穴ぐらで一休み
「孫堅様。お帰りなさいませ」
乙女は、今日も孫堅が無事に帰ってきたことを喜んで迎えた。忙しい夫に代わってこの家を守っているとはいえ、一番頼れるのはやはり彼なのである。だから結婚して長い時が経った今でも、彼女は真っ先に孫堅を迎えに行く。それが常だった。
「ああ。……心配をかけてしまったか?」
どことなくそわそわとしている様子の乙女に対し、孫堅は優しげに声をかける。自身も疲れきっているだろうに、そのような素振りは全く見せていない。
「あの……ずっと、心配していたのです。あなたは必ず無事に帰ってくると確信しているから、それは不安ではありませんでしたけど……」
乙女は孫堅の荷物を手に取り、歩き出す彼の後ろを着いていく。所々言い淀む彼女のことを不思議に思いながらも、孫堅はいつものように部屋に向かって歩んでいた。
「何か、言いづらいことでもあるのか?」
からかうような声色で孫堅は笑いながら尋ねる。それはおおらかでありながらも、どこか有無を言わさぬ迫力がある。それが孫堅という人であるから、乙女はどんなに一人で抱え込もうとしても、最終的には折れて孫堅に全てを委ねてしまうのだ。
「その……孫堅様の着ている外套に、糸がほつれているところがあるのです」
「何?……そうなのか、全く気が付かなかったな」
「ごめんなさい。今朝気づいたのですが、お手を煩わせたくないと思ってしまって。ずっと後悔していたのです」
「大袈裟だな。そのくらい、俺は気にしないぞ?」
「私が、気になってしまうのです。私、孫堅様のお召し物が大好きですから」
後ろから孫堅のことを見ている乙女には、それがよく分かる。今朝出かけて行った孫堅を見送った時に、たまたま見つけてしまったのだ。引き止めるべきか迷った挙句、彼女は何も言えずにいた。孫堅はあっけらかんとしているが、乙女にとっては一大事も当然なのだった。
「では、修繕を頼むべきか。夜も遅いから、明日誰かに依頼してみよう」
部屋に入った孫堅は、外套を脱いで腰を下ろした。外套の後ろ側をしげしげと見つめ、彼はああ、と納得した。確かに裾の部分から糸が出ていて、端の方の縫い目がぼろぼろになっている。長い間使っていたから、こうなるのも仕方がないだろう。替えが無い訳では無いし、いっその事新調してみるのもいいだろうと孫堅は思ったが、すぐに考えを撤回することになる。
「私に、縫わせていただけませんか。孫堅様がお帰りになったら早速やってみようと思って、準備していたのです」
孫堅が乙女のほうに目を遣ると、確かにそこには針や糸が用意されていた。
妻がそういうのであれば。孫堅はわざわざそれを否定する理由などないと思った。
だが一つだけ、孫堅には気がかりなことがある。
「だが、お前は針仕事が苦手だろう? お前のひたむきさを否定するということではないが、俺は心配だぞ」
乙女が孫堅のことを案じているように、孫堅にもその気持ちがある。
孫堅はまだ乙女が嫁いできたばかりの事を思い出した。
「それは、否定できませんけど……でも私、最近、実はこっそり練習していたんですよ。もっとお役に立ちたいのです。苦手なことも、克服しないといけないのだと思ったのです。あなたのために頑張ろうと……」
乙女も過去のことを思い出したのか、気恥しそうにして笑った。
乙女は孫堅に嫁いできたばかりのころ、それは今よりも増して働き、家事のほとんどを一人で担っていた。
はりきりすぎていたということもあるのだろうが、ある事件が起こったことがある。針を持って今日のように孫堅の衣服を縫っていたときのことである。彼女は針を指に刺してしまったのだが、刺してしまった箇所が悪かったのか中々血が止まらなかった。
刃物で斬られたというわけではないからそれで命が失われるということはないはずだ。だが小さく開いた穴からは血がとめどなく流れていたのを、孫堅はよく覚えている。止血しようにも当てた白い布はみるみるうちに染まっていき、何度も何度も布を取り替えたのだ。
結局のところ、時間がかかったとはいえ血は止まったのだが、孫堅は彼らしかぬほどに随分と焦っていた。当の乙女本人は、自分の怪我よりも孫堅の手を煩わせたことに対して焦っていたのだが。
そういった事があってからというものの、孫堅は針仕事だけは乙女にすることを禁じた。最も料理をするときに使う包丁の使用までは禁じなかったのだが。孫堅自身もそれは気持ちの問題で、針仕事を禁止するほどのものではないのではないかと思ったこともある。だが働き詰めであったことも怪我に繋がったのかもしれなかったから、彼女の仕事の負担が減らせるのならばこれでも良いと思っていた。
「……無理はしてくれるなよ」
乙女の真剣な眼差しに、孫堅は折れた。乙女が孫堅に隠し事をできないのと同様に、彼も彼女の言うことに対して、最終的には受け入れてしまうことが多かった。
孫堅が満を持して外套を手渡すと、乙女は幼い少女のような笑みを浮かべた。なんとも可愛らしくて、孫堅の頬も緩む。
「私、孫堅様と一緒になれて、本当に良かったです。初めはお父様たちに反対されたけれど、あなたはこんなに優しいんだもの」
乙女は早速針に糸を通しながらそう言った。
「……そんなこともあったな」
孫堅は苦笑いする。乙女の親族から、一方的に嫌われていたのだ。孫堅のほうから乙女に対して熱烈に迫っていたのだが、あんな男は信用できないと一蹴されたことを思い出した。
だが乙女は家族の反対を押し退けて、孫堅と結ばれたのだった。なぜだと孫堅が聞くと、彼女はただ一言、「それが運命だから」と言った。
運命という言葉は、好きではない。自らの手の届かぬところで力が働き、未来が決められているのだろうということを、孫堅は信じたくはない。
だがこうして乙女と過ごすことが、定められた運命のもとに成り立っているのであれば。運命というものも悪くは無い気がした。
「私、これからも頑張りたいのです。あなたを愛していますから」
孫堅がそんなことを考えているのを知ってか知らずか、乙女は針を動かしながら言う。
針を持っていなければ、思わず抱きしめていたところだったと孫堅は思った。乙女に対する愛は、今もなお燃えている。あの頃から変わらずに。
(20240620)