瞬いたあかつき
「私、太史慈殿のこと、好きだよ」
それはあまりにも唐突だった。太史慈は眺めていた書簡を机上に置き、声の主である乙女に目を向ける。
だが乙女は、太史慈のほうを見ているということもなく、先程までの太史慈と同じように書簡に目を落としている。
聞き間違いだろうか。いや、そんなはずはない。はっきりと聞こえたのだ。あまりにもいつもと同じ様子を見せている乙女のせいで、太史慈は混乱した。
乙女のことは、頼れる同僚としてしか見ていない。これまでも頼りにしているだとか、あなたのようになりたいだとかは言われた覚えがあるが、こうも直接言われるのは初めてだった。
何と言えば良いのだろうか。太史慈は悩んだが、彼は女性の気持ちなどさっぱり分からないし、色恋に現を抜かす暇など今まで有りやしないものだから、悩んだところで答えが浮かぶことはなかった。
彼女の言葉を丸ごと無視してしまう形になるのは太史慈も心苦しいものだったが、結局何も言えずじまいだった。再び彼は書簡を手に取る。そこに書かれているのは、次の戦に関する重要事項が事細かに記されているのだ。やはり、余計なことを考えている場合ではなかった。
「だからさ、今度の戦も、死なないでくださいね」
太史慈は再び顔を上げた。そんなことはないはずであるというのに、心を読まれているかのようだった。
乙女は変わらず、太史慈に視線を合わせようとはしていない。
「……当たり前だ」
死なないでくれと言われて、それを否定する者などいるだろうか。いや、いないに決まっている。乙女の言葉の真意は見えなかったが、それだけは素直に返すことが出来た。
乙女はそれきり何も言わなかったが、少しだけその表情はいつもよりも柔和なように見えた。
次の戦に、乙女は出陣しない。これは彼女なりの鼓舞なのだろうかと太史慈は思った。少し不器用なところがある彼女のことだから、そう考えるのが自然なような気がした。
「私、太史慈殿のこと、好きだよ」
この場に彼女はいないはずなのに、頭の中でそんな台詞が木霊する。
いや、ここはどこで、自分は何をしているのだろうか。闇が辺りを支配している。だが、微かに光が見えている。
太史慈が目を覚ますとそこは見知った天井だった。紛れもなく、自分の部屋だと太史慈は思った。
「太史慈殿」
乙女の声がした。そうか、自分は合肥で、死にかけていたのだ。太史慈は起き上がろうとしたが、乙女に制止される。
そこで久方ぶりに、乙女の顔を見た。泣き腫らしていたのか目は充血していて、僅かに腫れている。
太史慈はそこで再び、あの日彼女に言われた言葉を思い出して胸がどきりとした。
「俺は、乙女殿の言葉に生かされたのかもしれない」
ようやく自分の状況が分かってきた太史慈が、独り言のように呟く。体はそこかしこが痛むし、包帯が何重にも巻かれている。孫権を逃がすのに必死で、死にものぐるいに戦っていた。本当はあのまま意識を閉ざして、二度と目覚めなかったのかもしれない。闇の中で聞こえた彼女の声があったからこそ、この現世に還ることができたのではないか。そう太史慈は思った。
こんなことを言うなど、唐突かもしれない。それは彼女があの言葉を言った日を思い出させた。
あの言葉に対する答えだと思ってくれ。太史慈は、自分の言葉をそう捉えた。多くは望まないが、彼女にもそう感じてもらいたいものだと思った。
「……私、さ。上手く、言えないけど。やっぱり、太史慈殿のこと、大好きだよ」
きっと彼女は、自分の気持ちを上手く言葉にできないでいる。彼女がそういう性格だということを、太史慈もよく知っている。
自分も、そうであるからだ。言葉よりも、行動で全てを示してきた。忠義も、親愛もだ。
行動で返そうにも、今の自分はそれすらできない。ただこの場にふさわしい言葉が思い浮かばなくて、太史慈は迷いを見せた。
静かな空間の中で、二人が呼吸する微かな音が聞こえる。それ以外には、ここには何もなかった。
「……俺も、好きだ」
ほとんど無意識といって良かった。
そこには恥じらいすらもない。太史慈も、乙女もだ。
そこにあるのは、互いの不器用さがもたらす不思議な調和だけだった。
乙女は泣き腫らした目を擦って、少しだけ笑った。もし天女がいるのならば彼女のような姿をしているのだろうか、と太史慈は未だ鮮明ではない思考を巡らせて思った。
(20240618)