勝機はない
バレンタインなんて、所詮製菓会社が儲けを得るがためのイベントだ。乙女は昔からそう思っている。
それでもショッピングセンターに設けられた特設売り場を覗けば、ついチョコレートを買ってしまうというものが、人間の性なのかもしれない。まんまと製菓会社の思惑に乗せられてしまっているのだという自覚が乙女にはあった。
誰に渡すわけでもない豪勢で高いチョコレートと、自分で食べる用の安いチョコレートが入った買い物カゴを眺めながら、バレンタイン当日にでも良い出会いがないものかと思案を募らせた。毎年、こうだ。二種類のチョコレートを買うが、最後には乙女自身の胃袋に両方収まってしまう。
恋人も居なければ、好きな人も居ない。義理チョコを渡し渡される関係が無いわけではないが、かといって乙女から積極的に渡せるような人間が居るということでもない。
「大切な人に送るチョコレートはいかがですか」
そんな広告を見る度に、乙女は憂鬱な気分になった。自分が惨めだと思ったのである。
そんな惨めな気分になりながらも、バレンタインに対して懐疑的になりながらも。結局はチョコレートを買ってしまう。
そんな自分を変えたいと強く思う……訳でもないが、一人寂しくチョコレートを平らげる生活は、今年で終いにしたいものだ。そう思って乙女はレジに向かう。
「ラッピングには追加料金が掛かりますが、いかがでしょうか」
去年は無料だったはずだ。世知辛い世の中になってしまったものだと思いながら、送る相手の居ないチョコレートのラッピングを店員に頼む。
贈り物用のラッピングをしても、最終的には自分が汚く破り捨ててしまうだろう。
乙女は虚しさを感じながら、チョコレートがラッピングされていく様子を眺めた。
それが約1ヶ月前の話だ。
まだバレンタインの日は迎えられていないということを、乙女はスマートフォンに表示された画面を見て思った。
「乙女。こちらの生活には慣れてきたか」
「まあ、ぼちぼち……です」
乙女の曖昧な返事に対してニコニコ笑っているこの男は、周瑜という聞き慣れない名を初めに名乗った。
周瑜は、乙女が初めてこの地にやって来た際に出会った人間だった。
「まだまだ不自由もあるだろうが、気になることがあれば何でも言ってくれ」
乙女は気づけば、この見知らぬ地に倒れていたらしい。よくある転生のイメージといえば車に轢かれるだとかが想像出来るが、そういった自覚は乙女にとって全く存在しなかった。
きっと、周瑜に発見されていなかったら乙女はもうこの世から消えていたことだろう。お人好しなのかなんなのか、周瑜は奇怪な衣服を身につけ不可思議な持ち物を持っていた乙女のことを、疑いすら持たず迎え入れた。
もう私たちは家族なのだと、乙女のことを指して周瑜は言った。人の温もりを感じるのは久しぶりだと彼女は思ったものだ。
その家族と呼ばれた者たちは皆珍しいもの見たさなのだろうか、乙女の元を訪れる者は多く居る。が、誰も彼女のことを傷つけようとはしない。これも周瑜の人柄なのかもしれないと、乙女は思っている。周瑜が連れてきたのだから大丈夫なのだろう。そんな安心感が皆にはあるはずだ。
「君がここに来てくれてから、以前よりも毎日が楽しくなったと皆言っている」
乙女は曖昧に笑った。
確かに皆、乙女に対しては優しくしてくれている。まだここに来て日が浅いにも関わらずだ。乙女の元いた世界のことを話せば孫策は目を輝かせて食い入るように話を聞いていたし、孫権はカメラのシャッター音に困惑しながらも自撮りに付き合ってくれた。
元の世界より、楽しいのかもしれない。乙女はもはやそう感じるまでになっていた。たった一ヶ月ほど過ごしただけだったが、今まで過ごしたどんな日よりも濃い一ヶ月を過ごしているという自覚はある。
一人で惨めに夕餉を食べるわけでもない。インスタントラーメンやコンビニ弁当を貪ることもない。乙女はこの理解の及ばない世界の中で、確実に本来の世界よりも自分は満たされているのだと思っている。
十分に満たされているとは思うのだが。
「周瑜さまー!」
甲高い少女の声が周瑜を呼ぶ。乙女が声の方向を見ればそこに居るのは小喬だった。
「小喬! すまない乙女。困ったことがあれば皆を頼ってくれ」
あっという間に周瑜は小喬の所に向かう。小喬は遠くから乙女を見て手を振った。乙女は控えめに手を振り返す。二人は仲睦まじく歩いていった。
胸が痛い。乙女はそう感じた。
一目惚れ、なのだ。あの日周瑜に助けられた時から、彼のことが気になっていた。人を好きになるのは何年ぶりのことだろうか。乙女はそれすら分からなかった。
けれども、彼女の思いが叶うことがないというのは、誰が見ても明らかだ。彼女が舞い上がれたのは、ほんの僅かな時間だけだった。周瑜は、小喬という伴侶が居る。そう気づくのに時間は掛からなかった。
嫉妬する訳ではない。小喬も乙女に対しては友達のように接しているし、そんな小喬に助けられている部分も、彼女にはもちろんあった。小喬のことを嫌うことが出来るはずがない。
だからこそ悲しくて、満たされないのだ。初めから勝てるはずがない勝負に挑むほど、乙女は己が馬鹿な人間ではないと思っている。
第一、周瑜は小喬を愛しているのだ。自分には目もくれないだろうし、仮に小喬を蹴落とそうとするものならばどうなるのかが目に見えている。周瑜は恋人を蔑ろにされて怒らないような人間ではない。小喬に何かあれば、きっと乙女はもうここには居られないようになってしまうだろう。そうなれば乙女に生きる術はない。
それでもなお、周瑜のことが好きだった。まだ出会ってひと月ではあるが、好きになってしまったのだ。
この世界にある限り彼のことを思わない日はないのだろう。周瑜が乙女に優しくする度に、彼女はそう思う。周瑜が優しくする度に、小喬の前ではまた違った優しさを見せているのだろうかと考え、乙女は苦しくなる。自分が本当の意味で満たされることはないのだという自覚が深まるばかりだ。
「はあ……」
一人になってしまった。スマートフォンを開けば、皆で撮った写真が待ち受けとして表示されている。
スマートフォンの充電は残り僅かだ。たまたまこの世界にも持ち込めていた鞄の中には、モバイルバッテリーも入っている。けれど無闇やたらに使えるようなものではない。
バレンタインデーは明日だった。なんとなく、バレンタインデーまではスマートフォンのバッテリーを持たせたかった。
周瑜にチョコレートを渡したかったから、日付を正確に把握したいということなのだ。鞄の中にはあの日買ったチョコレートもそのまま入っていた。
小喬という存在を知ってもなお、チョコレートを渡したいという気持ちはまだ乙女の中にある。ラッピングしてもらった、本命用のチョコレート。別に、振り向いてもらえるわけでも、振り向いてもらいたいわけでもない。
自分の思いは一生成就しないということを、乙女は知っている。チョコレートを渡せば、少しはこの複雑な気持ちに決着を付けることが出来るのではないか。乙女はそう考えた。
鞄の中には、二つの箱。安物のチョコレートの包装を乙女は破る。
「……甘い」
懐かしい味だ、と乙女は思った。この世界に、こんな味のものはない。周瑜にもこの味を知ってもらいたいものだと彼女は強く思った。
「周瑜さん」
「うん? 何か困ったことでもあったのか」
バレンタインデー当日。乙女のスマホは14日を知らせていた。
周瑜は優しい人だ。乙女の呼び掛けにも丁寧に応える。彼女には決して手が届かない、雲の上の存在なのだ。
だからこそ、チョコレートを渡すのだ。短い時間だけでも、恋に落ちることが出来たことを愛しい思い出とするために。
「これ、周瑜さんに渡したくて。私の居た世界で、この日になると皆、大切な人に贈るんです。開けてみてください」
本当は好きな人に渡すものなのだとは、到底言うことが出来ない。けど、間違ったことを言っているわけでもない。これで良いんだと、乙女は自分を納得させる。
「これは……? 見たことがない。それに、良い匂いがするな」
「チョコレートって言うんです。甘くて、美味しいんですよ。苦いのも中にはありますけど」
甘いものも、苦いものもある。チョコレートも恋も同じだと乙女は思った。
「……本当だ。甘い。……不思議な味だ」
周瑜は目を輝かせて、笑った。
「そうなんです……甘いんです」
そんな周瑜の笑顔に対して、溢れそうになる涙を堪えながら乙女は言った。
チョコレートを渡した意味は、自分だけが知っていればいい。
いつ元の世界に戻れるかは分からないのだ。周瑜とも長い付き合いになるかもしれない。
初めから勝てるはずがない勝負に対して、今のうちに自分なりの終着点を見つけられて良かったと、乙女は思った。
私に、久しぶりに恋を思い出させてくれて、ありがとう。
乙女はそう心で思った。
最高のバレンタインデーだった。
(20240202)