんな嘘を吐いている」のだと、こちらもやはり嘘を吐いた人間として認識されてしまう。
どちらの場合も、今の荀イクにとっては万死に値してしまうのだろう。つまり初めから彼にとって選択肢など存在しなかった。
さらに、荀イクは短いながらに遺書を書き残していた。
なんの品物も入っていない箱というものは、全くもって役に立たない。つまり、荀イクこそが曹操にとっての空箱……用済みであると曹操は彼を判断したのだ。
「私にもう出来ることはありません。それは殿も承知のはずでしょう」
荀イクは、曹操に対してそのように遺していた。
そんなことを言われても、乙女は納得出来るわけがないと思った。
なぜ死ぬ必要があったのだ。地位も名誉も、何も要らなかった。ただ荀イクと居るだけで、幸せだったのだ。
「旦那様は、奥様に対しても文を残されております」
そう言って家人は乙女に書簡を手渡した。
乙女は生きる意味を失ったと思った。この書簡に、荀イクを置いてまで生きる意味は書き記されているのだろうか。乙女は恐る恐る読み進めた。だがそこに書かれていたのは、さらに乙女の傷を抉っただけだった。
「なぜそのようなことを……ああ……」
泣き崩れる彼女を見るのはいたたまれなかったのか、家人は小さく礼をした後部屋を出ていった。
荀イクが乙女宛に遺していたのは、彼女の行く末についてであった。
以前、彼は乙女にこう言った。
自分に縛られずに、自由に生きて欲しいと。そして、幸せになってほしいのだと。
その気持ちは荀イクの中でずっと眠り続けていた。今だけではなく、これからもなのだろう。彼は乙女に対して、新たな婚姻相手を手配するように頼んであるのだという。
荀イクが乙女を思う気持ちは本当なのだろう。だがそれは彼女にとっては残酷な決断だった。
荀イク以外の何者も、愛せる気がしないのだ。乙女はひたすら涙を流し続けた。不思議と、先程のように死にたいという気持ちは消え失せていた。それはきっと、荀イクの思いを裏切りたくないという気持ちからだ。だが彼の願いを受け入れられるとは到底思えなかった。
矛盾を抱えた乙女は、ろくに眠れずに朝を迎える。それが毎日のように続いた頃、乙女の新たな夫が決まった。
男は曹操の取り計らいで乙女と婚姻することが決められたらしい。なぜ今更曹操が出てくるのだ。乙女は、悲しみの裏返しなのか曹操に対する怒りがふつふつと沸いていた。
なぜ荀イクは死ななければいけなかったのか。曹操を逆上させないように。そう思っていながらも尋ねざるを得なかった。だが彼は瞬きひとつせずに、「覇道を行くとはこういうことだ」と、毅然とした態度でそういうのみだった。荀イクの無念が晴らせるとは思えなかった。
「星が出ている。見よう、乙女」
「……はい」
新たな夫となった男は、荀イクのように物静かな男だった。
悪い人間ではない。なんの後ろ盾のない乙女を娶るくらいなのだから、優しい人間であることは確かなのだろう。
だが、その優しさが痛かった。どうしても、些細なことであっても荀イクと比べてしまうのだ。
乙女は荀イクの死を脳裏に焼き付けたあの日のように、枕を涙で濡らした。
新しい夫には申し訳なかったが、荀イクでないとやはり幸せになれないのだと思った。夫となった男は何を思ったのか分からなかったが、そんな乙女に対しても愚痴のひとつも零さなかった。いっその事、乙女を邪険に扱う陰険な人間であれば。将来を憂いて荀イクのように自害したかもしれない。だが今の自分にはそのような度胸すらないのだ。乙女は苦しんだ。
そのような日々が続く中、乙女はある箱を見つけた。その箱は、元々荀イクと住んでいた屋敷から彼女が持ち出してきた品のうちの一つだ。
曹操の計らいで決められた夫に未練がましい女だと思われるわけにはいかなかったが、荀イクが大切にしていたものだからと秘密裏に持ってきたものだった。
曹操が荀イクに贈ったような、空箱ではない。重みがある、大切なものだった。
荀イクが常に大事に扱ってきたものがそこには入っている。乙女は戦に出るような人間ではないから、実際のところ何が入っているのかは知らなかった。彼は妻の前では政の話も戦の話もほとんど話さなかったからだ。
だが荀イクはこの箱から何かを取り出し、戦場に赴いていた。
今は亡き彼の思いが詰まっているのだろう、この箱には。乙女は夫の居ない隙に、箱を開けた。
「これは……?」
中に入っていたのは、杖だった。先端には丸い玉のようなものがあり、そこには龍の頭の装飾が備えられている。杖のようではあるが、先端は尖っており、地面に刺せば固定されてしまいそうなほどだ。通常の杖の用途ではないのだろうということは、その形状からも理解出来た。
きっとこれは、荀イクが戦場で振るい、幾多の死線を共にくぐり抜けてきた大切なものなのだ。
乙女はそっと杖を手に取った。透き通るような玉は、乙女の瞳をも反射するほどに磨かれている。傷一つなく磨かれており、荀イクの生真面目さが現れているように彼女は感じた。
たまらなくなり、乙女は杖を抱きしめる。無機物であるそれは、温もりを持っているように思えた。彼の、道半ばで果てた志や思想が、この杖に詰まっているかのようだった。
「文若様……文若様……」
まるで本当に荀イクを抱きしめているかの如き姿だった。乙女は夫が帰宅するまで、自室で彼の形見であるこの杖を離すことはなかった。
このような姿を、夫に見られるわけにはいかない。乙女は彼の帰宅を悟や否や、杖を元通りの箱に収めて、溢れた涙を拭った。
夫は乙女が、未だに荀イクのことを想い続けているのだということを知っている。それは乙女も感じ取っていた。だからこそ、このような場を見られるわけにはいかなかった。
だが、乙女はもう、我慢することが出来なかった。
初めは夫の居ない時のみ、杖を手に取った。だが次第に、夫が屋敷に居る時でも構わずに杖を取り出し、人間と触れ合うかのように慈しむようになった。
「文若様。今日は雲ひとつない快晴でございます」
誰も居ない部屋の中で、乙女は語りかけた。荀イクの姿など、どこにもない。既に死人であるのだから、彼女はただ独りで話しているだけに過ぎない。
杖は、荀イクなどではない。だが乙女は次第に自分の想いを押しとどめることが不可能な状態へと変貌していった。
「文若様。私、昨夜はあまり眠れませんでした。旦那様がお傍に居なかったからでしょうか」
夫も、乙女の奇行を怪しむようになっていった。何せ、自室に居るときのみならず、二人で過ごしている時も彼女は杖を肌身離さず持ち込んでいる。その上、杖を亡き荀イクに見立てて話しかけているのだ。
尋常ではない。夫は寡婦となった乙女のことを真剣に愛そうとしていた。だが、この様子では耐えられないかもしれないと感じるようになった。
「文若様……今日は……」
「乙女」
夫は、耐えかねて乙女の言葉を遮った。振り返った乙女はきょとんとして夫を見つめる。悪びれる様子はなかった。
「なぜ、杖にしか話しかけない。私はここにいるのだぞ」
乙女は既に精神を病み始めていたのだろうか。彼の言っていることが理解できないとでもいうように、首を傾げた。
「なぜって……文若様が居るからです。ここに」
乙女は、どうやら杖のことを本気で荀イクなのだと認識するようになっていたのだ。
「正気ではないな」
「なぜです。私はいつもと同じです。ねえ、文若様」
話は通じなかった。乙女は夫のほうがおかしなことを言っているのだと本気で思っている。荀イクに呼びかける彼女は穏やかで、幸せそうに笑っている。
彼女は幸せなのかもしれなかったが、どう見ても正気の沙汰ではない。夫は乙女を恐れた。そして、彼女の荀イクに対する想い、いや執念に戦慄した。
これ以上は耐えきれない。夫は行動を起こした。
乙女が杖を離して部屋を出た僅かな時間のことだ。
夫は、杖を地面に叩きつけたのだ。透き通った玉は跡形もなく砕け散り、床全体に欠片が飛び散る。
その光景を見ても、夫はもう何も思わなかった。ただ掃除が面倒だと思っただけだ。乙女が荀イクに対する執着を失くすことを期待したが、彼女をこれまで通り愛すことが出来るかはもう分からなくなっていた。
「ああああああああ……!! 」
杖が割れた音を聞いたのか、杖が粉々になった現状が余程堪えたのか、戻ってきた彼女は金切り声を上げて叫んだ。夫は思わず耳を塞ぐ。彼女の叫びは、長い間収まらなかった。
「文若様、文若様!!」
へたりと地面に倒れ込み、乙女は尚も叫び続けた。杖は、荀イクなどではない。夫は、乙女のことを哀れみを込めた目で見た。
「文若様……文若様……?」
そうして声を荒らげていた彼女だったが、それが訪れたのは突然の事だった。
唐突に、乙女はふらりと立ち上がったかと思えば、焦点の合わない虚ろな瞳を泳がせながら安定しない足取りで歩き出す。
「おい、どこに行くのだ」
「文若様……」
杖を荀イクと見立てていた頃とは、また違うものだと夫は思った。乙女がどこを見ているのかも分からない。見ているとすれば、きっと彼女にだけ見えているのだ。
きっと、彼女は荀イクの姿を見ている。
夫はもう、引き留めても無駄だと思った。自分が何をしようとも、乙女は荀イクのことしか愛していないのだ。
夫はただ呆然としながら、乙女が覚束無い様子で歩くのを見つめるのみだった。
家人が夫の割った杖に気づき破片を掃除しようとした頃、夫はようやく我に返る。
慌てて乙女の部屋に入った。そこには。
乙女は床に這いつくばるようにして倒れていた。毒を入れた器が、傍に転がっている。奇しくもそれは、荀イクが命を絶った原因である毒と全く同じものだった。
いつの間に仕込んだのか。夫は複雑な気持ちで、何か彼女の自害に関するものが残されていないか辺りを見渡す。
夫が卓上を見ると、そこには書簡と、ただ一言だけが遺されていた。
「幸せになりましょう」と。
だが、その筆跡は乙女のものではなかった。では、一体誰が書いたものなのか。
夫はこの時は分からないままだったが、後に知ることとなる。
その筆跡は、不思議なことにかの荀イクに酷似していたのだという。
(20240506)