逃避行まであと少し
劉備から引き離され、孫呉の地へと帰国することになってからというものの、孫尚香はかつての快活さを失っている。
兄である孫権や、孫権に昔から仕えている人間に対しては、かつての彼女の気質はそのままであるかのように振舞ってはいた。だがそれは、あくまでも振舞っているというだけの話だ。
劉備との仲は良かった。むしろ、良すぎるほどだった。自分の子どもではないというのに、阿斗のことを本当の息子であるかのように可愛がっていた。そのような心優しき彼女であるからこそ、劉備も彼女のことを愛していたのだろう。
だがそれは、彼女の兄である孫権が引き離したのだ。二人の仲を、斬り裂いたのだ。
孫権と劉備の間にある確執は、彼女らの婚姻を破綻させるに相応しいものだった。所詮女というものは、この世界では政略に利用される道具に過ぎない。どんなに愛があろうとも、愛の力だけでは生きていくことなどできない。
乙女はそう思っていた。乙女は孫尚香の護衛として、彼女の婚儀から離縁まで、全てを見届けている。彼女の喜びも悲しみも、全てを知っているつもりだ。劉備に未だ恋焦がれている彼女の気持ちを、兄の前では着丈な女を演じている彼女の気持ちを、知っているのだ。乙女はそれを、烏滸がましいものだとは全く思っていない。彼女の心情を知るのも、仕事のひとつだと思っていた。
「姫様のお気持ちは、よく分かります」
それは痛いほどに。孫尚香は窓枠に手を付きながら、何か意味があるわけでもないのに外を見ている。その方角は、劉備が今いるであろう所から真逆であるものあった。
孫尚香は、何があっても涙を見せない人だ。それを分かっているから、乙女はそれ以上無理には声を掛けなかった。あらぬ方向を見ているのは、顔をみられたくないからなのだろう。
初め、乙女は孫尚香と劉備の婚姻には反対していた。だが、孫尚香は一見能天気にも思えるような笑顔でこう言った。「やってみなきゃ、分からないでしょ」と。
彼女なりに、考えて考え尽くした結果であるのだろう。乙女は彼女たってのその言葉を受け入れることを決めた。やってみないと分からない、その言葉通りだったなと乙女は思う。
劉備と過ごしている孫尚香は、本当に幸せそうだったからだ。
乙女から見た劉備という人物もまた、噂に違わぬ優れた人間だった。口先だけの男ではない。そんな予感があったから、孫尚香はこの人と結ばれて本当に良かったと感じたものだ。
上手くいっていたはずだった。なぜこうなってしまったのか、乙女は詳しいことを知る立場にはない。孫尚香を必要以上に傷つけることを防ぐためなのだろうが、乙女にも孫権の本当の意図は掴むことができなかった。確執というものは具体的にどんなものなのか、彼は、妹の幸せというものを考えたことはなかったのか。
言いたいことは沢山あるが、孫権の鋭い目に一瞥されたものなら、何も言えないような気がした。
だからこうして、孫尚香に寄り添うことしかできないのだ。寄り添うというものも、乙女が勝手に感じているだけなのかもしれない。孫尚香の幸せというものを守れなかった、自分自身の情けなさを隠すために。そのためにこのようなことをしているだけなのかもしれなかった。
「私、玄徳様に会いたい」
その声は毅然としていた。空気が張り詰めるような、そのような響きを持っていた。
「姫様」
諌めるような声色だった。咎めることすら、乙女はしたいとは思っていない。だがこうするしかできないと思った。この場ですら、誰が聞いているのか分からないのだから。
「乙女。私、玄徳様のことが、どうしても忘れられないの。兄様には忘れろと言われた。でも、私にはできない。どうしても、できないの」
小さい子供が駄々をこねるような、そんな言葉であるはずなのに、彼女はやはり泰然としている。それは声も態度も、全てが、だ。
「姫様……ならば、」
孫尚香が、振り向いた。乙女の声色が先程のように、彼女を諌めるようなものではなく、何か重大な決意を秘めているような、そんな思いが込められているようなものへと変化していたからだ。
彼女の瞳は、明らかに期待の色で揺らいでいた。
「行きましょうか。劉備殿の元へ」
乙女はきっぱりとそう言い放つと、孫尚香の目の前へつかつかと躍り出て、恭しく跪いた。
「玄徳様の元へ……そんなこと、」
孫尚香の瞳は揺らいでいる。そんなこと、できるはずがない。いや、玄徳様の元へ行きたい。相反する二つの思いの中で、瞳はまるで蝋燭の炎のように、揺れていた。
「やってみないと、分からないでしょう」
乙女は顔だけを上げて、孫尚香を見上げた。
その言葉を聞いた孫尚香は、少し困ったふうに眉をひそめる。そうして、かつて劉備に向けていたような笑顔を浮かべて、笑った。
久しぶりに、姫様のあのような笑顔を見た。乙女はそう思った。
「全くもう。どこでそんな言葉を覚えたのかしら? まあ、いいわ。……あなたの言うとおり。やってみないと、ね。さあ、立って」
孫尚香は乙女に向かって手を伸ばした。乙女がその手を取ると、孫尚香は乙女を立ち上がらせる。
乙女も、孫尚香と同じように笑っていた。
「私は、いつまでも姫様をお支えしますから」
絵空事だと、人々は笑うだろうか。
乙女はいつだって本気だった。孫尚香のためならば、この身はいつでも捧げられるのだ。
(20240622)