イルカの歌
「あたしを殺すつもり、ですか」
乙女は慣れない敬語を使った。振る舞いも口調も野蛮な女だと孫権は思った。だが、その才はここで散らすには惜しい。逆らおうとはしない女を、孫権は見下ろしている。
小さい頃から彼女は水賊の一員として育てられた。彼女の父親が賊を束ねていたらしい。そのような環境で成長したのだから、彼女が幼い頃から盗みに手を染めるのは当たり前だった。孫権も、詳しい話を知っているということではなかったが、どうやら乙女はまだ十にも満たない歳から人を殺めて金品を奪っていたという噂は聞いたことがある。
だが、組織内では忠実で自分が頭領の子であるということを誇ることもせず、極めて理性的に生きてきたのも彼女の一面だった。真実は孫権も知らないが、例え父親からの命令であっても無辜の民を殺すようなことはしなかったのだという。彼女らの賊は近辺の民を襲撃し、ものを盗むだけではなく時には殺してしまうことも多々あったが、彼女だけはただものを奪うだけに留まっていたらしい。盗みの腕は類まれないものだったが、命を奪うような真似はしなかったということだ。
水賊とはいえ、侮れる相手ではない。何せ人数だけは多い。正式に兵法を学んでいる人間たちではないから、統率ははっきりいって取れていない。だがその容赦のなさは指揮する人間が居ないからこそタガが外れている。これでは孫権達も被害を受けるわけでこうして彼自らが賊討伐に乗り出していた。
その途上で、孫権は彼女に出会った。その賊を率いているのは彼女だったのだ。話は人づてに聞いてはいたが、元々頭領だった彼女の父親が既に死んでいたらしく、代わって彼女が率いている。それは本当だった。だがその様子はどこかおかしいものだと孫権は直ぐに気づいた。
賊達は、表向きでは彼女の命令に従っているようで、その実情は本当に従っているとは言えないものだったのだ。
むしろ、彼女を死に至らしめようとしている。彼女を囮に使っている。孫権は思った。乙女という頭領の女は、名ばかりの傀儡だ。
賊とはいえ、一筋縄ではいかないものなのだと孫権は思った。彼女を捕まえたからといって賊達が大人しく降伏するとは考えられないが、名目上の頭領である彼女を捕縛しないわけにはいかない。賊たちが彼女を陥れようとしていたおかげで、彼女は簡単に孫権達の元に連れ出された。
そうして彼女は、大人しく孫権を見下ろしている。ただ孫権の言葉を待っているのだ。
「いや。お前は殺さない。私と共に来るといい」
「なぜです」
「お前が考える必要はない。……すぐに分かるだろう」
乙女は何かを言いたそうに口を動かしたが、何も言うことはなかった。孫権は彼女を縛っている縄を解くことを兵に命令する。そんなことをして大丈夫なのかと暗に彼を非難する目つきが孫権を捉えたが、主も何も言わないせいか兵は大人しく従った。
縛めから解放された乙女は、孫権の思っていたように従順に歩いていた。まだ賊を全滅させるには至らないが、彼女という収穫が得られたのは大きい。彼女の傷の手当てをするためにも、孫権は兵に一時後退を命じた。
「なぜ、お前は仲間に裏切られていたのだ」
孫権がそういうと、乙女はばつが悪そうに顔を歪めた。言いたくなければ、無理に言う必要はないが。孫権はそう付け加えたが、やがて乙女は話し出す。
「あたし、頭領のほんとの娘じゃないんです。それだけでもあいつらは私のことを気に入らないんだと思います。それで、あたし悪くない人のことは殺さないから。そういうのがあって、あいつらはあたしを殺そうと考えたんですけど。なかなか殺せないでいたところに、あなたたちが来たものだから、今度こそ殺してやろうって感じだったんだと思います」
実際にこうして話さなければ、分からないことばかりだ。孫権は彼女の話を聞いてそう思った。もっとも、対話で全てが解決するならば戦いなど存在しないのだが。
「……そういうことだったのか。お前はこれから、私の元で戦うのだ。初陣がかつての仲間だというのは、複雑かもしれぬが」
「いえ。別に、あいつらに未練なんてありません。あなたに命を救われたようなものですから、戦いますよ」
そう言った乙女は強がっているようにも見えない。きっと本心から言っているのだろう。
とにかく、彼女を仲間に出来たのは孫権にとって大きなことだった。一人でも戦力がほしいのだ。彼女の物分りの良さから考えると、きっと学問も飲み込みが早いのだろう。今までその機会がなかっただけだ。人は何歳からでも学ぶことができるし、更正することができる。孫権はそのような人間を何人も見てきたのだ。
「なんで孫権様があたしを殺さなかったのか。わかった気がします」
賊討伐は孫権が思っていた以上に難航した。だがこの辺りの地理に明るい乙女のおかげで、犠牲は最小限に抑えることができた。きっと彼女が居なければ、もっと手こずっていたに違いない。
かつての仲間を斬った乙女も、少しだが孫権達の軍に馴染んできたようだった。あっけらかんとしているように見える彼女だが、与えられた任務には逆らわないし、武勇には優れている。孫権は彼女が、名実ともに孫呉の兵の一員となったのだと安心する。
「あたしみたいに賊だった人とか、あんまり学問に力を入れてこなかった人も、ここにはたくさんいるんですね」
孫権は乙女の言葉に頷いた。今では彼が一番信頼しているといっても過言ではない男、周泰も元々は水賊だった。知勇兼備の呂蒙も昔は学のない粗暴な男だった。
孫権は、それを見越して乙女を引き入れたのだということは明らかだ。彼女と初めて会ったあの日、孫権が「すぐに分かる」と言ったのは間違いではなかった。
「そうだ。人は何歳からでも変わることができる。大切なのは過去ではなく現在、そして未来だ。お前の働き、期待しているぞ」
「……はい」
乙女は頷いた。孫権は彼女の言葉を聞く前に前を向いて歩き出していた。彼女が頷くまでの間に僅かな間を作ったことも、その表情に陰りがあったことも、孫権は知らないままだった。
「さあ、帰ろう」
孫権は振り返ることもなくそう言った。今度はすぐさま、戦場で彼の声に間髪入れずに答えていたように、「はい」と返事をした。その時孫権が彼女の声色の変化に気づいたのかどうかは、定かではない。
「見張りの人間はいなかったのか!?」
怒る孫権に対して、兵士は平謝りするのみだった。元々怒りっぽいきらいのある彼だが、この日はさらに苛立っている。ただならぬ様子の彼に対して何を言うのが最適なのか、分からなくなっている人間も多いことだろう。
「それが、物音がしたと思ったらもう姿は消えており……ということが何度も……」
「なぜ何度も取り逃がすのだ!……全く。我が軍の死活問題ではないか!」
「本当に申し訳ございません。……その、兵糧庫のみではなく――」
「もういい、下がれ」
孫権は怒りを抑えることができないまま、報告に来た兵を退ける。兵は忙しく立ち去って行った。
「なんという事だ……まさか、な……」
賊討伐からさらに時が過ぎた頃の話である。乙女はまだ新参者であったが、あれからも孫権に従い戦ってきた。やはり腕は立つし、孫権がこれでも読んで勉強しろといえば素直に書を受け取った。
だがある時を境に、とある事件が続いている。
今回の報告を聞くのも数回目だった。だからこそ、孫権は怒りを隠そうともせずに苛立っているのだ。
兵糧庫から兵糧が少しづつ持ち去られている。倉庫から金目になりそうなものがごっそりと消えている。上げれば枚挙がないが、とにかく孫権や兵士たちにとって不可欠な資源が盗まれているのだ。
今まで、そのようなことは有り得なかった。まず重要な資源には四六時中見張りがいるはずだ。その見張りの隙を突いて盗みをはたらいているのだから、相当な手練であるということが分かる。
ではその手練とはどのような人間なのか。盗みに長けているのだから、常日頃からそのような行為をしているに違いない。
そして、この窃盗という行為が問題となったのは、乙女が加わってからのことである。
考えたくはないが、乙女の仕業なのではないか。その疑惑が孫権を悩ませた。
実際、彼以外にもそう思っている人間はいるらしく、孫権が乙女を気に入っていることを知りながらも彼の前でその噂をする人間もいるほどだ。
今は賊の一員というわけでもない乙女が、どうしてそんなことをするというのか。孫権は認めたくない気持ちからかそう自分に思い込ませようとしたが、思い込ませたからといって被害がなくなるわけでもない。
この問題が顕著になってから、孫権は何度も悩んだ。相変わらず乙女に会う機会はあるが、後ろめたいような雰囲気は感じられなかった。
だがこれ以上動揺を広げるわかにはいかない。そして、乙女が犯人であるとは決まっていない。むしろ、早く彼女に話を聞いて無実を証明するほうが良いのではないか。そうすれば彼女が不要な謗りを受けることもなくなるだろう。
そう思って孫権は乙女を二人きりの場に呼び出したのだが、後に彼はそれが正しいことであったのだと思いながらも後悔することとなる。
「……あたしが、全てやりました」
孫権が今軍内で起こっている問題について知っていることはないのかと彼女に尋ねると、はじめ彼女は何事も知らないというふうにして平静を装っていた。
だが、孫権が聞き方を変えてもう一度尋ねると、
彼女はあの時なぜ仲間に裏切られたのかを白状した時のような、ばつの悪い笑みを浮かべてそう言った。「お前は盗んでなどいないな」と乙女に焦点を絞った尋ね方をするだけで、彼女は簡単に打ち明けた。孫権は心のどこかで犯人ではないかと思っていながらも、同時にやはり彼女が犯人ではないかと思っていたから、あまり驚きはしなかった。ただ聞き方を変えるだけで自白する彼女を見て、心配になるほど単純だと思った。
「なぜだ。なぜあのようなことを……」
孫権は、怒る気にすらなれなかった。呆れているのではない。どこかやるせない気分だった。
「孫権様のためにも、自分を変えようと思って……周泰様や甘寧様のように、完全に足を洗おうという気持ちは、あったんです。でも、どうしても自分が止められなかった」
彼女はぽつり、ぽつりと話し出した。
乙女が心を入れ替えようとしていたのは、間違いではなかった。
だが彼女は、自分に湧き上がる衝動を、どうしても抑えることが出来なかったのだ。
本能なのかもしれない。そう彼女は言った。過去は変えられなくとも、未来は変えられる。それはきっと正しい。現に、乙女は未来を変えようと奮闘していたからだ。
だが、抗うことが出来なかった。盗みを働くという行為は、彼女の頭から離れてくれなかったのだ。
だからだろうか、盗んだ品を自分の私利私欲を満たすために使ったことは、一度もなかった。民に全て分け与えた。矛盾しているような行動だが、それを止める術はなかった。
どれだけ孫権のために尽くそうとしても、自分の頭の中からその悪癖は消えてはくれなかったのだ。そう彼女は言った。
彼女なりに苦しんでいることは明白だった。だがこのまま許すこともできるはずがない。
孫権はどう返せばいいのか戸惑う。彼がそのような姿を見せるのは稀であった。
だからなのだろうか。
「ご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ございません。どんな処罰でも、お受けします」
彼女にしては畏まった言葉遣いで、そう深々と頭を下げた。
「……その頭を上げろ。お前に対する罰は、後ほど伝える。もう、帰ってもよい」
どんな罰を与えるべきなのか。罰を与えたところで、彼女が盗みを辞めるいう保証もない。
孫権は彼女が去るのを見てから、大きな溜息を吐いた。
それから数日が経った。孫権は未だに、彼女にどのような罰をあたえるのかを考えられてはいない。犯人が彼女であると公表する気もなかった。
だから、本来ならば彼女をわざわざ呼び出すこともない。だが意味もなく、彼女の顔を見たくなった。
しかし、乙女の姿はどこにもなかった。
彼女に与えられた一室を、孫権は直々に訪れるも、そこは既にもぬけの殻だった。初めからそこには誰も居なかったかのように、閑寂が辺りに広がっている。
ただそこには、孫権が乙女に与えた書物だけが遺されていた。置き手紙すらもなく、その書物だけが彼女がここに居た証のようだった。
乙女が行方をくらましたこと、孫権が酷く落ち込んでいること、そして彼女が消えてから窃盗による被害はなくなったこと。兵たちの間では、孫権に同情する声や、乙女を悪く言う声がしきりに囁かれたが、孫権はそれのどれにも何も言う気にはなれなかった。
「孫権殿。……こちらの書簡を、ご報告までに。……孫権殿?」
「……ああ、すまない。少し、考え事をしていた」
陸遜から渡された書簡を受け取る孫権の顔は暗い。
「乙女殿のこと、ですね」
孫権は頷く。陸遜は困ったふうに笑ったが、すぐにその表情を切り替えて、孫権に語るようにして話し出した。
「こんな話を聞いたことがあります。野生動物に育てられた子どもがいました。その子どもは動物に育てられてきたものですから、人の営みというものを知りません。それを興味深く思った人は、その子どもを人間の元で育ててみることにしました。人の理というものを初めて学びながら、その子どもは成長していきました。ですが、人間の世界という閉鎖的な空間に嫌気が差した子どもは、再び自然の、動物たちの世界の元に帰っていきました。その子どもを人間として適合させることは、誰にもできなかったのです」
「私は、乙女を飼い慣らせなかったとでもいうのか」
「……いいえ。彼女は、ただあるべき場所に還っただけでしょう。それが、彼女の理だったというだけで。……野生に還っただけの子どもとは違って、彼女が再び村を襲うようなことがあれば、それを討伐するのは私たち……そうならないことを、願うのみです」
「……ああ。そう、だな……」
孫権は、初めて乙女とあったあの場所を見据えるようにして、遠くへ視線をやった。
あのまま盗みを働いていたのだとしても、彼女が健やかに生きていればそれでいい。そう思っている自分は、君主としては失格であるのだろう。だが、今だけは許してほしい。孫権は天を仰いだ。
(20240615)