足枷すらも愛してあげる
※劉備が腹黒い&歪んでいる

薄暗い牢の中にひとり。モヤがかかったように、昨晩の記憶が思い出せない。乙女は立ち上がろうとしたが、両の足には思い鎖が繋げられていることに気づく。牢の中からは出られないなどということは、この堅牢な檻を見ても明らかだ。ここに閉じ込めた人間は余程自分を逃したくはないらしい。乙女は諦めて冷たい床に座り直す。

いつかこうなるとは思っていた。乙女はいわゆる埋伏の毒という存在で、いずれ劉備を裏切るつもりだった。

昨晩の記憶がないというのは、きっと劉備に促されるままに飲んだ茶に毒が盛られていたのだろう。

劉備本人に正体が知れてしまったのは、不覚というほかあるまい。自分はこれからどうなるのだろうか。危険な任務に従事している以上、それなりの覚悟はしている。死ぬのは構わないが、それでも長く苦しむのは嫌だと思った。

そもそも誰が情報を彼に提供したのか。考えたくはないが、乙女は自分と共にこの地にやってきた仲間……と一応呼んでいる人間のことを思い浮かべた。

劉備の仁義を重んじる気持ちは本当であったし、彼に感化されるものは大勢いる。劉備に絆されていたとしても不思議ではない。きっと彼は、間者であった過去を捨てるのならばその人間をそのまま受け入れることができる。彼はそういう人間だから、あの仲間は手土産代わりにこちらの情報を流したのかもしれない。

乙女とて、劉備をいずれ裏切るというものは心苦しいと思っている。

いや、心苦しいという生半可なものではない。自分の心に蓋をして、乙女はここまで過ごしてきた。いずれ裏切るのだからと自分を騙して、騙し続けていた。裏切るつもりがなくとも叶わないのだということも分かっている。

それでも、乙女は劉備のことが好きだったのだ。

昨晩、劉備がわざわざ乙女の元を尋ねたのも。夢ではないかと乙女は思った。殺さなければならない相手だと分かっていても、舞い上がりそうだった。

劉備が自分を見ている。自分に話しかけている。それだけで幸せだった。愛を与えられなくとも、自分が劉備を見つめていて、自分が彼を愛しているのならば、それだけで満足だった。天にも昇る気持ちだった。

そんな甘い気持ちを持ったのがいけなかったのだ。乙女は独り、項垂れる。

愛してはいけない相手だった。全ては自分の落ち度だ。愛してしまったから、全ての計画が崩れ去ってしまった。

仲間の告げ口だったとしても、そうでなかったとしても。いずれ乙女は破滅する定めだったのだろう。それを分かっているからこそ、虚しくなった。

そうして、乙女はただこの空間に居た。この場には彼女以外の何者も居ない。見張りの兵すらも居ない。見張りの兵もいらないほど、力がないのだと見られているのかもしれなかった。事実、鎖は堅牢でびくともせずに彼女を拘束している。

「……乙女」

足音にも気づくことが出来なかった乙女は、自分の名を呼ぶ低い声に導かれ顔を上げる。

そこには紛れもなく乙女を陥れた超本人、劉備が居た。

彼の目は、恐ろしい程に冷めている。……軽蔑されている。乙女は思った。だが昨晩は違った。彼が義兄弟や大切にしている民のために振りまく笑顔を、同じように向けられていた。

その笑顔は今も思い出せる。だがその光景が音を立てて崩れ去った。……いや、目の前のこの氷のように冷たいそれに塗り替えられているような気がした。

「……お前が、私を弑することを企てていたとは。……残念だぞ」

「どこから、その情報を」

乙女の声は震えていた。初めて見る劉備のこの表情と、怒りと侮蔑が籠った声に、威圧されていたのだ。劉備のこのような姿を見るのは初めてで、これを引き起こしたのは自分である。彼のことが好きで、その思いを無理矢理閉じ込めていた乙女は胸が張り裂けそうだった。

「……あの者が私に言った」

その名は乙女の予想通りの人物だった。自分だけ劉備に靡いて「いち抜けた」とでもいうつもりだろうか。

劉備に対する思いの強さなら、自分が上回っているはずなのに。乙女はかつての仲間のことを恨んだ。自分を裏切ったことではない。元々は同じように腹に一物を抱えていたというのに、そんな過去などなかったかのように振る舞うその醜さ、劉備に取り入ろうとする下劣な部分にである。

「それで、私に毒を盛ったというわけですか」

劉備が素直に毒を盛るとは思えなかった。あの時の劉備は、本当に優しく語りかけてきた。あれが嘘だったとは思いたくない。乙女は彼に対する好意と悪意、全ての感情がぐちゃぐちゃになってしまいそうだと思う。彼のことはどうしても憎むことが出来ないのだ。きっと。

「こうでもしなければ、お前は真実を話さないだろう」

乙女を見下す劉備の目つきは冷ややかだった。背中がぞくぞくと粟立つ。彼に明確な敵意を向けられること。それはとっくの昔に予想していたはずだったというのに。

「仁義に厚いあなたがそんな卑怯な真似をするとは……思いませんでしたよ」

「お前のような裏切り者には、それがお似合いだろう。私はお前を信じていたというのに。それを壊したのはお前だ」

乙女はもう、耐えられないと思った。早く殺してほしい。劉備にこれ以上侮蔑されるのは、心が壊れそうだった。信じていたのに。その一言がまた乙女の奥深くに突き刺さるのだ。

劉備が好きだ。愛しているのだ。そんなことは考えるだけで罪である。そう思ってもなお、耐えて任務を遂行しようとしていた。それなのにこの仕打ちだ。何事もなせずにいるのが苦痛で仕方がない。乙女は劉備ではなく、己の体を封じる鎖を睨んだ。だがその思い無機物はどうということもなく彼女を縛ったままだ。

「ならば、私をどうするおつもりですか。私はあなたの言う通り、孫呉から送られた刺客。ここで私を殺そうというのですか」

劉備が直々ここまで出向いているのだ。彼に殺されるのならば、この惨めな人生にも悔いはない。例え貶されようとも、蔑まれようとも、この瞳に彼の姿を刻み込めたまま逝くことが出来るのならば。

劉備のことを愛していたと示すことが出来なくとも、良い気がするのだ。元より叶わぬ願いである。死期が早まるだけであり、それは元来気に病むことではないからだ。

……乙女がそんな淡い期待を持ってしまったことを、劉備は見抜いていたのだろうか。

「いいや。お前は呉に帰るのだ。私のことを何でも話すがいい」

「なぜですか、劉備殿……! 私は裏切り者ですよ……!」

わざわざこうして薄暗い牢に閉じ込めておいて、何を言っているのか。乙女は震える声で精一杯叫んだ。

これならば、劉備に殺される方がましだ。彼への思いを秘め続けたまま呉軍の人間として戦えというのか。とんでもない責め苦ではないか。乙女はもう、劉備のことしか考えられなくなっていた。彼に対する愛は、彼女自身を蝕んでいるのだろう。

「それが、お前にとっての罰だ。お前は私を愛しているのだろう。愛するものを殺さなければいけないというその足枷を抱えたまま生きるのだ」

劉備は、それまでの表情が嘘だったかのように、にっこりと微笑む。

それは慈愛に満ちたものではない。獣が牙を剥いているかのような笑みだ。それでも彼女は目を奪われている。

劉備は全て知っていたのだ。知っているからこそ、このような罰を彼女に与えている。だが、乙女はそれでもなお劉備のことを嫌いにはなれなかった。

「お前が私を殺す日を、楽しみにしているぞ」

うっとりとした面持ちで言い放つ劉備に、ただ乙女は見惚れていたからだ。

ああ、貴方も私のことを愛していたんですね。ならば、私はその言葉のままに従いましょう。

酷いことをされているはずなのに、乙女の心は悦んでいる。それを知ってか知らずか、劉備もまた恍惚とした笑みを浮かべた。

(20240605)
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