ばらの花
「公績兄」

「……」

竹簡に視線を落とす凌統の様子がなぜだかただならぬもののように思えて、乙女は恐る恐る彼の名前を呼ぶ。すぐ近くに座っているのだから、聞こえているはずだ。だが凌統は彼女の呼びかけには答えなかった。

いつもならば、どんな言葉を乙女が発したとしても何らかの反応が返ってくるはずだ。それは本当の兄のようでもあり、すっと乙女の耳に馴染んでいく。だが今は違った。沈黙がやけに重たく、息苦しいような気さえした。時折部屋に響くのは竹簡が擦れそれが動かされた際に出る音だけで、それ以外は何もなかった。そんなはずはないのに、凌統も、はたまた自分自身も、呼吸さえしていないのでは。ゆっくりと場を支配していく正体の分からない澱んだものを感じていると、乙女はそんな気分にさえなってくるのだ。

潮時かもしれない。微かな恐怖が襲った。ここから出ていけとでも言われるのだろうか。身元も分からない自分のような人間がこんなところで束の間の平穏を享受しているというのは、何よりも絆を重んじるこの国の風潮の中ではその輪を乱す異様な存在なのだと言われてしまっても、決しておかしいことではない。凌統がそう思わなくとも、誰かがそう思えばこの生活は簡単に終わる。乙女は凌統がこの世で経験した話を聞くたびにそう感じたものだ。親を殺されるのも不思議ではない。立身出世のために兄弟を殺すことさえも。女ひとりの命くらい、軽いものなのだろう。そんなことが平気でまかり通る世界の中で一人で生きろと言われたならば。何の力もない人間は黙って受け入れることしかできないに決まっているのだ。だが無事に生きることは夢のまた夢、それこそ乙女が遥か先の未来からこんな場所に飛ばされたのと同じくらい非現実的なことなのだ。そうに決まっている。

「……乙女」

乱暴に竹簡を置いて、凌統は静かに名を呼ぶ。だがその目は乙女を見ているようで、その実何も映していなかった。彼に対してそのように感じるのは初めてだったから、乙女は思わず俯いて目線を外した。そこから再び、張りつめた空気の中で、二人は何も言わない。今まで、沈黙はここまで苦ではなかった。それほど親しくなっていたはずなのに、今まで培ってきた、積み上げてきたものは初めからなかったかのようだ。

今まで彼に無理を言ってきたツケを回収しなければいけないのかとも乙女は思う。彼にはずっと負担をかけ続けてきたのだ。今更何を言われようとも、言い訳はできない。出会った経緯も随分と強引だった。周囲には「凌統が拾った女を囲っている」などともてはやされていたが、実際のところは逆で、囲うように強要されているというほうが正しいだろう。

彼が乙女を拾ったというよりは、たまたま彼女がわけも分からず突っ立っていた場所に凌統がいたという単純な理由により、乙女が強引に頼み込んで彼の邸に住まわせてもらっているのだった。つまり、拾わされたというのが正直なところである。「誰だか分かんないけど、連れていって、お願い」と乙女は自分が見ず知らずの男に迫ったわけであるのだが、後にも先にもこんなことはこの一回きりだけなのだろうと思う。いや、そうでないと困る。その場で殺されたとしてもおかしくないわけで、凌統には感謝してもしきれないし、その気持ちは片時も忘れはしない。

その凌統はというと、どこの馬の骨だか分からない彼女を連れて帰った後、家の者には身元が分からないから引き取った、それ以上は何も言うなとばかりで、若干の険悪さを醸し出しながらもなんとか乙女を住まわせることにこぎつけることができた。ただ彼が変な女を囲っているという噂はどこから漏れ出たものなのか、瞬く間に広がってしまった。そこで咄嗟に彼が発したのは「凌統にとって遠縁の両親を亡くした娘」という「設定」で、乙女が凌統のことを兄呼ばわりしているのはそこから来ている。そんなはずはないのだが、この邸の中でも兄のように接していると、本当に血が繋がっているのではないかと思えてしまうことも乙女にはあった。だからこうして夜寝る前まで彼の部屋にいても、彼女にとってはそれが当たり前のことであるという認識となっているのだ。

この偽りの兄妹ごっこそのものは、凌統からしてみても、そこまで困るものではないはずだ。むしろあの時乙女のような女のことを、口を滑らせて嫁などと言わなくて本当に良かった。もし嫁などと言ってしまえば、乙女だけでなく凌統の品位も疑われる。現代ではこんな女と結婚するなんて、と揶揄されるだけで済むかもしれないが、ここではそういうわけにもいかない。怪しい女がいるというだけでも十分命取りとなり得るだろう。凌統ほどの男に相応しい女があてがわれたとして、そこからの乙女が置かれる立場のことを考えると、やはりこの兄妹のふりというものは悪いものではない。

もし邪魔になったのならば、そこらの兵卒に無理やり嫁がせればいい、このような何の力もない女であっても、それをがらくたのように押し付けることくらい、彼の立場なら簡単にできるはずだ……と、そこまで乙女は思い立って、ふと気づいた。

凌統は自分を、何も野山にそのまま捨ててしまおうとしているのではなくて、嫁ぎ先を考えているのではないかと。どこに捨てるのも同じことだが、捨てる場所を選ぶ権利が凌統にあることには違いない。以前、たまたま凌統と誰かの会話を偶然盗み聞くような状況になった時に、確かにそのような話題が一瞬だけ上がったのだ。

今まで忘れていた。そんな大事なことを。なぜだろう、と思って、俯いたまま考える。けれども、分からなかった。自分を捨てようとしているわけでは、ないのかもしれない。何の確信もなかったが、乙女は改めて顔を上げた。

先ほどまでは自分を見ているようで見ていなかった凌統と視線がかち合う。

睨んでいるわけではない。けれども、乙女は獰猛な獣を前にして動けなくなってしまった哀れな小動物のように、ぴたりと動けなくなってしまった。

「乙女。あんた、あの話……聞いてたよな?」

心を読まれた気がした。今度こそ向き合おうとした意志は簡単に揺らぐ。

「目、逸らすな」

怒っているという簡単な言葉では、凌統の感情は説明できない。乙女は黙って……それから少しして、ゆっくりと頷いた。いつもならばすらすらと彼を小馬鹿にする言動さえも簡単に紡ぐ唇は上手く動かなかった。言いたいことはある。だが言いたいことと実際に言えることというものは、異なるものらしい。

「俺……あんたのこと妹だとか言って、あんたは俺のことを本当の兄でもないのに公績兄って呼んでさ……それでいいと思った。あんたは他に寄る辺もないし、このままでいいんだと……でもさ、違うんだよな。あんた、この話は知らないかもだけどさ……複数の男から縁談が来てる。……あんたは、どう思う」

彼の話した内容はそれとなく予想していたことではあった。乙女はどうにかして、浮かばないなりに言葉を手繰り寄せる。

なぜ自分のような女を貰おうとする人間がいるのか。乙女は全く分からない。どうせなら、このままでいたい。偽りでも妹として生活していればこの生活はずっと続くものだと思っていた。現実はこんなにも非情なものなんて、思いたくはなかった。

「……私、公績兄と一緒にいたいよ」

やっとの思いで言えたのは、たったのそれだけだった。この気持ちは偽りではない。

凌統は変わらず乙女を見つめていたが、その表情が緩むことはなかった。代わりに、凌統が勢いよく立ち上がる。そして手を机の上に、盛大な音を立てながら押し付けたものだから、乙女は反射的に肩を震わせた。一体、なんと言えば良かったのだろうか。

「その一緒にいたいってってのは……俺のことを都合のいい庇護者だと思ってるってわけかい? あんたが初めて俺に言ったことを、俺はよく覚えてる。あんたは誰でも良かったんだ。それは俺じゃなくて、自分が生き永らえるためならなんだってよかった。誰であってもあんたは媚びて男を兄だなんだと呼んで寄生するんだ、だからあんたは、都合よく家も飯も用意してくれるこっから離れたくないんだろ? なあ、」

早口で捲し立てられ、乙女は押し黙る。なぜそんなことを言われなければいけないのか。「なんか言えよ、なあ」凌統は彼女の胸ぐらを掴みながら無理やり立ち上がらせ、乙女がいきなり襲い来る苦しさから呻き声を出すのも構わずに、そのまま机上に体を押し倒す。背中が色々なものにぶつかってズキズキと傷んだ。机上に置かれていた筆やら書簡がバラバラと床に落ちるが、凌統は一切目もくれない。

初めは都合のいい庇護者だった。それは違いない。乙女は何よりもまずこの世界のことを理解し、生きなければいけなかったのだから。だが今は違う。凌統は敬愛する家族だ。他の男に媚びる? そんなことするはずがない。そう言ってやろう、いつものように叫んでやろう、それこそ初めて出会ったあの日のように。そう乙女は思って口を開いたのに、今度は凌統の手のひらが口元全体を覆う。強い力で抑えられ、驚きと恐怖、若干の怒りと困惑様々な感情が入り乱れながら、乙女は必死に抵抗の声を上げる。手のひらで隠されその声はなんの意味もない叫びの羅列にしかならなかった。

「俺はあんたが他の男んとこに嫁ぐなんて絶対認めない。あんたは俺といるんだ、でもな、それはあんたの媚びを認めてやってるわけじゃない、あんたが他の男に擦り寄ってただの阿婆擦れに成り下がる姿を想像するとな、あんただけじゃない、その相手の男も殺したくなっちまう。あんたをこうして支配できるのは俺だけだ、そうでなくちゃなんない、あんたを囲ってるのは俺で、それはこの先もそうでなくちゃなんないんだ、」

だが凌統は応じないどころかさらに身勝手な主張をしだすものだから、今更何を言っても無駄なのかもしれないと思った。きっと勝手な理屈で、それこそ彼の都合のいいように解釈されるだけだ。

しかし、呪詛のように吐かれるその言葉を聞いて、朧げにだったが……凌統の本当に言いたいことを理解できたような気がした。そこ婉曲的な物言いの中には、普段は口うるさく話すことも珍しくない乙女でさえ何も言うことができないほど凶悪的な語彙と思想が混じりあっていた。が、結局の所は単純なことなのだ。

凌統は単に乙女が嫁ぐのが嫌なだけで、その嫌だという一言で表せばよいものを屈折しひん曲がった悪辣な行動でしか示せなくなっている。わざと本音とかけ離れた言葉を使って真実を隠そうとしている。それはきっと、二人の出会いとこれまでを形作った関係性が凌統を歪みに歪ませてしまったのだろう。

もし凌統との出会いがあんな突飛なものではなくて、さらに妹のような存在なんかではなかったとしたら、彼はこんな強硬手段を取ることもなかったのかもしれない。こうして乙女を問い詰めておきながら口をわざわざ塞ぐのも、乙女の本音を受け止める自信がないからだ。力で従わせたいからというだけには不十分に感じる。

そう思えば、こんな暴力的な振る舞いや怨嗟の声もいつもの皮肉の延長のように思えて、乙女はこの「兄」のことを無条件に受け入れてしまいそうになるのだった。

乙女が凌統の手首を、力の籠らない手でそっと握ると、そこで初めて彼ははっとしたように目を見開いて、やっと口元の拘束を解いた。息を整えてから、一息に食ってかかった。

「私はどこかに嫁ぐ気なんてない。……公績兄の代わりに言ってあげる。私のこと、女として見てるんでしょ。だから取られたくないんでしょ、誰かに。……別にこの場で私をめちゃくちゃに犯そうとも構わない。私はこの邸の常識しか知らない女だから。……公績兄の好きにすれば。あなたに媚び売って腰振ってあげるからさ」

よくもこのようなことを言えたものだ。乙女は己の厚かましさに笑いそうになった。さっきまでは怯えているだけだったというのに、だ。一度何かを話せばすらすらと言葉が流れ出る。

血は繋がらない。本当の兄妹のように強固な絆があるわけでもない。だが、どこか似ているのかもしれなかった。

さらに怒らせてしまうかな。乙女は身構えたが、凌統は急に糸が切れたのか、ふらりと乙女の目の前から離れ、椅子に力なく座り込んだ。乙女は痛む背中に顔を顰めつつも、姿勢を正して直立し、俯く凌統を見下げる。奇しくも先程とは立場が逆転した。

「……俺、最低だ。そうだよ。俺はあんたのことを可愛い妹のようには、見れない……だから、誰にも渡したくなくて……でもな、あんたを無理やり手篭めにする度胸すら初めからないんだ、俺は……」

消え入りそうな声。だが乙女はやっと彼の本音を聞くことができたことに安堵する。別に、妹のように見る必要なんて初めからありはしないのだ。それは乙女も同じことで、別に凌統と結婚しろと言われたならば、それで良いと思っている。その他の有象無象と結婚するくらいならば、そちらのほうが良い。

「……公績兄」

「なんだい」

徐に顔を上げた凌統と目が合う。今度は互いに逸らさずに、見つめ合うことができた。ぎこちなくはあるが、どちらか一方が逃げるということを選ぶほどでもない。

「じゃあさ、デートしよう。どこでもいいから、連れて行ってよ。でもね、これは公績兄じゃなきゃ、駄目だから」

初めて会った時の会話を思い出させるような台詞だった。ほんの僅かだったが、凌統はただただ純粋に思い出を懐かしむようにして口角を上げた。

「……なんだい、そのデートってのは」

過ぎた出来事のことが引っかかっているのだろう。凌統は遠慮がちに尋ねた。乙女はそこには触れずにいる。

「うーん。……逢引っていうの?」

「何の解決にもならないだろう、それじゃ……」

「今はいいの。連れて行ってくれるよね」

「……当たり前。……可愛いあんたの為だったら、断るわけないっつうの」

やっと常の凌統が戻ってきたようだった。憑き物はどこかに消えてしまったらしい。

凌統の言う通り、これでは何の解決にもならない。乙女が嫁ぐのかそうでないのかさえ。だがまだ今すぐに決めるものではないだろうと乙女は思った。

何せ、兄から恋人へと己から見た彼の立場を昇格させるまでは、先程はああは言ったものの少しの覚悟が必要だったからだ。血は繋がらないのだから、覚悟すら本当は必要などない。だがこうでもしないと彼女の気は済まなかった。それは凌統の為でもあることだ。

先のことには誰にも分からないまま。だがこの儀式を終えたあかつきには、きっと二人を阻む壁は崩れているはずなのだと乙女は信じてやまない。

(20240828)
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