水底に沈んでいくように
※孫権×練師前提 夢主から練師への当たりが強いので練師推しの方は若干注意
醜い嫉妬だということは、乙女が一番知っている。孫権が練師と結婚してから、さらにその嫉妬が強くなった。
乙女が嫉妬を向けている対象は、もちろん練師である。逆恨みではある。自分のほうが先に孫権のことを好いていたという、自分勝手なものであるのだ。
乙女はあくまでも孫権の護衛武将というだけであって、それ以上の関係を築くことはなかった。いや、その先に進むことが出来なかった。それは彼女が臆病であるという単純な理由ではなく、護衛武将という立場を弁えていたからだ。少なくとも乙女はそう考えていた。決して孫権とは愛という欲をもったものでは結ばれないのだと思っていた。
だが、練師は違った。乙女の知らぬ間に孫権に近づき、瞬く間に彼を虜にした。実際のところを知るわけではないが、乙女は練師のことを卑しい女だと思っていた。なぜ孫権様はあんな女と。そう思ったこともあった。
私は、孫権様への思いをずっと封じていたのに。乙女は胸が引き裂かれるように、何度も何度も苦しんだ。なぜ私ではないのか。なぜ私は、一介の護衛武将でしかないのか。乙女は毎晩のように、枕を濡らした。
「この戦も、勝ちましょうね」
練師は、乙女にも親しげに応じる。孫権からの信を得ているだけでなく、兵からも、民からも慕われているというのがよく分かると乙女は思う。
曖昧に頷く乙女に対しても、練師は微笑を絶やさない。
嫌ではないのだろうか。もし私があなたと同じ立場なら、私のような人間なんて、どさくさに紛れて殺してやろうと思う。だって、大好きな人の傍にいる女は、私一人で十分だもの。愛想が悪くて、嫉妬深い、嫌な女。あなたは私のことをそう思っているでしょう。私の気持ちを知っているでしょう。それなのに、なぜ私にも優しくするの。意味が分からない。
乙女は心の中でそう毒を吐いた。
立場が逆だったらというものの、乙女は今すぐに練師を葬れるものならば葬ってやりたいと今も尚思っている。
この戦の中、遠くから弓で射抜いてやれば、この女を消すことができるだろう。戦況はこちらが完全に優位であるという状況ではないし、敵兵の仕業に見せかけるのは容易だ。だが孫権の護衛という立場上、迂闊なことはできない。早く絶好の好機が訪れないものかと乙女は胸を踊らせた。
「乙女。今回の戦も、無事に勝つことができそうだな」
「はい、孫権様。喜ばしく思います」
孫権に話しかけられるということは、乙女にとってはいつだって夢のような心地を味わうことができる。だがその夢は、孫権自身の手ですぐに壊される。それも常だった。
「すまないが、練師の様子を見に行ってもらえないだろうか。私の周囲は万全であるが、彼女のほうは……まだ、分からないからな。万が一ということもある。願いを聞いてくれるだろうか」
なぜ、練師の名を私の前で。
そう嘆いていても詮無きことだ。分かっているのだが、それだけに心臓が鷲掴みにされているような衝撃を受ける。孫権と話すということは、こういうことなのだ。
私のことは昔から今まで、ずっとただの護衛としか見られていない。孫権様の御心はあの女の元にしかない。
乙女はそのような本音をひた隠しにして、健気に頷いて見せた。孫権は満足そうに笑う。これでいいのだ。これが孫権の為なのだと乙女は陣を出た。
もし自分がこの後練師を殺したとしたら、孫権は何を言うだろうか。何を思うだろうか。練師の救援に向かえと命じるということは、そういった「万が一」があってもおかしくはないことだ。
「練師様!」
練師の元に向かった乙女に対して、練師は優雅に微笑んでみせた。練師は無事に砦を制圧したようで、その表情には余裕差がある。
自分が行く必要などなかったのではないか。乙女は思わないでもなかった。それにこの様子なら、自分が練師を殺そうものならばすぐに暴かれることだろう。乙女は益々、自身が遣わされた理由が分からないものだと思った。
だが、練師に忍び寄る影のことを、この砦にいる孫権に与する人間は誰も気がついていなかった。
練師を殺そうと、そう思うまでに憎んでいるのは、乙女だけではない。
孫権に打撃を与えるために、その妻を狙う。敵はそれが有効な手段であることを知っているのだ。
「油断したな、孫権の犬め!」
砦に潜んでいた敵軍の男が、練師を目掛け一直線に迫ってくる。兵はその鬼気迫る姿に恐れたのか、一歩も動けなかった。練師でさえも、まさか刺客がいるとは思ってもいなかったのだろう。縫い付けられたように足は地面に留まっている。
動くことができたのは、乙女だけだった。
ほとんど無意識といっても良い。自然とその足は、駆け出していた。練師を守るために。
「乙女!」
練師が叫んだのと、乙女が胸を刺されたのはほぼ同時だった。
乙女が倒れたことで我に返ったのか、兵士たちはひしめき合って刺客を捕らえる。刺客は何かを喚いていたが、乙女には聞こえなかった。聞こえるだけの意識は、既になかったからだ。
「練師様を、守れて、よかっ、た……」
乾いた口を必死に動かして、乙女は練師に話した。練師は何かを言っている。
きっと、なぜ私を助けたのだ、と。そう言っているのだろうと乙女は思った。
なぜ助けたのだろう。ずっと憎いと思っていたあなたを。
乙女にも、その理由は分からなかった。
暖かい血が、どろどろと流れて水溜まりを作っている。もう長くは持たないということは、誰が見ても明らかだった。
練師様。私、あなたの事が嫌いだったけど。孫権様の命令でここに来たのだから、これが私の天命というものなのでしょう。けれど、悔いはありません。今までの非礼は、これでお許しください。……私の命をもって。練師様、孫権様。どうかお幸せに。大好きでした。
(20240623)