届かぬ手、届かぬ心
届かぬ手、届かぬ心

やってしまった。だがもうこんな人生から解放されるのだ。それならば、受け入れる他あるまい。

乙女は複数の兵に取り囲まれながら、抵抗せずに全てを享受する姿勢を顕にした。それは自らに待ち受けているであろう仕打ちに畏怖しているというよりは、諦念とほんの僅かな歓喜の気持ちが混じりあっていた。

腕を後ろに回され、縄で縛られる。腰に付けていた短剣も懐に隠していた鉄針も暴かれ乙女は為す術もない。このまま、首を落とされるのだろうか、そう思って乙女は俯いていた顔を少し上げる。目の前の男は剣を携えていた。終わるなら早くしてくれ。弁解の機会も何もいらない。罪人であることには変わりないのだから。

頭を押さえつけられ、再び目の前には地面が映る。涙は出なかった。生きるためにはこれしかなかったとはいえ、こうして大勢の人を殺めることで生計を立てていたのだから、然るべき報いだ。乙女はそう考えて、そっと目を閉じる。

「待って!」

甲高い少女の声がする。思わず体が強ばった。子の声の主は間違いなくあの人だ。乙女は一刻も早く消えたくなった。

「小喬。……君には見せられない。君は早く戻ってくれ」

足音が増えた。若様……いや、旦那様だ。乙女は唇を噛んだ。力を入れすぎて薄い皮が裂けた。舌をちろ、と出して痛む箇所に這わせば鉄の味がする。いっその事舌を噛み切りたいくらいだった。舌を噛むほどの勇気はなく、そんなざまであるからこうして失態を犯しているのだ。

「違うの、あたし……お願い周瑜さま。あの人と話したいの」

「ま、待て小喬……!」

周瑜の制止を聞くこともなく小喬は駆け出す。彼女の前で罪人の首を撥ねるような真似はできない。そう思ったのか乙女を取り囲む兵はぴしゃりと直立する。掲げられていた剣も下ろされた。

今更何を言うのだろう。乙女はもうこの顔を上げたくはなかった。

乙女はとある筋からの依頼で小喬を殺せと命じられていた。だがそれは失敗に終わった。だから小喬が情けをかける必要はないはずで、むしろ早くいなくなれと思うほうが正しいはずだ。

「……あたし、あなたが欲しいの。顔を上げて」

小喬があろうことか跪き、乙女の体に触れる。兵が慌てて何か咎めるようなことを言ったが、首を大きく振ってそれには応じなかった。

頑固として、拒絶しなければいけない。自分のような人間は、二人に合わせる顔がない。そう思いたかったのに、乙女が目を向けているその先、冷たい地はぽつぽつと濡れていく。

それが涙だと気づくのに、そう時間はかからなかった。なんと情けないことだろうか。乙女は静かに涙を落とし続ける。小喬の柔らかな掌が乙女の頭に触れ、そうして降りた指先は未だ顔を上げられないでいる彼女の目元に達する。涙を拭われ、いよいよ乙女は湧き上がる悲しさと悔しさを止めることはできなくなった。

「……泣かないで、ね」

力が乙女から抜ける。後ろ手を縛られているから、床に手を着くこともできない。体が沈んでいく。小喬に抱きとめられる形になって、それの心地良さを乙女は知った。知りたくはなかったが、あやされるように背中を撫でられる。ああ、死ぬことはどうあっても許されないのだなと悟った。

「小喬」

周瑜が二人の傍に近づく。小喬は未だ縋り付くようにして泣いている乙女の体を離しはしなかった。

「いいでしょ、周瑜さま」

「……君のおかげだ。私は彼女と話さなければならない。やはり、ここで散らせるようなひとではない。それを確信に至らしめたのは君がいたからだ」

周瑜が兵に命じ、乙女を縛っている縄は解かれる。「顔を上げてくれないか」周瑜にも同じことを言われ、乙女はやっとの思いで二人の顔を見た。

「君のことはよく覚えている。やはり間違いではない。乙女……」

……初めから正体を知られていた。乙女は観念して、伸ばされたその手をとった。生かされたことの喜びは、あまりなかった。







「なぜ私を殺さなかったのです」

「またその話か。……悪い夢でも見たのか」

「はい。悪夢は私を死ぬまで苦しめるのでしょう」

乙女はその後、二人に仕える侍女として働いていた。それまでの経験からか、時折街に繰り出しては情報を集め周瑜に伝えるという一介の侍女以上の働きもしているが、それは乙女が勝手にやっていることだった。時には危険も伴うような場所に足を踏み入れることもありその度に周瑜も小喬も気が気でないのだが、乙女からすると与えられた仕事のみでは生ぬるいというもので、彼女は未だ自分が許されたという自覚などひとつもないのだった。

「……悪夢というのは」

興味本位だった。それまでも同じような会話をしたことがあったものの、彼女の抱える心的外傷を刺激してしまうような気がして話を逸らし続けていたのだった。だが周瑜は口を滑らせてその疑問を投げ掛けた。しまった、と思った時には既に遅く、乙女は話し始めた。

「父があなた様を弑そうとしたこと。私はまだ年端のいかない娘で、全てを失い時には泥を啜ってまでして生きてきた。金欲しさに罪のない人を殺したこともあった。一度そうすれば、止めることはできなかった。私は憎い父と同じことをして生きているのです。あなた様の大切なひとを殺そうともした。私の過去は全て悪夢として私を苛めるのです。これ以上の苦しみはない。私は罪から解放されたいのですよ、一刻も早く」

周瑜もよく覚えている。元々乙女の父親は周瑜たちに仕えていた。乙女はまだ幼かったが、周瑜のことを若様と呼び主従の間柄ではあるが親しい付き合いをしていた。だがそれは乙女の父によって引き裂かれた。あろうことか周瑜に刃を向け、その後自害した。掘っても掘っても彼が凶行に及んだ理由は分からなかった。だが信頼していた男だったから、周瑜も油断して傷を負ったのだが……ともかくそのような経緯があってその罪の咎は乙女にも及んだ。乙女は周瑜の家を出て、そこから行方知れずとなった。幼い彼女がどうやって生き延びたのか、その身には重すぎる苦悩の連続であることは想像に固くない。だから周瑜はこれ以上知ろうとは思わなかった。

「……全て過ぎたことだ。今の君は私と私の妻に仕えるただの侍女で、何の罪もない。君は何かを悔やむ必要などない」

「……ですが……」

乙女は時折、なぜ自分を殺さなかったのかと聞く。その度に周瑜は至って穏やかに彼女を宥めている。いつもならば周瑜の言葉に納得してこの場を去るのだが、この日は少し違った。それも無理はない。彼女がいつも言う悪夢の話を初めて周瑜に打ち明けたこともあるのだろう。普段よりも自らの罪深さを自覚して、それが小さな背に重くのしかかっているのかもしれない。

「それに君をこうして生かし重用しているのは、私自身の罪を雪ぎたいという想いもあるからだ。それが身勝手なものであるということは分かっているのだがな」

「あなた様には、罪など……」

「いや。君を一度は殺そうとした。その罪がある。顔を知っている人間だというのに躊躇いもせず、いや顔だけではない、そんなものではないのだ……君のことを君であると知っていながら、妻の命を奪おうとしたものとして一度は死を命じた。あの時小喬がいなければ……そう考えると肝が冷える。今の君は……いなくてはならない存在だ……生きていてほしいのだ。私のために」

身勝手な考えであることは周瑜も分かっている。実際、あの時周瑜は躊躇なく乙女を殺そうとした。蛙の子は蛙だ。そのような言葉がよぎりさえした。

小喬が止めたことで、初めて乙女を生かさなければいけないのだという思いが満ちた。

乙女が己の罪に泣いているのと同様に、周瑜も罪を抱え続けている。彼は乙女とは比べ物にならないくらいに人を殺めている。その辟の大きさは彼女の比ではない。自らが直接手を下したのではないとしても、その命を下し続けている。だから、乙女一人救ったところでもはや何の意味などもたらさないのかもしれない。けれども、彼女を生かすその行為に大きな価値があるはずなのだ。そう思ってしまうことそのものが彼女のためでなく自分のためであるということくらい周瑜は分かっているのだった。

「私にはまだ、死んでしまいたいという気持ちがあります。けれども、あなた様がそういうのであるのならば、私は辛酸を舐めても血反吐を吐いても生き延びましょう」

「私は君に辛酸を舐めさせるようなことも血反吐を吐かせるようなことも命じない。それは君も分かっているだろう……」

乙女は無言で背を向け周瑜の元から離れていった。周瑜は、「明日、乙女と一緒にお出かけするんだ」と小喬が嬉しそうに言っていたことをふと思い出して、歯を砕いてしまうのではないかというくらいにぐっと力を入れて奥歯を噛んだ。

(20240831)
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