終末のサイレン
「どうして、どうしてそんな酷いことを言うのですか……」

大喬を悲しませるだろうとは分かっていた。彼女はしゃくり上げるようにして涙を流している。

だがその感情の矛先は、涙という形を通して彼女自身に向けられている。決して乙女に対して、怒りという形では表されていない。

なんと良くできた人なのだろうとぼんやり思う。それを仕掛けたのは自分自身であるのに、どこか壁を隔てた場所で行われているかのような、そんな感覚が乙女にあった。

「……いつかは、分かってしまったであろうことです。そのいつか、が今だったというだけなのです」

「でも、そんなことって……」

「……ですから。大喬様は、何もお気になさる必要はありません」

……ただ、私をこれで貫いてくださるだけで、十分なのです。

乙女のその言葉がきっかけとなり、大喬はさらに大粒の涙を落とした。その涙は、乙女が握らせた短剣の上にもぼたぼたと落ちていく。短剣は入念に磨かれていた。大喬の泣き腫らした、しかしそれでもなお美しいその顔も、そこには映し出されている。

「……うぅっ……」

大喬の涙を、これ以上は見たくはない。だからこそ、乙女は早く終わらせてほしいと思った。自分勝手な願いだと自嘲する。

乙女は埋伏の毒だった。家族を、大切な母を人質に取られているから、裏切ることなどできなかった。

大喬を殺せと命じた乙女の主君。そこにどのような意図があるのかは乙女は知らなかったし、きっとどうやっても知ることはできなかっただろう。

だから乙女は、ただがむしゃらに大喬に媚び、副官という地位を得た。全ては彼女を殺すためだ。そこには情などないはずであった。だが、知ってしまったのだ。

情というものを。それは、母に向ける家族としてのもののようでもあり、それ以上のようでもあった。

今となっては、全てがどうでも良かった。ただ乙女は、この思いを彼女に告げることは不可能であると悟っていた。

母親のために、非情にならねばならない。副官という地位を利用して、大喬を追い詰めるはずだった。

だが、そんな乙女にもたらされたのは母の死という信じ難い報だった。

約束を違えたというのか。乙女は憤ったが、母は暗殺されていたわけでもなく、急病によって呆気なく逝ったのだという。

大喬に暇をもらって母の元に乙女は駆けつけたが、それは本当のようだった。その折、久方ぶりに会った主君に対して、乙女は微かに期待を寄せていた。この忌むべき仕事から解放されるのではないかと。

母が死んだことは悲しむべきことではあるが、解放されたいと乙女が願うのも当たり前のことだ。それは、なんといっても彼女が大喬に魅入られているからだ。

だが主君は、乙女を未だに縛り続けていた。大喬を殺せと。主君の言葉は変わらなかった。

だから、もう無理だ。そう乙女は思った。彼女全てを打ち明けて、それから死のうと。生きる価値などないと思った。

大喬の元に帰った乙女は、酷く塞ぎ込んでいた。周りからすると、母の死が原因でそうなっているということは違和感がない。裏に隠れた理由は何であれ、それは全ての人間が納得できることだろう。大喬もそれを知っているから、無理な詮索はしなかった。

だが乙女は、真実を告げるための勇気を出すことができなかった。そうしてから僅か数日後、乙女の元に届いた書簡にはこう書かれていた。

「自害など、ゆめゆめ考えなされぬように」と。

人質に取られていたのは母だけだと乙女は認識している。だがこう書かれてしまうと、それもどうか。血縁関係にある人間を全て残らず探し出され、殺されてしまうのだろうか。

だがもう乙女は、自らが死ぬということしか考えられなかった。何度考えても、大喬を殺すなどできないのだ。なぜならば、彼女のことを愛しているから。単純な理由だった。

ならば。大喬に殺してもらえばいい。頭の悪い間者が全てを見抜かれて返り討ちに遭ったのだと。そう思ってもらえれば良いと思った。

それで主君が本当に筋書きを信じるとは思えなかったが、それ以上の方法は思い浮かばなかったのだ。

「私……あなたのこと、信じて、いました……」

大喬は言葉を詰まらせながら、潔く目を閉じた乙女に向かって言った。

信じてくれていたのだと。その言葉だけで、十分だった。短い間だったが、忠臣でいられたのだから。

「私……あなたのこと、大好き、だから……」

大喬の手は震えていた。乙女には、酷いことをさせてしまっているという自覚があった。

だがこうするしかないのだ。薄汚い裏切り者には、これがお似合いであるのだから。

「大喬様。私は生きていてはいけない人間なのです。私を生かしておくと、貴方まで疑われることになってしまいます」

乙女が埋伏の毒であると打ち明けたのは、大喬と二人きりの場である。だがどんな人間が忍び寄り聞き耳を立てているのかは分かったものではない。

大喬も敵の懐柔を受けているのではないかと疑われるのは御免だった。

乙女の描いた話はこうだ。大喬は、乙女が埋伏の毒であるのだと正体を突き止める。情報を敵に流し、あわよくば彼女の命を奪おうとした許し難い裏切り者を、その手で誅した。

それだけで、全てが終わるのだ。

この想いも、同時に。

「わ、私……ううっ……あなたが大好きなのに……」

大喬のいう好きとは一体どんな気持ちなのだろうか。可能ならば、自分も「大好き」だと伝えたい。だがその資格すらないのだ、今まで彼女を騙していた自分には。乙女は目の奥から熱いものが押し寄せてくるのを感じながら、刃が振り下ろされる瞬間を待つ。

だが、いつまで経ってもその瞬間は訪れない。

乙女は徐に目を開けて、大喬とは対象的な笑みを浮かべた。

「大喬様。あなたはいつまでも笑っていてください」

そう言うや否や、乙女は笑顔を消し、大喬の手首を掴む。そうしてそのままの勢いで大喬の持つ短剣を自らの胸に突き立てた。

大喬のけたたましい悲鳴が、部屋中に響いた。

好きな人の悲しむ顔は見たくなかった。だが、これでいいのだ。何も間違ってなどいないのだ。乙女は今度こそ目を閉じた。

(20240624)
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