願掛け
見張りのためにつけられた炎が燃えている。雲は月を完全に覆っており、炎がなければ味方である人間の顔を判別するのも不可能なほど、そこは闇に包まれていた。

乙女はこの新たに得ることができた陣地の見張りをする当番であるから、周りの人間が良く見えるように炎の近くに立っている。普段の彼女ならば見張りよりも奇襲のほうが好きであるし、こうして陣地でじっとしているのは性に合わない。だがこの日は少し違った。

無性に、誰とも会いたくない気分に襲われていたのだ。

「お前……誰かと思ったら、乙女か」

そんな彼女に声を掛けたのは、同じく見張りとしてここにいるのであろう、朱然だった。彼は乙女の後ろ姿を見て、見慣れない人間であるかのように思ったのだろう。正面に向かい合って初めて、声を掛けた主が乙女であるということに気が付いたようだった。

「朱然殿。お見苦しい姿をさらしてしまうとは、本当に情けない限りです」

乙女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。それは、これだから誰にも会いたくなかったのだ、と暗に訴えているようだった。特に朱然は今回のこの戦のように、たびたび同じ戦場で戦う大切な仲間だった。彼にこうした姿を見られるのは、少し辛いものがあったのだ。

彼女が誰にも会いたくないと思ったのには、とある理由がある。乙女は、この陣地を獲得するまでの戦いの中である失態を犯してしまっていた。

それは、いたずらに兵を死に追いやっただとか、もしくは自身が大怪我を負っただとか、そのように戦いを大きく揺るがすような重大な事柄ではない。ただ彼女自身が自分を許せないというだけである。だが、彼女の中では兵を死なせてしまうことと同じくらい大切なことだった。

戦いの中で、乙女は長い髪を斬られてしまっていたのだ。縛っていたとはいえ、それでも腰のほどまでの長さがあった。長い髪を振り乱していながらも、敵にその髪を触れられずにいること。それは彼女の武勇の表れでもあった。長い髪というものは、敵に掴まれてしまえばひとたまりもない。常に揺れているものであるから、斬撃の餌食となりやすい。だが彼女はそれを許さなかった。そうするだけの腕があった。

今までずっとそうしていたのだから、乙女は自分の髪には誇りを持っている。だというのに、乙女は髪を切られてしまった。完全に油断が原因だった。非は自分にある。乙女はほう思っている。だからこそ、情けなかった。それは自尊心を砕かれだということと、ほぼ同義であった。

「髪は、確かにびっくりしたけどさ……それは悪かった。敵が潜んでるのかと思ったんだ。見慣れない後ろ姿だったからな。……けどな、別に見苦しくなんか思わないけどな」

朱然は優しい人だと、乙女は思う。何度も共に戦っている彼が言っているのだから、この言葉は本当なのだろう。だがそうであったとしても、彼女の複雑な気持ちは簡単に収まるわけではなかった。

「整えている時間もありませんから、毛先はまばらだし……何よりも私、自分の髪が好きだったんです。自分の強さが目に見えているようだったから。それに、朱然殿だって、私のことを髪の長さで判断していたという部分は、少なからずあるでしょう」

伏し目がちでありながら、乙女は朱然のことを睨むようにして見つめている。本当に睨んでいるつもりはないのだろうが、炎で不自然に照らされた彼女の表情と、先程の朱然の言葉。それらが相まって、乙女はもしかしたら怒りを滲ませているのではないかと朱然は思ってしまう。確かに彼女の言葉は間違いではなかった。長い髪のおかげで、遠くからでも乙女のことを認識できていたのだという節は少なからずあるからだ。

「う……た、確かに俺はお前の髪が長いから、それで……ああ、お前がそこにいて、戦っているんだということを理解していたけどさ……その……」

その? 乙女は聞き返す。やっぱり髪で区別していたんだ。若干乙女はそんな朱然のことを多少残念に思ったが、自分自身も髪が自分を形作る上で一番の大切な要素となっていることを自覚しているから、そこに対しては何も言わなかった。ただ軽く聞き返したのみで、じっと彼の言葉の続きを待つ。

「短くてもさ……いいと思う。俺は。やっぱり、お前はずっと長い髪を誇りにしていたから、すぐには受け入れられないだろうし、嫌かもしれないけど……お前の心の炎は、外見に現れているものだけが全てじゃない……そうだろう? 外見にとらわれなくても、その炎があれば、いいんじゃないかって。……俺はそう思う」

紡がれたのは、朱然らしい言葉だった。乙女と朱然のすぐ近くで、炎が揺れている。闇にも屈しないそれは、乙女の心の中にも燃えたぎっているのだ。それは、髪なんかよりも大事で、これからも守っていかなければいけないものだ。

「……朱然殿。確かに、あなたの言う通り……ですね。私はこの髪に、囚われすぎていたのかもしれません。髪が短くなっても、私は私、ですよね。落ち込む必要なんて、ありませんよね」

「そうだ、お前は落ち込む必要なんてない。それに、斬られたのは髪だけじゃないか。傷一つ付いていないんだから、お前はやっぱり、強くて立派だ。……だが……ああ、そうだな……」

「朱然殿?」

朱然の言葉にしみじみと聞き入っていた乙女だったが、唐突に言葉を詰まらせた彼を見て、彼女は不審に思う。

乙女が何も言えずにいると、朱然は常に身につけている耳飾りを外した。日頃から大切にしているものなのに、なぜ。乙女がそう感じるや否や、朱然は彼女の髪に手を伸ばした。

「これ、俺のだけどさ……この戦いが終わるまでは、付けていてくれないか。お前と違って、俺は弓で後方から敵を撃ち抜いてやらないといけないから……今回だけでいい。沢山いる兵の中から、すぐにお前を見つけて援護したいんだ。頼む」

朱然の耳飾りが、彼の手を辿って乙女に付けられる。きっと、髪が短くなってしまったから、いち早く見つけるための目印としたいのだろう。今までは長い髪を見て乙女だと認識していたから。

だが不思議と、そんな扱いをされても嫌な気持ちはしなかった。

「ありがとう、朱然殿。戦いの後、これを返すためにも……生きて帰りますね。私だけでなく、あなたもですよ」

「ああ。共に頑張ろう。俺たちで敵を燃やし尽くしてやるんだ」

朱然の短い髪に、耳飾りはよく映える。今の自分も、そうであるのだろうか。似合っているのだろうか。乙女はここがまだ戦場であるにも関わらず、そうとは思えないほど心が軽くなるのを感じた。

髪が短くなってしまったのも、こうして朱然と約束ができたのだから悪くないものなのかもしれない。耳飾りに指を触れながら、乙女はそう思った。

(20240625)
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