普通のふりした二人
大学からの帰り道。乙女は朝から己を憂いていた。先週の土曜日、付き合っている彼氏から別れを切り出されたのは記憶に新しい。その彼と講義が被っているのが今日だった。
ろくでもない振られ方をしたせいで、乙女はまともに昼飯を食べることも出来なかった。彼とは結局、話すどころか目すらも合わすことができないでいる。
乙女が見ているのは、手の内にあるスマートフォンばかりだ。だから、乙女はメッセージアプリの通知にもすぐに気がつくことができてしまった。今の彼女の周囲には、通知音をかき消す友人や彼はいない。講義が終わった後、乙女はさっさと大学の門を出てしまった。早く帰ろうと思ったのだ。足を止めずに、乙女は画面を見る。
『久しぶり。急に連絡してすまない。近いうちに、どこかで会えないか』
それは曹休からだった。
既読をすぐに付ける勇気はなかった。同じ大学に通っているにも関わらず、乙女と曹休は疎遠な関係が続いている。
大学が同じというだけでは、気軽に会うことができない。サークルも違う、学部も違うとなると、広い学内では偶然見かけることもない。
彼から連絡が来るのはいつぶりだろう。曹休に彼女が出来たと知ってから、乙女は自然に連絡を取ることをやめてしまった。乙女も大学に入学してから男と付き合うようになったし、同じ学部には休憩時間や休日に話す人が何人もいる。曹休と会う余裕はなかった。
同じ大学を目指して励んでいた高校時代は遠い過去の話だ。
曹休を無視することもできる。けれども乙女は、それが出来なかった。
もう別れたのだ。男と二人きりで会っても、何も言われないだろう。野暮な指摘をする人はもう居ないのだから。乙女はメッセージアプリを開く。返事がすぐに思い浮かばなくとも。
「『久しぶり。いいよ、私も会いたいと思ってたの』……これでいいのかな」
乙女は立ち止まって考えた。
曹休の意図が分からないから、喜びを示して良いものなのかも分からない。乙女自身、本当に会いたいのかどうかよく分からない。慰めてもらいたいとも思わない。幼なじみに弱いところを見せたくなかったからだ。それに、曹休にも付き合っている人がいる。彼女を改めて紹介されることだって、あるかもしれない。己のことばかり考えてはいられない立場なのだ。
「顔を見れるだけでいいと思わないと」
顔を見れるだけで良いのだ。二人きりでなくとも。そう言い訳して、メッセージを送信した。
『久しぶり。急にどうしたの? 私はいつでも大丈夫だから』
既読はすぐに付いた。
『ありがとう、感謝する。詳しい日時が決まれば、また連絡する』
『こっちこそ、ありがとう』
それきり、彼からの返信はなかった。意図が見えないまま、日々が過ぎていく。
それから、唐突に彼からの返事が来た。
『すまない。今日の夜、会えないか』
ご丁寧に、予約した居酒屋の予約完了画面が添えられている。
予定があるといったらどうするんだろうこの人は。そんなことを思いながらも乙女は了承の返事をした。思えば、学生の頃から彼はそうだった気がする。どこまでも真っ直ぐだ。彼のこのような行為を、何の疑問も抱くことなく受け入れてしまうのは、その人柄が成せることだと乙女は思う。
「今日かあ」
乙女は、ベッドの上にいる。スマートフォンを顔の横に置いてから、いい加減メイクをしないといけないと思い、体を起こした。
『いいよ。楽しみにしてる』
送信した文字に既読が付くのに時間はかからなかった。
予定というものは、なぜか楽しみにしていても億劫に感じる時がある。乙女もそう思うタイプの人間だ。
だがこの鬱屈とした感情は、面倒くささが呼び起こしているものではない。
不安である。乙女は予定よりも早く待ち合わせ場所に着き、曹休を待った。どんな顔をすれば良いのか、それを考えるだけで時が過ぎていく。
「乙女!」
遠くから名を呼ぶ声がする。乙女がその方向へ体を向けると、久々に見る彼が大きく手を振っていた。
「……文烈」
昔から変わらないと思うと同時に、どうしてこれまでろくに連絡を取ってこなかったのだろうと乙女は後悔した。それほど、彼の姿は高校時代から変わっていなかった。
「久しぶりだな、乙女」
「うん。どうして今日は、こんなに急に?」
あまりにも彼が普通なものだから、乙女も普通にならざるを得ない。
「ふと、お前に会いたいと思ったんだ。高校生の頃は放課後よく一緒に遊びに行っただろう? それと同じだ」
あの頃のように、お互い子供ではいられない。乙女だけではなく、曹休も分かっているはずだ。しかし、そんなことを考えてしまう乙女に反して、彼はただ純粋だった。
「そろそろ行かないか。もう予約した時間は迫っているし、中に入った方が話しやすいだろう?」
「うん、そうだね」
曹休に続いて乙女も中に入る。席に着いてからも、曹休は当たり障りのないことばかり話していた。学業の話やバイトのことなど、ありきたりで誰とだってできるようなことばかり話している。
「それで、乙女は? お前の話も聞きたい。せっかく会えたのだからな」
乙女は、自分が彼氏と別れた話を彼に打ち明けたかった。曹休があまりにも、今までの空白なんてなかったかのようにいるから、かえって言いづらくなってしまう。
普通じゃなきゃいけないのかと乙女は僅かな怒りを感じた。何事もなかったなんて。そんなふりをしない限り、彼と話す資格がないだなんて。乙女はそうは思わない。
「……文烈はさ」
「うん?」
唐揚げを頬張りながら、曹休は乙女の顔を見ている。
「何か隠してないの。付き合ってる人がいるんでしょ。私と会って、何も言われないの」
曹休の、箸を握っている手が止まる。
「もう、別れてしまった。ずっと前のことだ」
「私、そんなの知らなかった」
「言っていなかったからな」
「どうして」
「……お前だって、好いている人がいただろう」
「いたって、私は」
「全部知っている。言わなくとも」
誰から聞いたかなんて、そんなことはどうだっていい。乙女はここで初めて、彼がこの誘いを提案した理由を察した。乙女にはそうとしか思えなかった。安堵を求めたかった。そして、かつての隣人の愛おしさを思い知るのだ。
「……」
「だから、会いたくなった。……俺は、やはり嘘を吐くのは苦手だ。お前相手なら尚更だ」
曹休の顔が微かに赤い。彼が酒を飲む姿を見るのは、乙女にとって初めてだった。
いつの間にか、乙女も曹休も箸を置いていた。
「……俺たち、付き合ってみないか。俺、お前とだったら……」
何かを誤魔化すかのように、曹休は酒が入ったグラスをそっと握る。
その指先が震えていることに、乙女は気づいてしまった。この人の弱さを、放ってはおけないと思ってしまった。普通のふりなんてしなくてもいいと、言ってあげたくなった。
「すまない。……乙女はまだ、別れてしまって間もないというのに。あまりにも無神経だな、俺は」
「いいよ」
乙女は身を乗り出して、曹休のグラスに手を添えた。彼の肌に触れたのは初めてだった。
「私、きっと普通じゃないからさ。もう過去のことなんてどうでもいいんだ。文烈がいるのなら」
二人の心音を表すように、グラスに入った酒が静かに揺れている。
(2026/09/05)