月の下、闇をかき分けて
今宵は、月がよく見えている。昨晩雨が降りしきったものだから、地面は未だにぬかるんでいる。だがその反動のように雲ひとつない夜空の下、月明かりは優しく立ち尽くす乙女を照らしていた。そこには何もない。だが風は暖かく彼女の髪を揺らしている。

「乙女。そんな所に長居すると、風邪を引いてしまうぞ」

その様子を見た魯粛が、乙女に声を掛けた。

冬ではないのだから、大袈裟であるようなような気がする。冷たい風が吹くわけでも、心をも冷やすような雨が降っているわけでもないからだ。乙女はそう思いはしたが、彼の思いやりを無下にはしたくないから、思うだけで口にはしなかった。

「……何か、考え事でもしているのか?」

魯粛は黙ったままの乙女を見かねてそう言った。彼の足音は、まだ乾ききっていない地面から発される僅かな水音と混じっている。所々に広がっている水溜まりも、月の光を反射している。彼はそうして乙女の隣に立った。

「月は、見えない日があろうとも……見えないというだけでそこに存在しているのですね」

乙女は隣に立った魯粛を見ることもせずに、ただ月を見上げている。

乙女が何を言おうとしているのか。魯粛は、確信を持つには至らないが、ある程度の目星を付けることはできていた。

乙女は、何か後暗いことを隠し持っている。それが目に見えるものではなくとも、心の中にはずっと存在しているのだ。彼女はそう言いたいのだろうと魯粛は思った。思えばずっと彼女は何か触れられたくないことがあるようだった。それを知っていながら魯粛は彼女を泳がせているような真似をしている。それは、愛ゆえなのだろうか。

そのようなことをわざわざ口に出す意図は何だ。魯粛は月を見上げる彼女の横顔を見つめた。

一方の乙女とはというと、魯粛の妻となった日から、いや、その前からずっと、彼に隠していることがある。それは真実で、一人でずっと抱え込んできたことだ。直接言うことが出来なくて、それだから今まで自らの中に押しとどめてきた。

頭の良い魯粛が、気づいていないなど有り得ないだろう。乙女はそう思っている。

だからこうして、彼を試すような真似をしているのだ。今まではそんな素振り、微塵も見せることがなかった。

なぜだろうか。分からないが、この爛々としている月が、そうさせているような気がした。月の光を見ていると、言いたいことも、言いたくないことも、言わなくてもいいことも、全て声に出してしまいそうだと乙女は思った。

「……お前が何を企んでいるのか。いや、そもそも企んでなどいないのか……そんなことはもはや、どうでもいい」

魯粛が乙女の腰に手を回して、自らの体へと彼女を引き寄せる。その優しく声は甘く、骨の髄まで痺れていくように乙女は感じた。

「魯粛様……」

ずるい人だ。あなたは。乙女は魯粛の手を握る。自分よりも大きくて、暖かい手だ。

立場上、魯粛は大勢の人を動かす立場にある。自分の手は汚れているのだと自虐する彼の言葉を乙女は聞いたことがあった。

汚れているか、綺麗なままでいるのかの違いであれば、乙女も魯粛とはさして変わらない。だが、乙女の思う魯粛の手というのは、自分よりかは綺麗なものであると考えていた。人を裏切るなど考えたこともないその手が、羨ましかったのだ。

「お前の本当の望みは、何だ?」

魯粛は、乙女の望みならば出来る限り叶えてきた。それが些細なものであってもだ。本音を言わない彼女に、本当のことを語ってほしいという思いがそこにはある。今こそ彼女の本音というものを、聞かなければいけないように魯粛は思った。今なら答えてくれるだろうか。魯粛のどこかに、期待の気持ちがあった。

「……あなたの首が、欲しかった」

乙女はそこでやっと、魯粛の顔を見上げた。月の光に照らされて、彼の顔が良く見えた。

魯粛は驚くこともなく、ただ悠然と微笑んでいる。この調子では、仮に本気で首を奪おうともきっと適わなかっただろう。

全て敵わない。適わなかったからこそ、乙女は魯粛を愛してしまったのだ。

「欲しかった、というと?」

どこまでも魯粛は、余裕そうな態度を崩すことがない。彼は彼女の言葉に驚きはした。それは間違いではない。だが、今の彼女はそうは思っていないのだ。きっと。

彼女が埋伏の毒であるのだということを、魯粛はそれとなく勘づいていた。ただ確証はなかった。夫婦ともなれば寝首を掻くことも容易い。それを狙っていたのだろうと。だが乙女は魯粛を愛してしまった。愛の力というものは恐ろしい。魯粛は、乙女が自分を愛し、殺すなどという気持ちが起きないように仕向けることを望んでいた。だが魯粛自身も彼女に魅入られていたのは、彼にとっては嬉しい誤算だった。それは紛れもなく、ただただ愛し合うありふれた夫婦の姿だった。

「それは、昔の話です。今の望みは、魯粛様に仇なす者たちの首を手に入れること……ただそれだけです」

よく言ってくれた、と魯粛は言い彼女の頭を撫でた。彼女の熱を孕んだ瞳は、やけに扇情的だった。

「可愛い奴だ、お前は。そして月の光のように、俺を狂わせる」

乙女は、打ち明けて良かったと心から思った。同時に、自分にはもう彼しか居ないのだと強く思った。毒は自分ではなく、魯粛から与えられていたのかもしれない。だがそれは死ぬよりも甘いものなのだ。

(20240621)
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