鈍感な男
「お前ってさ……」
甘寧は筆を執っていた部下に対して、珍しく静かに口を開いた。この部下、もとい乙女とは長い付き合いだった。
甘寧がまだ水賊だった頃からだから、共に行動するようになってから随分と久しい。身寄りのない彼女たっての希望で、甘寧は部下に引き入れたのだ。
彼も一介の男である。女は嫌いではない。ただ部下は荒くれ者だらけで、今でこそ安寧の地を得て落ち着きを見せている者もいるとはいえ、当時は賊らしく粗暴に振る舞う輩も多かった。
そんな集団の中に女を引き入れて良いのだろうか。甘寧は賊なりに残っていた自らの良心に問うたが、結局は彼女に押し負かされて今に至る。
乙女の寝込みを襲おうとする者がいれば甘寧は容赦なく叩きのめしたし、追放したりもした。何となく妹のような存在だったから、守りたいという気持ちが無意識に働いていたのかもしれない。
そんな調子であるから甘寧の部下は次第に乙女に対して近づきすらしなくなった。「頭領はあの女を好いてるんじゃないか」と、そんな噂もあったが、甘寧にはそんな気持ちは全くなかった。年が離れているせいだろうか。乙女が化粧もせず男のように振舞っているからだろうか。ともかく男と女というよりは兄妹のようで、乙女もそれなりに甘寧のことを慕っていた。
何となくそのような生活が続き、それは甘寧らが孫権の配下になってからもそのままだった。
だが甘寧は今このときになって、ふと気がついてしまったのである。
「何? 甘寧もサボってないで早くそれ終わらしたほうがいいんじゃないの」
乙女はぶっきらぼうに返答した。かつては多くの食客を束ねていて名を轟かせていた甘寧を呼び捨てし、砕けた口調で接するのは流石、甘寧に無理を言ってまで部下になった女らしいといえる。
甘寧とはというと、彼も乙女と同じように事務的な仕事が残っているのだが、やる気はどこかへと消えてしまった。彼女の横顔を見ていると、作業を進めようとする気力が全て吸い取られていったように甘寧には感じられた。
言い淀んでいる甘寧には目もくれずに筆を滑らせる。昔は邪魔だといって付けていなかった耳飾りが微かに揺れている。
「なんつーか……綺麗になった、よな」
何やら恥ずかしいことを言っているのだという自覚が甘寧にはあった。
あのまま茶を濁して誤魔化すこともできたはずだが、甘寧はそうすることなくありのままを告げる。
だって、本当のことなんだから仕方ねーだろ。甘寧は誰に聞かれることもない言い訳を心の中でした。耳飾りも似合っているし、最近では年頃の女性らしく化粧もしている。服にも気を遣っているようだ。
毎日見ていると、少しずつ変化する彼女の姿には気づかなかった。だがこうして見ると、現実の彼女は想像以上に大人びていて、一般的に「美人」だといわれるにも相応しい風貌をしているのだ。
自分で言っておきながら、酷く、頬が熱くなったような気がした。らしくねえぜ。甘寧はそう思ったが、そんな彼に対して乙女はいつものように平然としている。
ただ、それまですらすらと綴っていた筆の動きが止まっていた。
急に変なことを言ってしまったものだから、怒ってしまっただろうか。人に怒られるのは何とも思わない甘寧だが、これで怒られるのならば少し理不尽だろう。
だが彼女は怒ってなどいなかった。筆を机上に置いてゆっくりと顔を上げた彼女は、柔和な笑みを浮かべていた。
やっぱり、綺麗だな。甘寧はわざわざ声に出すまでもないと思ったが、本当はもう一度その言葉を彼女に直接聞かせたいような気もした。
とにかく、綺麗なのだ。彼の持つ拙い語彙では、それ以上の言葉を見つけることはできなかったが。もしかすると、学問というものはこのためにあるのかもしれない。甘寧は今更のことであるが、そう感じた。これまでも学問の大事さは身に染みて分かっていたはずであるが。
「甘寧も、格好いいよ」
甘寧とは違い、乙女は全く躊躇することなく、頬を染めることもなく、そう言った。
……俺って、格好いいのか。
甘寧は間抜けな声を出しそうになった。格好がいい。そう言われたこと自体は、特段初めてということもない。だが初めて言われたかのような驚きと、感動がそこにはあった。
なんだ、この感情は。甘寧は湧き上がってきた己の気持ちを表す手段を持たない。ただそこら辺にいる女ではなく、乙女にそう言われたのだというその一点が、甘寧を激しく揺さぶった。
なぜだか分からないが、甘寧は無性に大声を出したい衝動に駆られた。
「乙女! 久々に街にでも行こうぜ。俺が何でも買ってやるから!」
立ち上がって大きな声でそう言うものだから、乙女は少しだけ肩を震わした。だがそれでも、心の中では動揺しっぱなしの甘寧とは異なり、あくまでも平常の範囲内だ。
「私、もう子どもじゃないし。自分でなんでも買えるんだけど」
部屋を出ていこうとする甘寧を、そう言いながらも乙女は追いかけた。まだ執務は残っているからなのか、若干不服そうな顔をしている。
甘寧は乙女が着いてくる気配を感じながら、上機嫌に歩いた。
何でも買ってやるというのは、まだ甘寧が賊だった頃によく乙女に言っていた言葉だ。その当時は兄が妹に何かを買ってやるようなもので、その多くは菓子を買い与えていた。
今の乙女には何が相応しいのだろうか。
甘寧は気分よく歩いていたが、分からないことがある。単純に何を買えばいいのだろうかということだけではない。
可愛い妹分に向ける感情として、今渦巻くこれは正しいものなのだろうか?
育ちと生き様にしては、甘寧は純情だった。これが恋の始まりなのかもしれないということすら、彼にとっては最初から考えもつかないことだった。
(20240610)