熱帯夜
陸遜 熱帯夜
陸遜は、邸の中にある乙女に与えられた一室に無断で入り、本来彼女が座っているであろう主なき椅子に腰掛けていた。乙女の部屋とはいっても、元々は陸遜が物置として使っていたものを無理やり整理して彼女が過ごせるようにしたものであるから、実質は陸遜の部屋といっても差支えはない。もっともそんなことは言い訳に過ぎず、いくら同じ屋根の下にいるとはいえ年頃の女の部屋に忍び込むのは良い行いとは言えない。それは礼儀正しく、品行方正な陸遜らしくないのかもしれなかった。
陸遜は、乙女の帰りを待った。彼女は泣いているだろうか。それとも怒っているのだろうか。どちらにせよ、傷心しているであろう彼女の心の隙間に入り込むのが目的であるから、どちらでも構わなかったし、そんなことはどうだってよかった。
乙女は、陸遜とそう年の変わらない娘だった。往来で倒れていたのを保護したことがきっかけで、この邸にいる。どうやらこの時代の人間ではないのだというにわかには信じ難い事実を、陸遜はすんなり受け入れた。面妖な格好と時々混じる聞きなれない単語、世の情勢に疎く、常識というものを知らない。間者の類ではないことは明らかだったからだ。この世界にとっては異物でしかない彼女に対する反発もあったが、陸遜はそれを跳ね除け、そうした経緯もあってこの部屋は彼女に貸し与えられたのだった。
いや、未来から来たのだという言葉が仮に嘘であったとしても、陸遜は受け入れていたのかもしれない。一目見たときから、陸遜は彼女に目を、心を奪われた。
それは、陸遜に綺麗な感情だけではない澱んだものも生み出した。物珍しさから彼女に話しかける男を見る度に嫉妬で体は燃えるように熱くなった。可憐な笑顔を振りまく彼女に対して、その表情を見ることができるのは自分だけでありたいと強く実感した。
できることならば、彼女を誰の目にも届かないところに閉じ込めておきたいと思った。見知らぬ土地で、彼女も心細いことだろう。自分と共にあったほうが、きっと彼女も安心できるはずだ。この部屋の中で、彼女の生活は全て完結するのだ。なんの心配も要らない。自分さえいれば、彼女にはなんのしがらみも存在しないのだ。陸遜は己の嫉妬心には気づいていながらも、心を占める暗い独占欲に対しては無自覚だった。だから部屋から出したくない、むしろ部屋にいるほうがあなたは安全なのですよ、という独善的な考えは、あくまでも善意のつもりだった。その恐ろしさを、彼女は密かに感じ取っていたのかもしれない。
「あなたを助けたそのときから……あなたに抱いているこの気持ちは、愛なのだということを……私は知ってしまったのです」
そのときの彼女がなんと言ったのか、陸遜ははっきりとは覚えていない。「私は、そんな目であなたを見れない」確か、そんなことを言っていたような気がする。気がするというのは、あまり陸遜にとってあまり思い出したくないものであるから、脳が勝手にその記憶を曖昧なものにしているのだろう。それほどまでに彼女の無慈悲な返答はつらいものだった。
彼女はこうも言った。
「私、好きな人がいるんだ」
頭が真っ白になった。陸遜はその時のことを、それくらいしか覚えていない。けれども必死で笑顔を取り繕ったし、落ち込む様子は微塵も見せなかった。今、欲望のままに動くのは得策ではない気がする。それは人間の、というよりは人を動かし、時にはその人間性をも疑うような卑劣な策も臆せずに用いるという軍師としての本能だった。
陸遜は悲しむ素振りを見せる間もなく、自分が告白したことさえ初めからなかったかのように、すぐさま彼女の相談に乗った。彼女の抱く気持ちは性愛を伴わない愛なのではないか。汚れを知らない彼女であるからひょっとしたら、と陸遜は期待したが、目を期待と羨望に潤ませて好きだという男のことを話すものだから、陸遜は何でもないように振る舞いながらもなにかどす黒いものが広がっていくのをはっきりと感じた。
それでも、策謀とはなんの関わりのないただ善良なだけの男のように陸遜は思ってもいないことをべらべらと喋ったし、彼女も安堵したのか好きだという男のことを事細かく打ち明けた。
陸遜はもはや自分がなにを言っているのかも定かではなかった。自分ではない男の話を聞くのは想像以上に心をやられるものだったのだ。けれども彼女の話が終わり正気になったとき、彼はすぐに自分がなにをするべきなのかという道筋を描き出すことができた。
とにかく、最終的に彼女を組み敷いてものにしてやることが陸遜の最終的な目的であるから、彼女と男が結ばれるなどということはあってはならない。
陸遜は相談に乗るふりをしつつも、その裏から手を回していた。男の素性は、彼女が事細かに話したおかげですぐに掴むことができた。生まれも育ちも平凡な男だった。自分のいない間、一体どこで出会いどこで親交を深めたのかを考えると陸遜は平常心を保つことができなかったのだが、彼女にはひた隠した。
男には昔なじみの女がいるらしい。その女との関係性が実際のところどのようなものなのかは定かではないが、陸遜は二人の婚姻を持ちかけた。まだ周囲に知れ渡っていないが、きっと二人はそれを受け入れるだろう。彼女が男に思いを告げてもそれは叶わないことなのだ。その上で、男に乙女のことを伝える。彼女が親しげに話しかけてきても、それは慣れぬ土地で人肌の温もりを探し求めているだけのこと。決して肩入れせぬように。もし彼女が思いを打ち明けたとしても、それを受け入れぬように。陸遜は釘を刺す。「私、彼女のことが大好きなんです。ですから、あなたのためにも……分かっていただけますね?」 男は頷いた。ついでに、馴染みの人間にも言っておいた。「あの方のことですか? 私は本気で愛していますよ。彼女も同じ気持ちです」周りの男は単純で、清廉そうな陸遜の言葉を容易く信じた。
とにかく。男は彼女とそれ以上仲を深める必要など全くもってないのだ。あってはならないのだ。しかし、だからといって、彼女自身がこの恋心は実らないものなのだと気づくなんてことは許されない。彼女がこっぴどく打ち砕かれ、何もかもが手につかなくなるそのときを陸遜は待っている。そして、自分以外の誰も彼女のことを愛そうとはしないのだ。なぜなら自分たちは相思相愛。その事実を皆が知っているのだから。陸遜は、その布石を十分に整えたのだった。
「……大丈夫かな、私」
なんて言えばいいんだろう。悩む乙女を前にして、陸遜は慈愛に満ちた微笑みを向ける。仮面に過ぎないこれを、彼女は素直に受け入れている。やはり自分が守ってあげなければ、いつ毒牙にかかるものか分かったものではないと陸遜は思った。
「大丈夫ですよ。上手くいきます」
「……うん、そうだよね」
乙女を見送って、陸遜は彼女の部屋に入る。本来は物置として使っていたこともあって未だに散らかっている箇所もあるが、それでも人の部屋であることに変わりはない。
彼女のためにわざわざ用意した寝台に、陸遜は躊躇することなく寝転ぶ。天井のしみがやけに大きく見えた。もし彼女をこの寝台に鎖で繋ぎ止めたならば、このなんの面白みのない天井を見続けるというつまらない毎日を送らせることになるのだろうなと思う。広くはないこの部屋から一歩も出ずにいる彼女を想像する。自分の姿だけしか、その瞳に映すことのない彼女。早くそうなってほしいものだった。外の世界に行けば知らぬ間に奪われてしまうかもしれない。元の世界に帰ってしまう可能性もある。そんなことは耐えられない。この部屋の中、鈴の鳴るような可愛らしい声で自分の名だけを呼ぶ彼女の姿を想像して、陸遜は愉悦を感じる。
それから陸遜は、天井を眺めたまま時が経つのをぼーっとして過ごしていた。本当に何も考えずにただ転がっているわけではない。頭の中は乙女のことで占められていたし、それはぐるぐると限りのない渦が巻いているようだった。体を起こし、寝台から立ち上がる。代わりに椅子に腰掛けて彼女の帰りを待つ。そろそろ帰ってきてもおかしくはない。近頃は日が落ちるのが遅いから、特に心配はいらないだろうと思って窓の外に目をやる。これが冬だったら、本当に彼女を一人で外に出すなど何があっても阻止していただろう。陸遜はこれでも譲歩しているほうだった。
窓から視線を逸らす。丁度その時だった。ばたばたと足音が聞こえる。この不規則な音は、乙女に違いない。彼女がこの邸にいるとき、陸遜はこの部屋に入ったことはなかったし、いない時に忍び込んでいることも彼女は知らない。まずはそこからの反応が楽しみだった。そして、どんな顔をして自分に搔い付いてくるのだろうか。陸遜は扉の向こうの彼女を想像して、胸を高鳴らせた。
「……陸遜」
扉という隔たりがなくなり、乙女が部屋の入口に立つ。その瞳が揺れている。陸遜はいつものように微笑んでみせた。乙女は泣いているわけでもなく、怒っているわけでもなさそうだった。それどころの喪失感ではないのかもしれない。陸遜がこの部屋にいることに驚いているようでもあった。
「おかえりなさい、乙女殿……結果は、」
乙女が抱いているであろう疑問に答えず、陸遜は歩み寄る。明らかに乙女は落ち込んでいるのだが、陸遜はそれに共感したような素振りも見せずにただ笑みを浮かべたまま。乙女は様子のおかしさに気づいて思わず後ずさろうとするが、陸遜はそんな彼女の腰をぐいと引き寄せ、そのまま壁に押し付ける。常とは違う様子の陸遜に、乙女ははっと息を漏らした。
「駄目だった、よ……あ、あんなに……頑張ったけど、」
震える声も愛らしい。陸遜はもう自分を抑えることなど出来ないと思ったし、やっと彼女を懐柔できるのだという深い悦びに満たされた。乙女は間近に迫る陸遜から目を逸らす。
「……やはり、あなたは私と一緒になるべきですよ。目を逸らさないでください。私はあんな男とは違います。あなただけを、この身が朽ち果てるその瞬間まで愛します。大層苦しかったでしょう。私はそんな思いさせませんよ。ですから、私を見てください、乙女殿」
「なんで、私、あなたのことはそんな目で見れないって、ん、ぅ」
艶のある唇に、噛み付くようにして口付ける。熱い舌で乙女の口内はこじ開けられて、歯列を、歯茎をゆっくりなぞればくぐもった吐息が聞こえる。乙女は抵抗しようともがくが、いつの間にか陸遜は片手で容易く彼女の両腕を掴んでいるし、角度を上手く調整しながら蠢く二人の舌同士はいやらしく音を立てている。やっと離れた唇からはうっすらと糸が引いていて、淫靡だった。崩れ落ちる乙女の腰を引っ掴んで、陸遜はそのまま寝台になだれ込む。
「ね、乙女殿。私たちは皆に祝福されています。私たちの仲を疑う人なんて誰もいないんですよ。……私がそう仕向けましたから。さあ、つがいになりましょうね」
首筋に唇が降りてくる。乙女は既に逃れられないことを悟ったのか、「好き、好き、」と吹っ切れたように何回も呟く。そうしないといけないなどと、誰に言われたわけでもないが乙女は懸命に叫ぶようにして応えた。
ここで初めて乙女は思い知ることができた。彼が相談に乗ってくれたのは、初めからこうして弱った所につけ込むためなのだと。けれどもたとえその場しのぎだったとしても、「好きだ」などと言っていると本当に初めから彼のことを愛しているような錯覚に襲われて、乙女はぞっとする。洗脳されているみたいだ。
だが陸遜はそんなことを気に留めるはずもない。彼は笑みを深めて、昂るままに、熱に浮かされたかのように「私も愛しています」 と言って、胸元に赤い跡を残した。誰も二人の関係を疑う人間などいない。きっと乙女が以前のように外に出なくなったとしても、それほど陸遜に大事にされているのだと囃し立てるだけのことだろう。
(20240816)