一歩を踏み出すのはまだ遅くない
「乙女。これをお前に」

馬超はいつもと同じ態度で乙女に何かを手渡す。機嫌を取りにきたつもりなのだろうか。そう思いながら彼女は受け取った。まじまじと小さな箱を眺め、いざ箱を開けようとすると、彼は踵を返して彼女に背を向けていた。

馬超はいつもそうだ。乙女は彼を追いかけることもせずに箱を開ける。そこには華美な髪飾りが入っていた。

なぜこんなものを寄越しにきたのだろう。乙女は首を傾げる。わけも分からぬままに彼女は自室に向かって歩き出していった。

「……変なの」

乙女は、自分だけに聞こえるような小さな声で呟いた。





乙女は、元々とある地を治めていた男の娘だった。だがその地は攻め滅ぼされ、男は死んだ。

男を殺したのは、馬超だった。慌ただしく臣下たちが動く屋敷の中で、乙女はただ一人でうずくまっていた。そんな彼女を、馬超は我がものとした。

戦の戦利品として女を攫うのは、珍しいことではない。乙女も薄々は勘づいていた。それがまだあどけないままの女であろうが同じだろう。それを勘づいていたから、一人部屋の中で怯え続けていたのだ。

敗残した男の娘。それも、まだうら若い女である。乙女は自分の運命を呪った。いざという時に備えてある程度の護身術も備えていたが、馬超が目の前に現れた時、彼女は指一本動かすことが出来なかった。

「正義のため」なのだと馬超は言った。父親を殺されたのだ、乙女はそんなことを言われても簡単に受け入れることなど不可能だと思った。思っただけで、抵抗するほどの力はない。馬超に従うほか、残されたものはなかった。

連れてこられたのは、馬超の邸宅だ。自分がどんな目に遭うのか、嫌でも想像がつく。乙女は夜が来るのが怖いと思った。そんなことを考えるのは初めてで、やはり馬超に憎しみを抱く。

だが馬超は、乙女にまっさらな一室を与えた。この惨めな女に対して、何故。乙女は馬超を見つめたが、それらしい答えは返って来なかった。

夜が更けても、馬超は乙女を招き入れることも、また彼女の部屋を訪れることもなかった。馬超が一体何を考えているのか、よく分からなかった。

「お前、家事は出来るのか」

それから数日が経って、馬超がふとそう乙女に尋ねた。この間も、馬超は手を出していない。情人ではなく家政婦が欲しかったのだろうか。どちらにせよ乙女は逆らう気もなかったから、頷いた。逆らったところで居場所はないのだから。それなりの力を持つ男の娘として、いつか嫁に行く時に備えて家事は心得ていた。だがあくまでも乙女は成熟していない少女であるから、家政婦として利用するにも不十分だろう。

乙女が家事は出来るのだと意思表示すると、馬超は満足気に笑った。それから、乙女は使用人に混じって家事を手伝うようになった。父親の仇のために働くのは屈辱的ともいえる。だが身体を動かすのは、部屋のなかでじっとしているよりもましだと思った。少しでも気を紛らわせたかったからだ。身体を動かしている時は、自らの境遇を憂うことはあまりなかった。



ある晩、それまで乙女のことを家政婦か召使いか、とにかく情人でも妾でも何でもないありふれた女の一人として見ていたらしい馬超が、彼女のことを部屋に招き入れた。

あの時はそういう気にならなかっただけで、やはり自分のことを女だと、抵抗すらしないモノとして弄ぶのだ。乙女は馬超に対する大きな嫌悪感を宿らせる。

自分に力があるのならば、その寝首を掻き切っていたというのに。父親を殺すほどの武人である馬超に適うとは思えなかった。使用人に混じって家事の一環として刃物を扱っていたとはいえ、彼女はそんな気持ちからか仇討ちの準備もしていなかった。したところで殺気が漏れてしまうだろうし、そうなれば死ぬのはきっと自分自身だ。乙女は馬超の機嫌を損なわせないようにしなければと身構えながら部屋に入る。

「乙女」

馬超は寝台に腰掛けていた。普段の彼は、いつも明るく喋る。だが乙女と話す時、それは鳴りを潜めていた。だが今の馬超は違う。普段よりもさらに大人しい。別人のような静けさだった。

乙女は恐る恐る寝台に近づく。勝手もわからずに馬超の隣に腰を下ろした。

これからされる行為が分からないほど、乙女は幼くはない。だがそれすらも分からない幼女のように乙女はどぎまぎしながら、馬超の言葉を、行動を待った。

「……乙女」

再び、馬超が乙女の名を呼んだ。

「……はい」

乙女は黙っているわけにもいかずに、返事をした。

また少し間が空く。そうして、幾許かの時が過ぎる。

気づけば乙女は、馬超の手によって押し倒されていた。馬超の顔が間近に迫る。その顔は、何かを恐れているかのように乙女には感じられた。

恐れているのは、こちらのほうだ。乙女は自分がどのような顔をしているのかよく分からなかった。単純に馬超のことを恐れて、その瞳を恐怖に濡らしているのか、恨めしい目つきで彼を睨んでいるのか。

事に及ぶのならば、早くしてほしい。苦しむのは短いほうがいい。だが馬超は一向に動こうとしない。ただ互いの顔は触れてしまいそうな距離にある。

やがて、馬超は沈んだ顔をしてその思い口を開いた。

「……やはり、俺にはできぬ」

乙女の体は寝台に縫い付けられたままであるが、馬超の顔が離れていく。

呆然としている乙女だったが、馬超はそんな彼女の隣に体を横たわらせた。

「ただ隣に居てくれるだけでいい」

それだけ言って、馬超は目を閉じた。

何故ここまでしておきながら、結局何事も成すことをしないまま眠ることが出来るのだろうか。

乙女は分からなかったが、もぞもぞと敷布を動かして馬超のように眠ろうとする。

殺した男の娘を攫い自分のものとしただけの、非道な男だと思っていた。だが、この男は人の心を持っているらしい。意外にも、お人好しというやつなのだろうか。これならば、首を掻き切ることが出来たのだろうか。

乙女には何も分からなかったが、馬超のほうからは規則正しい寝息が聞こえてくる。

脳天気なものだ。乙女もやがて襲ってくる睡魔に抗わず、流れのままに目を閉じた。




それから数年が経った。二人を取り巻く状況は変わらなかったし、あれから馬超が乙女を部屋に招き入れることは一切なかった。

最低限の会話はある。それは使用人とその主のように、簡素なものだった。

そうしていたところに、馬超は髪飾りを贈ってきたものだから、乙女からすると全くもって意味が分からなかった。

次の日も、馬超は小さな箱を乙女に手渡した。

「これを……お前に」

昨日はすぐに立ち去っていたのに。乙女は一向に去ろうとしない馬超に見つめられながら箱を開けた。

そこに入っていたのは、また昨日とは趣向の異なった髪飾りだった。

無意識にだが、こちらのほうが乙女は気に入ったのか、僅かながら口角が上がっている。

「……ありがとうございます」

乙女が礼を言うと、馬超は満足したのか足早に去っていった。

髪飾りを贈られても、乙女はここに来てから簡素な服しか着たことがない。お洒落の必要性もないから、外見には無頓着だった。これからも着飾る意味はないのだから、これ以上何かを貰っても困る。

だが、乙女のそうした考えに反して馬超は次の日も、またその次の日も贈り物を捧げ続けた。

箱を開けると、そこに入っていたのは髪飾りではなく紅だった。髪飾りが二日連続で贈られたように、紅も数日続けて贈られた。

次第に、髪飾りや紅などでは飽き足らず、豪奢な着物まで贈られるようになる。

乙女が深くは追求しなかったからなのか、馬超も詳しいことは言わなかった。両者ともに、淡々としていた。

着物の数も随分と増えてしまった。はっきり否定しなかったからだろうか。だが、気に入らないからといって馬超の元に押し付け返すのはそれが彼の逆鱗に触れてしまうのではないかと思って、乙女は出来なかった。



「今夜は、……俺の、部屋に」

乙女の心臓が、どきりと跳ねた。

今度こそ、最後まで行うつもりなのだ。乙女は自室で倒れ込みそうになった。

彼にこの一室を与えられてから数年。いい加減に覚悟を決めなければいけないのだろうか。乱世に生きる、女なのだから。女としての、覚悟を。

これまで贈られてきたものは全て、この日のためなのかもしれない。自分で選んだものを身につけた女を征服するのは、男にとっては心地よいことなのかもしれない。乙女は馬超の好みなど知らなかったから、自分の好みで自らを着飾った。

そうして今、乙女は馬超の前に立っている。馬超が息を呑んだということを、彼女ははっきりと認識した。

数年前、未遂に終わった日のように。馬超は簡単には口を開かないし、行動も起こさない。だがあの頃とは少し違った。

馬超は、乙女に見蕩れていた。あの頃よりもずっと、美しくなった乙女のことを。

馬超がやっと、口を開く。だがそこから発されたのは、乙女の思惑を大きく裏切るものだった。

「……お前を、嫁がせようと思う」

乙女は衝撃を受けて固まる。全てが予想とは違ったらしい。石のように固まったまま動けずにいる彼女に対して、馬超はただただ話し続ける。

「本当は、お前も含めて殺してしまわなければいけなかった。だがお前をあの場で一目見たとき、あの場で殺してしまうのは惜しい……いや、殺すなんて俺には無理だと思った。だから、連れ帰ってきた……お前が想像していたのと同じように、俺はお前を妻にしようと思った。……だが、それも出来ないと思った。お前が、あまりにも辛そうにしていたから……」

正義に反すると思ったのだ。馬超はそう言った。

自分もあの時、死ぬ定めだったらしい。それを乙女は今この時、初めて知った。馬超はそんなことを一言も言わなかったではないか。それならば、自分にとってこの男は、仇であると同時に命の恩人ということになる。乙女は頭がくらくらすると思った。鈍器で殴られたかのようだ。

「正義のため」とあの時馬超が言ったのは、父親を殺したことに掛かっているのではなく、本当は殺さなければならなかった乙女の命を救ったことを指していたのだと彼女が気づくのにも、さほど時間は掛からなかった。

「……仇である俺と共に過ごして、毎日が苦しかっただろう。それももう、やがて終わる。これまでの贈り物は……お前への、餞だ。お前は……あの頃よりもずっと、綺麗になった」

馬超は紛れもなく正義のひとなのだ。

そう思うと、乙女の瞳から大粒の涙が溢れ出て、止まらなくなった。

父親の仇であるはずなのに、この男と離れなければならないことが、無性に悲しくもなった。

馬超と離れるのは嫌だ。今まで、数年感過ごしていて、そんなこと一度も思わなかった。そんな自分が怖い、と乙女は思った。

「馬超……様……私……」

馬超は乙女の傍に寄り添い、涙を拭った。馬超の指が肌に触れる。

馬超は崩れ落ちそうになる乙女の腰を掴み、彼女も腕を馬超の背に回した。

焦らなくていい。馬超の声は優しかった。馬超もきっと、ずっと苦しかったのだと乙女は思う。その気持ちに報いたいと思った。それが、命を救われた恩返しになると思った。

「嫁ぐなら、あなたの、ところに、」

乙女が言い終わる前に、その唇は馬超によって防がれていた。

だが、不快ではなかった。馬超は、ずっと前からこうしたかったのだろう。それなのに口付けは壊れ物に触れるかのように優しくて、やっぱり正義のひとなんだ、と乙女は感じたのだった。

(20240523)
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