行き過ぎたのだ
「お義母様は、もう出て行かれましたよ。貴方様の元には帰らないと仰られていました」
乙女が住む屋敷を、従者の一人も引き連れずに訪れた曹操に対して、彼女は冷ややかな目線を向けながらそう言い放った。
「……謝って済む問題ではないことは承知している。だが、わしは……」
「全て承知ならば、なぜお義母様は目を腫らしながら荷物をまとめ、出ていったのでしょうか」
乙女も泣き腫らしていたのだろうか、目の端が赤い。それでも矜恃は崩さなかった。
戦死した曹昂、乙女の夫だった人物も、最期までそうであったからだ。
痛いところを突かれたとでもいうように、曹操は黙ってしまう。全て自分の責任であるということは、よく分かっているからこそだ。
「典韋殿の死を悼みたいのも、理解出来ます。ですが、なぜあなたは自分の息子を……子脩殿の死を、悲しまないのです。お義母様は、子脩殿のことを大層可愛がっておられた。実の息子ではないというのに、その愛は海よりも深いものだった」
曹操は、息子の死よりも典韋の死を悲しんだ。丁夫人……曹昂の義理の母は、それに怒り出ていった。きっと、もう二度と曹操の元には戻らないだろう。最後の逢瀬を経て、そんな予感を乙女は感じていた。
「……本当に、申し訳ないとは思っている。ただ、身内が死んだ悲しみに囚われ、家臣の命を軽く見ているのだと認識されたならば、将としての信頼は地に落ちるだろう。わしは片時も子脩の雄姿を忘れぬ。その心を表に出すか出さないかの違いしかそこには存在しない。このような判断も、時には必要だった。……ただそれだけのことだ」
乙女とて、曹操という人間が、どれほどの責務を背負い生きているのかということくらい、知っている。
曹操は、自らの内側に数え切れないほどの悲しみを抱えているのだ。その悲しみを自らの中だけに閉じ込めるという残酷な決断を、課しているのだ。
それならばせめて、身内の前だけでも素直になれば良いものを。乙女は目を伏せる曹操を見てそう思った。
「お義父様は、遠い所に来てしまった」
曹操ははっとしたように顔を上げ、乙女を見つめた。
曹昂の妻となった頃とは、乙女を、そして曹操を取り巻く情勢は大きく変わってしまった。曹操に仕える人間は、彼が勢力を広げることを是としている。だが本当にそれは、曹操にとって良い事だったのだろうか。身内の死すら隠し、利用せねばならぬほど、覇道には価値があるのだろうか。
乙女は、男の戦いなど分からない。だから、ただ愛した夫の死を引き起こした曹操のことを、初めは憎く思った。だが、今悲嘆にくれる曹操と接せば、憎いなどという単純な感情を抱くことは、曹操の持つ重荷に比べれば割に合わないものなのではないかと乙女は感じ始めていた。
ただ彼は、遠い所に来てしまっただけ。長く歩けば歩くほど、元の地に戻ることは困難になる。だが、戻ることは決して不可能ではない。
「……すまぬ」
曹操が始まりの地に戻ることが出来たなら、その悲しみは少しでも癒されるだろうか。
彼はきっと、乙女の思いに反して、道無き道を突き進むだろう。それでも彼女は、彼が救われることを願わないではいられないのだった。
(20240403)