白夜を行く
「君、見ない顔だね」
書庫で熱心に書簡を眺める乙女に、一人の男が話しかけた。書庫に長居する者はそう多くない。現にこの男、満寵もそのつもりのようだった。なぜかさっさと出ていくことをせず、書簡を抱えたまま乙女をじっと見ている。
乙女はやってしまった、と冷や汗をかきそうになった。鍵を閉め忘れていたのだ。しかし、そんな理由を男に言えるはずもなかった。ここは書庫だからだ。本来ならば誰もが利用できる場所である。鍵を閉め忘れていたとき、もしくは鍵を持っている誰かが急に入ってきた時に備えて、乙女はずっと書簡を呼んでいるふりをしている。
「……最近、ここに来るようになりました」
目を逸らしてそう答えるしかなかった。
「何を読んでいるんだい? ここで熱心に読みふけっている人は珍しいから、気になってね」
「軍略を学びたいんです。あなたは?」
学びたいのは本当だった。だが、書かれていることは全く頭に入らない。全てが上の空。満寵の言葉にも適当に返しているだけだった。
「私は、新しい兵器を開発しようと思ってね。色々と資料を漁っているところだよ」
「……そうですか」
それなのに会話を続けようとする自分が、乙女は嫌いだ。これ以上話題を広げるようなことはやめようと思い、そっけなく返答する。
「それじゃあ、私はこれで。最近はここをよく使っているから、また会えるかもしれない」
満寵は両手に書簡を抱えて、忙しなく去っていく。手が塞がっていたから、扉を開けるのにも一苦労しているようだった。それでも乙女は、彼の手助けをしようとはしなかった。
彼が姿を消したのを確認してから、乙女は扉に手を伸ばす。そうして、鍵をかけた。
これで元通りだ。乙女は、書簡を床に落とした。からからと音がする。次第に静寂に包まれる。
床を這うようにして、乙女は壁際に移動した。もうすぐなのだ。もうすぐ、また地獄を見ることになる。
そうしてどれほど経っただろうか。扉を叩く音がした。叩く回数は決められている。乙女は震える手で、その鍵を開ける。
「……」
そこには男が二人居る。
「分かってるだろうな。ほら」
金が入った袋が乱雑に投げ捨てられた。乙女には、拾うという選択肢しかなかった。卑しくて浅ましい。そして、乙女はこれ以上逆らうことができない。
「外、見張っとけよ」
もう一人の男に外を見張らせる。その男は床に座り込んだまま動けない乙女に手を伸ばした。
乙女は従うしかなかった。金の代償を支払うために。
乙女はまた書庫にいる。金が手に入るとはいえ、金だけでは補えない、人としての何かが欠陥していく気がしている。
何度経験しても、耐え難いものだ。しかし、生きていくためにはそうするしかない。乙女は書簡を手に取った。
そんな時、扉を開こうとする音がした。鍵が閉まっているのを確認したのか、突如鍵がガチャガチャと鳴り、扉が開かれた。そこには以前出会った男がいる。
「やあ、また会ったね」
「……」
「おや、今日も書簡を読んでいるのかい。勉強熱心で何よりだ」
「……そう、ですね」
なぜこの男は鍵を持っているのだろう。乙女は恐ろしくなった。
「鍵を掛けていたのは君だったとは。余程学びたいことがあるのかい? 私もここをよく使うようになったから、合鍵を使わせてもらっているんだ」
しかし、これは良い機会に巡り会えたのかもしれない。乙女がここを、その行為場所として使うことになっていたのは、あまり人が訪れない場所だからだ。
希望が見える。名も知らぬ男を頼ってもまた同じことが繰り返されるだけかもしれなかったが、乙女は賭けるしかなかった。
「あの。……名前も分からないあなたにこんなことを言うべきではないのかも、しれませんが」
「うん? 私の名は満伯寧。君の名は?」
「あ……乙女、ですけど」
「良い名だ、乙女殿か」
その名は乙女も知っていた。自分よりも比べものにならないくらい、色々なことを知っている。軍略を、兵法を知っている。この人ならば、と期待をしてしまう。
「それは、いいんです……その、もしまた、同じように鍵が掛かっていたとしても。臆せずに開けてほしいのです。誰が何をしていようとも」
中で何をしているかなんて、本当のことは言えない。しかし、それでも伝わってほしかった。
「分かった。私は今後もここを使うから。鍵を掛けるほど、深刻な事情があるのだろう。けれども、君がそういうのならば」
「……信じるのですか、私を」
「君とは一度、ゆっくり軍略について語ってみたいんだ。いつも熱心に読んでいるようだから。私が忙しいせいで、中々それは叶わないのだけれどね」
そう言ってまた、満寵はばたばたと足音を立て去っていった。
「あ」
その際に、彼は書簡を一つ落とした。それに気づかないまま去っていってしまった。
本当ならば、追いかけていきたい。しかし、乙女は自身に金を渡すあの男の命令には背けない身であった。
書簡を掴み、棚に押し込む。本来の場所は知らなかった。そうしていつものように鍵を掛けた。
「やっぱり、こんなこと終わらせないと」
軍略を学びたいのは本当だった。自由になって、もっと学びたいことが乙女にはあるのだ。
衣服に隠した短剣にそっと触れた。服さえ脱いでしまえば、その在処が知られることはない。
「……お願い」
誰にでもなく、乙女は自分自身に祈る。そしてふと思い出してしまうのは、まだ二回しか会ったことがない、あの男のことだった。
扉を叩く音がする。乙女は広げていた書簡を元の位置に直した。ゆっくりと立ち上がり、指先を鍵に伸ばす。開いた鍵。扉が音を立てる。男は以前と同じように、金を投げ捨てるようにして乙女に渡した。
同じように、乙女にその行為を強要する男と、扉の周囲を見張る男がいた。
「分かってんだろう」
男は指の動きだけで、全てを指示する。乙女は壁際に追い詰められるようにして移動した。自分から服を脱ぎ出し、上裸になる。そのまま乙女の四肢は顕になっていく。地獄を再び見ることになる。乙女は何も考えないようして、ただ耐えることしか今はできなかった。
「……」
何も言わない乙女に抵抗の意思はないと見たのか、男は肌に手を伸ばし、加減もなしに触れる。乙女は嫌悪と憎悪のの気持ちで全てが支配されたような気がした。殺せるものならば今すぐ殺したいと。
その時、扉の奥で何か物音が聞こえた。
男は煩わしそうに扉を見て、見張り役に何があったのかとうんざりしながら尋ねた。
「今は使えない? 困ったな、忘れ物を取るくらいいいだろう?」
扉ががたがたと揺れる音がした。乙女は微かに、あれは満寵の声なのだと認識することができた。どうやら二人は相当揉めているようだった。行為を見られるわけにはいかないからか、見張り役も大声を出して満寵を追い返そうとする。しかし、ただ書簡を取りに帰っただけの彼の声が、やけに乙女の耳に入った。
その間にも、男は乙女の体をまさぐろうとする。乙女は必死に歯を食いしばり、耐え続ける。声を出したほうが気づいてもらえるだろう。だが、声が出ない。抵抗すればこちらが殺されてしまう!乙女は従順にいることしかできなかった。
しかし、それでもだ。乙女は彼がこの部屋に入ってしまうことの恐れよりも、彼がこのまま諦めてしまうことのほうが怖かった。一度邪魔者を退けたならば、さらに彼らは見張りを強化してしまうだろう。満寵はまだ諦めていないのか、次第に彼の声が大きくなっていった。
「……興が冷めるな」
男が舌打ちする。乙女の体を舐めるように見た後、背を向けて扉の方へと歩く。
乙女は床に押し倒されたまま、肩で息をしながら黙ってそれを見つめていた。
あまりにも無防備だ。乙女は己の頭の中が瞬時に燃えたぎるのを感じた。服の中に隠している短剣を手に持つ。背中を刺すのだ。乙女は徐ろに立ち上がり、音を立てずに迫る。男が扉の取っ手に手を掛けたその時だ。
声を出してはいけない!乙女は目をかっと見開いて、腕を大きく振り、その勢いのまま男の背に刃を突き立てた。
「……お前、」
男は首を回し乙女を忌々しげに睨む。乙女は怯まずに、刀身をずぶずぶと沈めた。既に乙女の手は真っ赤になっている。血が手首を伝い落ちていく。男もまた、床に沈んでいくようにして倒れていく。どさりと音がした。外にいる見張り役と満寵にもきっと、その音は聞こえているだろう。
「はあ、はあ……」
動かなくなった男から短剣を引き抜く。乙女の手は尋常でないほど震えていた。急いで服を引っ張り出し、雑に体に掛ける。寒い訳ではないのに、震えば止まらない。
その時、外の方でも激しい物音が聞こえ、鍵を開ける音と扉を開く音が聞こえた。
「君……」
満寵が、床に倒れた男と乙女を見比べた。それを見た瞬間、彼は扉の鍵を閉める。見張り役の男が何が言っているようだったが、二人の耳には入らない。
そして、乙女は未だに短剣を離せないでいる。
「満寵様、こ、これは……」
体に掛けただけの布は、裸を隠すには不十分だ。しかし、満寵はこの光景を見て、何かを察しているらしい。寧ろ、これまでの経緯の辻褄が合ったとでも思ったのかもしれない。乙女の吐く息は荒かった。
「君には、何ひとつ心配することはない」
床に座り込む乙女と同じように満寵はしゃがみ込み、彼女の震える手を両方の手のひらで包み込む。
血の温かさとは違う。生きた人間の温もりが与えられる。
「どうして、ですか」
満寵は乙女を非難しなかった。それどころか、この状況を平然と受け入れているように、乙女には見えた。
「やったのは私だよ」
「……え?」
満寵は、乙女が握っている短剣を、ゆっくり、時間を掛けて奪い取る。乙女の手は行き場を失くした。
「無理やりここに入った私とこの男が揉み合った結果がこれだ。紛れもない事実だよ。君は、何も恥じることはしていない」
「どうして、私のことを庇うのです」
満寵はなぜそんなことを聞くのか分からない、といったような表情を見せる。
「ふと思ったんだ。君と二人で、陽の光の下を歩きたいとね。勇敢な君のことを、もっと知りたくなったよ」
(2026/08/23)