「そう」なるまでの話
「何ですか、あなたたちは」
乙女は暗闇の中に、男の姿を見た。部屋に入り込む男はこの家にいない。父も兄も戦死したからだ。母は二人が亡くなってから、あまり家には帰らない。それでもそこそこの資産はあったから、乙女は今もあまり不自由せずに暮らすことができている。
金目当て、もしくは自分の体目当てだろうか。やけに冷静でいられたのは、人生に価値を見出すことができないからか。
乙女は起き上がり、男の動きを待った。何も言わずに近寄る彼らは不気味だ。闇は全ての色を黒く染めるが、僅かに乙女の目は何かを認識した。黄色い何かを身につけている。
黄巾党の略奪だろうか。乙女がそこまで考えていてもなお動かずにいたその時、目の前の男とは違う足音が聞こえた。
目の前の男は焦ったのか、部屋周辺を荒らし始める。棚の中や上に置いているものが散らかされ、金になりそうなものをもう一人の男に渡した。
「お前さんたち、こんな所で何やってんだ?」
初めて乙女は男の声を聞いた。三人目の彼は、略奪を企ててはいないらしい。
「お前だって、こんな毎日嫌にならないのか。俺たちだけが損するこんな世の中を!」
「だからと言って、寝込みを襲うのはないんじゃねえの?」
掴み合っている男の姿を見て、乙女は立ち上がった。この場所から離れるにはどうすればよいのか思い浮かばない。ここで殺されることだって、怖くはない。
だが、すぐにそんなことはできないと思い知らされることになる。誰が始めたかはどうだっていいが、男の一人が剣を抜いた。まともに人の顔さえ見ることができない状態だ。
乙女は立ち上がったまま、石のように固まったまま、ぴくりとも動かない。やがて男が倒れる音が聞こえた。残っているのは三人目の男だった。
二人の血溜まりが、乙女の寝床を汚している。
残った男は外に出たかと思うと、火種を持って再び部屋に入ってきた。やっと顔がまともに見える。
「ひっ」
ただ血を浴びていることしか、乙女には分からない。この男も黄巾党の一味なのだろうか。
「……その、すまねえな。こんなことになっちまって」
「……」
「こいつらは、この家の金銀財宝を奪った後、お前さんを犯して最後に殺そうと目論んでたんでな。俺はそうなる前にお前さんを逃がそうとしたが、結局こうなっちまった」
人を殺した直後とは思えないほど、男はあっけらかんとしている。
乙女の父兄もそうであった。そうであるから恨みを買って殺されたのだと乙女は信じている。本当はそんな事実はなく、単純に戦った結果の死だったとしても、乙女は二人の死に訳を作りたかった。そうでないならば、なぜこの終わりのない戦の世が存在しているのだろうと思うのだ。だから、この男にもそれと似た思いを抱いた。
「私を逃がすなんて、どうするおつもりだったのです」
「言い方は悪くなるが……いいな、話すぜ? 俺がお前さんを攫ったふりをすれば、こいつらはお前の命を取ることはできなかった。ほとぼりが冷めた頃にお前さんをここに返せばいいと思った……というわけだ」
死体と男を交互に見た。床も壁も汚れている。乱雑に放り投げられた家具や小物はそのままだ。男は武芸の心得がある。
母は、きっとまだ帰ることもない。そもそも、ここにいる義理もない。むしろ、またこうやって男どもの餌食にされるくらいならば、この男に少しの間だけでも庇護されたほうがよいと乙女は思ってしまった。
「それなら、攫われていたほうが良かったのかもしれない。私には何もないから。無力な女はこうやって奪われるしかないのね」
炎の奥で揺れる男の顔を、乙女は見ている。悪人ではないだろう。しかし、それでも彼女の言動は軽率だ。だがこう言い放ってしまうくらいに、この世を嫌っているのだ。
「あー……お前さん、とりあえず座ってくれないかい。向こう向いて、眠っていれば、きっと起きた頃には元通りだ」
「……はい」
男を困らせてしまっている。乙女は彼の言葉に従い、死体に背を向けて寝台の端に体を預けた。
物音が聞こえ続けている。死体を片付けている様子を、見なくても想像することは容易だった。早く逃れたいと思い、乙女は目を閉じ続けた。いつの間にか眠っていた。
朝が来てしまった。静かに乙女は寝台から降りる。床に飛び散った血の跡は完全には消えていない。乙女の母親は、結局その後も帰って来なかった。
戦乱はまだ続いている。乙女が買い物から終わって家に帰ると、そこには男がいた。
「あっ……」
あれから随分と時が経ってしまったが、床に飛んだ血の跡はそのままだった。
男は馬を連れている。前回会った時の彼の服を乙女はあまり覚えていなかったが、黄色を身に纏うことはしなくなったのだろうか、一切見当たらない。
何を言えば良いのか分からず、乙女は男の横を通り過ぎて家に入ろうとしてしまった。
「……おいおい、ちょっと待ってくれよ。久しぶりの再会……そうだろう?」
「はい……そうですけど、今更どうしてここに、」
男は飄々とした態度を見せていたが、やがてその表情も消え、気まずそうに頭を搔く。
「……あのな、お前さんの母君、って……」
「帰ってきていません。あの日からずっと」
扉を閉めようとした。かつてこの男に連れ去られたほうがマシだと思った乙女だったが、今となっては叶いもしないことで、男のことも記憶から薄れていた。
「そうか、……あのな、道端で亡くなっていたんだよ。最期にはお前さんの名前を呼んでたってな。俺は直接見たわけじゃあないが、お前さんのことを心配してたらしいぜ」
「……本当に、それは母ですか」
疑わしい。母親が家に帰らなかったのは、きっと他に男がいたからだ。一人で何をしていたのだろうと乙女は思った。
「言いにくいんだけどな、男に刺されたってのを見てた奴がいるんだ。その男はもう捕まってる。母親の名前もそこで知った。その女にはお前さんと同じ娘がいるってことも」
男が話したその女の名前は、乙女の母の名と一致していた。
「……そう、」
乙女は扉を半分開けたまま、男の元にも行けず、部屋の中にも入らないでいる。
この家があるのならば、一人でもやっていけると乙女は思っていた。だが、もう帰ってくる人は自分しかいない。僅かな可能性をと考えて守っていたこの家の存在価値を疑問に思った。
「だから、だ。俺はもう、お前さんを襲おうとした輩とは完全に縁を切ってる。信頼におけるお方に仕えることができたんだ。……お前さん、前に言ってただろう?攫われたほうがましだった、って」
「そんな昔のことを、覚えているのですね」
攫われていたほうが良かったと乙女は確かに思った。あの時は気がおかしくなっていたから、そういう言動をしてしまったのだとばかり乙女は思っている。男もそう捉えているのだとばかり考えていたが、違ったようだった。
「覚えてるに決まってるだろ? 俺はさ、仲間が非行に走るのを見たくはなかった。だが、俺一人では止められないことが多い。そんな中で、お前さんは生きているんだよ、それだけで俺は、あの頃の、そして今の自分の選択を誇りに思える」
「なら、私はこれから、」
「……ああ。迎えに来たってわけさ。お前さんが嫌じゃなきゃあな。きっと、今よりいい暮らしできるぜ」
「それがお前と周倉の出会いだったとは……」
趙雲はやけに興味津々だった。
「意外でしたか?」
「ああ。お前の危機管理のなさには不安も感じるが……」
趙雲は、周倉に対してやけに当たりが強い。その煽りを乙女も食らっている。とはいえ、もうそれなりの付き合いになるから、何も気にする事はない。
「だって、私あのままじゃあそこで孤独に死んでいくしかありませんでしたよ? 白馬……ではなかったけど、私を迎えに来た時の周倉様は、本当にどこかの皇子、みたいで」
彼は一転して、呆れたような表情をした。
「よくもまあ、夫婦になるまで漕ぎ着けたものだ」
この馬鹿夫婦、とでも言いたげだった。
「行き遅れてたんですよ、私。周倉様だから受け入れてくれたんです、きっと」
「……まあ、あの男もただの馬泥棒で終わるはずはないと、お前は最初から思っていたのだな」
「は? なんですかそれ。馬泥棒?」
「聞かなかったことにしてくれ」
「えー? 趙雲様は意地悪ですね。あっ周倉様!」
遠くで手を振る周倉の姿が見えた。乙女は一目散に駆け出した。
一人置き去りにされた趙雲が、二人の方を見る。
「……周倉が連れていた馬に乗って私たちの元に来たと言っていたが、馬がなくても平気で走れたのではないか?」
(20260922)