鯨飲
乙女がこの世界にやって来てからというものの、何故か彼女は元からこの世界に居たのではないのかというくらいに人々の中に馴染んでいた。

流石に戦いの中に参加するほど肝が据わってるということでもないのだが、戦いの勝利を祝う宴には平然と紛れ込んでいる。加えて、そうではない宴にも、呼ばれていないのに参加している有様だった。

成り行きで彼女の面倒を見ている張飛が何も言わないので、張飛の臣下達も乙女の行いに対して何も言うことはなかった。見て見ぬふりをしているだけかもしれないが、とにかく乙女は自由に行動することが出来ていた。

しかし、宴に参加しているといっても酒を飲んでいる様子は見受けられない。それを不思議に思う人間は多い。

ある時、とある将が彼女に尋ねた。「酒は呑まないのか」と。彼女は「時が来たらね」としか言わなかったものだから、将はわけも分からぬままだった。

そして、今日この日、彼女の言う「時」というものが来たのであった。

「俺の酒が呑めねえっていうのか!?」

完全に酔っ払っている張飛は、臣下を恫喝してまで酒を呑ませている。この時代の人に言ったとしても伝わらないが、これこそ「アルハラ」というやつなのだ。と乙女は思う。

「乙女殿。……父上のあんな姿をあなたに見せるのは、正直恥ずかしい」

「今日は特に酷いね」

「……あのままでは、本当に恥。どうにかしないと」

星彩は良くできた娘だなあ。乙女は自分とそう変わらない年齢であろう星彩に対してそんな感想を抱いた。それにしても、今日の張飛は荒ぶっている。

張飛が酒を呑んで羽目を外しているのを乙女が見るのはこれが初めてではなかったが、いつもにも増して今日は悪酔いしているようだった。星彩すら呆れ返っているのだ。しかし、乙女はこの日を待っていた。

張飛という人間が、酒のせいで問題行動を起こしていたのだということを、乙女はそれとなく知っている。それはこの世界に来てからではなく、未来で既に知っていたことだ。未来でも酒というものが人を狂わせるのだということを、彼女はよく知っている。

彼にはそれなりに恩がある。酒などという、彼女からしてみればしようもない理由で死なれるのはかなり寝覚めが悪い。

酒で張飛に適う人間は居ない。呑み比べだといって勝負を仕掛け、あっさり勝ってしまうものだから、余計に彼は調子に乗っている。

なればこそ、乙女が取るべき手段はただ一つなのだ。

「張飛殿! 私と呑み比べをして頂きたい!」

「ああ? 俺様と呑み比べだと? いくら乙女でも、手加減なんぞしてやれんぞ?」

その場に居る全員が、大声を出した乙女に顔を向ける。顔を赤らめている張飛もそれは同様だった。

「……乙女殿、本気で言っているの?」

星彩も戸惑いの表情を浮かべる。そう思っているのは星彩だけではないようで、ざわざわと人々は騒ぎ出した。

何しろ、乙女が酒を呑んでいる姿を、誰も見た事がないのである。それに、張飛に呑み比べで勝てる人間が居るとは思えない。例え張飛が既に酒を浴びるように呑んでいても、だ。

「私は本気です! 私が張飛殿に勝てたのならば、暫く酒はお控えください!」

「よし、その勝負乗ってやらあ!」

乙女が退くことも、張飛が挑発に乗らずにいるということもなく、戦いの火蓋が切られようとしている。

星彩は呆れ返って、ため息をつくしかなかった。

「張飛殿は酒をもう呑んでおられますから……この盃に酒を注いだものを、まずは私が一杯呑んでから、勝負としましょう」

「俺様を舐めてんのか? そんくらい、俺様も呑んでやらあ」

「いえ、ここは私だけが呑みます! そうでないも勝負にはなりません!」

あまりにも大きい盃は、張飛くらいしか使わないために余っている。それを乙女はハンデとして呑もうというのだ。

盃に対して乙女は、なみなみと酒を注いでいく。その頃には周りにいる将達の中にはどちらが勝つかの賭けをしている者もいて、場はこれ以上ないほど盛り上がっていた。頭を抱えているのは星彩くらいなものである。

「では、いきます!」

乙女はそう宣言して、息を継ぐ間もなく酒を飲み干していく。喉をごくごくと鳴らして、呑み込んでいく。その様子を、人々は固唾を飲んで見守っていた。

「では、ここからは……張飛殿、どちらが先に果てるのか……勝負です!」

「おうさ、やってやるぜ!」

そう言った乙女の顔は素面と何の変わりもない。まさか、本当に乙女が勝ってしまうのではないかと、さらに激しく人々は囃し立てる。

大きな盃に、再び酒を注ぐ。乙女と張飛はほぼ同時に呑み始め、瞬く間に盃を空にした。

そうしてまた初めのように酒を注ぎ、呑んでいく。二人は底なしだった。

「いけいけ、乙女殿!」

「張飛殿も、頑張ってください!」

次第に大きくなる歓声。星彩はいたたまれないような気分になった。この二人を回収するのは恐らく自分の役目であるからである。

「はあ、はあ……俺はまだ呑めるぜ……」

何度それを繰り返したのだろうか。

そう言う張飛の顔は真っ赤どころか、本当にその状態で立っているのがやっとという状態である。対して乙女は、顔を赤くしているものの張飛よりは酔っていない。

これ以上この勝負を続けていても、きっと終わりは来ない。星彩はそう判断したのか、未だに酒を注ごうとする二人の元に向かう。

「二人とも、いい加減にやめたほうがいい。……父上も、大人気ない」

「でもよお星彩、だってこいつが……」

「言い訳はしないで欲しい。乙女も。その辺で勘弁して」

「……まあ、星彩殿が言うなら、この辺にしましょうか。……張飛殿。少しは懲りましたか? 私、お酒強いんです」

乙女と張飛は星彩の言葉に威圧され、納得いかないといった様子ではあるが酒を呑むのを止めた。二人は立ち上がるが、張飛の足取りは不安定だ。元から呑んでいるかそうでないかの違いが多少はあれども、ひとまずこの勝負は乙女の勝ちと言えるだろう。将たちは乙女の勝利を喜んだ。

「乙女。……お前がこんなに酒を呑めるとはな……油断したぜ」

「能ある鷹は爪を隠すって言いますしねー」

乙女は、酒が飲める年齢になった時から日々の疲れを取るためだと言い訳をして良く酒を呑んでいた。度数が7%やら9%やらのものを毎日のように呑んでいたのだ。

昔の酒というものは、随分と度数が低いらしい。彼女はそれを知っていながら、この時のためにずっと黙っていた。

ひょっとしたら、張飛に酒呑み勝負で勝てるのではないか。彼女のその目論見は見事的中したのである。

喜ぶ乙女と、風貌に似合わず落ち込む張飛。

これに懲りて酒を控えてくれれば良いのだが。もしや乙女に勝つためだと言って酒を呑む量をさらに増やすのではないか。

星彩は、そんな予感が外れるであろうことを、心から祈るのだった。

(20240603)
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