今、叶えよう
「黄忠殿が倒れたー!」
騒がしい喧騒が屋敷に響き、乙女はびくりと肩を大きく震わせた。
「倒れたなどとは、大袈裟な……」
黄忠は自らを支える臣下達を咎めながら歩くものの、その足取りは不安定で、覚束無い。その様子を乙女は臣下達の迷惑にならないように離れたところから見ていたが、それでも黄忠の様子がおかしいということははっきりと見て取れる。
「あの、黄忠さんはどうしたのですか」
こそりと近くに居た女中に乙女は尋ねた。曰く、黄忠は高熱を出してしまったらしい。熱ごときどうにでもなると言って聞く耳を持たずにいたが、勢いよく立ち上がった途端に倒れ込んでしまったから、皆大慌てで屋敷に運ぼうとしているのだった。
「心配だなあ」
乙女は女中に礼を言ってから自室に戻ったものの、黄忠のことが気がかりだった。
乙女は未来からやってきた人間だったが、縁があって黄忠の世話になっている。身寄りのない彼女にとって、黄忠はもう家族同然だった。家族の体調の心配をするのは当然である。特に黄忠は劉備に従う者達の中では年長だから、さらに悩みの種となってしまうのだ。
とはいえ、「黄忠さんももうお年ですから……」などと言えばとんでもない怒声を浴びること必至である。実際、彼女はそんな現場を今までに何度も、何度も見てきたのだった。
見舞いに行きたいのは山々だが今は典医の邪魔になるだろう。乙女はそわそわしながら、黄忠の部屋を訪れる好機を伺うことにした。
黄忠ほどの立場のある人間に対して、見舞いに来る人はやはり多い。乙女はこの時代の人間ではない以上むやみやたらに出歩くことを禁じられているので、足音や話し声から黄忠の様子を推察する。こんなに人が居ればいくら何でも疲れてしまうはずだ。熱が出ている時くらいゆっくり休むべきだと、乙女は普段のきびきびと動く黄忠を思い浮かべながら思った。
日が暮れ屋敷がやっと静かになった頃。乙女は自室を抜け出して、黄忠の元に向かうことにした。
やっぱり、眠っているのかな。恐る恐るといった足取りで乙女は黄忠の部屋に入った。
予想していた通りに、黄忠は眠っていた。
この世界に来てから乙女を拾ってくれた黄忠に、乙女は言葉では言い表せないほどの感謝の念を抱いている。
それだけではない。乙女はこの世界に来る直前、祖父を亡くしていた。大好きな祖父だった。それなのに、最期はほとんど会うことが出来なかった。小さい頃は休みの度に会っていたというのに。こんなことになるなら、もっと時間を作って会いに行けばよかった。後悔の思いは尽きることがなかったが、悲しむ間もなくここにやってきたものだった。だから、黄忠のことは亡くなった祖父のように感じていた。
本当の祖父とは違い、黄忠は顔に皺を刻みこそすれど、白い髭には未だに艶があるし、武人らしく老人とは思えないほど体は鍛え上げられている。熱程度で死ぬとは思えないだろう。
それでも、直近に祖父を亡くしたという記憶がある乙女からすれば、黄忠のこの状態というのは心の底から心配してしまうものなのだ。
「……乙女か」
眠っている所を邪魔してもいけないから、部屋に戻ろう。乙女がそう思った時、黄忠は目を薄く開いて呟いた。
「……おじいちゃん。……あ」
祖父のことを考えていたからだろうか。乙女は黄忠のことをそう呼んでしまった。慌てて口を抑える。普段ならばきっと「爺ではない!」との声が飛んでくるのだろうか、この日は違った。
「……良い。そう慌てずとも。……わざわざすまんのう」
熱のせいなのか、黄忠の声には覇気がない。
「黄忠さん……同じ屋敷にいるんだから、当たり前ですよ」
それもそうじゃ。黄忠は笑おうとするが、その声はやはり苦しそうだ。乙女は水差しから器に水を注ぎ、黄忠に手渡す。彼はごくごくと飲み干した後、何やら恥ずかしげに口を開いた。
「……もう一度、おじいちゃんと……呼んでくれんかのう」
乙女は、一瞬聞き間違いではないかと思った。だが黄忠は明らかに、そう呼んで欲しいのだと言った。
「……おじいちゃん」
乙女がもう一度呼ぶと、黄忠は嬉しそうな表情を浮かべる。
「わしは若い頃に息子を亡くしておってな、じゃから、孫の顔も見ることはないと思っていた。……今まで爺扱いされるのは気に食わぬと思っておったが……嬉しいものじゃなあ」
そう言って黄忠は笑う。水分を摂ったからか、先程よりも声の通りは良くなっている。
確証は持てないが。何となく、乙女は自分がこの世界にやって来た理由が分かったように思えた。きっと、叶えられなかったことをこの世界では叶えられるのだ。その為に遣わされたのだ。願いを秘めていたのは黄忠も同じなのだろう。再び目を閉じた黄忠の顔は幸せそうだった。
(20240527)