狂ったように、地の果てまで走れ
魏延は優れた武勇を持つ将であり、劉備に対しては非常に忠実だから、彼の軍勢の中では重用されているほうだ。
だがその異様な風貌と言動、そして人間離れした戦い方から、彼のことを良くは思わない兵も多い。
彼の部下として付き従うものはおよそ二つに分類される。彼のように獰猛で気性の荒い、粗暴ともとれるような者たちと、彼に対して畏れの感情を抱きつつも共に戦う者たちだ。
魏延の副官を務める乙女も初めは後者に属していた。意思疎通が出来ないとまではいかないが、彼の言っていることを本当に理解出来ているのか不安だった。それに魏延の獣じみた唸り声は、味方であるというのに悪寒がするほど恐ろしく感じた。あれは人ではないと彼を嫌悪する人間はそう言ったが、あながち間違いはないのではないかと彼女も思ってしまう程だった。
劉備の命令で彼と共に戦う人間として行動していたが、これが劉備の命令でなければ放棄していたかもしれない。思わずそんなことを考えてしまうのだ。
だが乙女の認識が変化したのは、些細なことがきっかけだった。
その当時、戦況は膠着状態にあり、こちらが勝っているとは判断しづらいという状況だった。次第に日が暮れ、あっという間に夜になった。
兵士の疲れは乙女も感じ取っている。だがここで隙を見せる訳にも行かず、乙女はただ不安を感じたままに右往左往していた。それまでに受けた傷が回復していることもなく、乙女は未だ血が滲む腕を見る。敵軍が夜襲を仕掛けてくるだろうと物見が告げたため、ろくに手当ても出来ないままだった。
いずれ来るだろう敵に備えるため、今何をすべきだろうか。そう乙女が考えた刹那だった。
「覚悟」
静かに、それでいて確固たる意思を感じさせる声が聞こえる。乙女が武器を構えるよりも早く剣が頭上に掲げられた。
もしかして、死ぬのか。咄嗟に乙女はそう思った。腕の痛みは武器を持つことを妨げる。必死に避けようと体を捻ったその時、大きな影が彼女の前に立ちはだかった。
「危ナイ……!」
金属音がかちあう。乙女は影に隠れるようにして体を地面に転がらせた。いつものように受身を取ることが出来ずにそこかしこが傷んだ。
「魏延殿!」
いつものように長柄双刀を構えた魏延が、乙女を襲おうとした兵を薙ぎ倒す。だが魏延も攻撃を予想していなかったためなのか、兵が倒れた後仮面を抑えて顔を俯かせた。乙女が慌てて駆け寄るが、魏延はびくともせずに立っている。心配になり覗き込むと、魏延の普段は隠された素顔が夜の暗さの中でもはっきりと見えて、乙女はいけないものを見てしまった背徳感に襲われた。
「仮面……割レタ……我……素顔……見セヌ……」
幸い素顔を見たことは魏延には気づかれていなかったようで、魏延はそう言いながら乙女の元を離れようとした。
「ありがとうございます!」
背を向けた魏延に向かって、乙女は叫んだ。魏延は小さく、唸りながら去っていく。
まさか間者が紛れ込んでいたなんて。乙女は己の失態を恥じた。それよりも、魏延の素顔を見てしまったことが彼女にとっては驚くべきことだ。自らの体の痛みも忘れて彼の仮面の下に隠された瞳を思い返した。
あれは間違いなく人間の瞳だった。劉備に尽くそうとする彼の旗下にある全ての人間と同じ瞳をしていた。仮面の下はそういったことを物語っているように乙女は思った。一度そう思えば、彼のことを獣だと揶揄する人間こそが醜い化け物のようではないかと彼女は感じた。だが、魏延の本当の心を理解するためには、ただ人間であるだけではいけないような気もした。
次に彼女が魏延に会った時、彼は乙女を助けた時に着けていたものとは異なる仮面を着けていた。
「この前は、ありがとうございました」
「ウム……」
魏延は相変わらず寡黙で、表情が乏しい。だが、乙女はもうかつてのような接しにくさは感じなかった。
「仮面、お似合いですよ」
「我……自分デ、作ッタ……」
「ご自分で? すごい、私はそういうの出来ませんから」
魏延の顔が少し綻んでいるように見えたのは、乙女の気のせいではないはずだ。乙女は上官である魏延のことを、烏滸がましいことながら少し可愛らしく思った。
それから時が過ぎた。乙女は再び戦場に立っている。だが状況はあの頃とはまた違った。間者に陣地を荒らされたあの頃とは違うのだ。乙女と、そして魏延達は迫り来る軍勢から撤退しなければならなかった。
魏延はその狂気的ともいえる戦闘への執着からなのか、逃げることを初めは拒んだ。劉備からの期待を裏切ることになると感じたからかもしれない。だがそうも言ってられるほど、戦況は有利ではなかった。
「私が殿軍を務めますから、魏延殿は早く劉備殿の元へ」
「……分カッタ」
渋々といった形で、魏延は乙女の言葉を受け入れる。馬に乗り、彼は多くの兵士と共に駆けた。この要地は諦めるしかない。だが魏延が死んでしまうよりはましだ。援軍の望みは持てなかったが。早く撤退すればするほど魏延も、そして劉備の命も救われるはずだった。
魏延が去った今、乙女に出来ることはただ一つだ。殿軍なのだから、無鉄砲に敵軍に向かって行く必要はない。だが、逃げた上でさらに敵を蹴散らす。それはまるで獣のように。そこまでしてやっと、魏延の副官として相応しい人間になれる予感が、乙女にはあったのだ。
魏延も乙女も、紛れもなく人間だ。だがただ人であるだけでは、魏延に近づけないような思いがあった。何者をも恐れない気概を胸に。決意を胸に秘めた。
乙女は後退を指揮しながらも、少数の兵を率いて敵軍に奇襲を仕掛ける。進め、と咆哮した。彼女自身も槍を構えて、大声を上げながら敵兵の首を刺す。鮮血が吹き出して、乙女の顔を濡らした。すぐに槍を引き抜き、さらに突撃する。そうして敵の戦意を削ぎ、急いで撤退する。きっとまた敵はすぐに迫ってくるだろう。また同じようにやり返すまでだ。
狩りというものは、獣というものは、こうでなくてはならないのだ。魏延の無事を祈りながら、乙女は戦い続けた。既に初めの突撃で腕に矢を掠めていたが、気にならなかった。あの夜傷んだ腕よりも出血は酷かったが、そんなものはどうでも良かった。化け物だと揶揄され恐れられても戦い抜く覚悟だった。
「どこ、ここ」
乙女の声は酷く掠れていた。あれだけ叫んでいたのだから、不思議ではなかった。目が開かない上に、体全体が痛みでまともに動かせない。左手を顔に乗せると、顔全体が包帯でぐるぐると巻かれているのが確認出来た。
「乙女……! 目が、覚めたのだな」
それは、劉備の声だった。劉備は無事だったのだ。乙女は彼の声を聞いてはっきりとあの光景を蘇らすことが出来た。
「劉備殿」
「無理に話さないほうが良い。起き上がらなくとも良い。お前は良くやってくれた。生きていてくれて、本当に良かった」
どうやら劉備の話によると、乙女は劉備の元に帰った時には瀕死の重体で、全身を赤く染め意識すら朦朧としている状態だったらしい。彼女の率いていた兵の尽力がなければ、きっと命が失われていたはずだと劉備は言った。
魏延殿のようにはいかなかったか。乙女から、乾いた笑いが漏れた。獣になることはどうやら出来なかったらしい。
命が残っているだけでありがたいことなのだと劉備は涙ぐみながら言う。医者が言うには、乙女の傷つけられた左目は視力が回復する兆しがないらしい。そのほかの怪我は治りはするものの回復には膨大な時間がかかるとのことで、乙女はとんでもないことをしてしまったと自分を恥じた。
「今はただ安静にしているのだ。回復すればお前を魏延の副官から外し、他の者の麾下に付かせる。魏延は優秀な将だが、あのような戦法はお前のような犠牲を生んでしまう」
「それは嫌です」
「なぜだ。そのような大怪我を負ったのだぞ、お前は」
喋るのにも体力を消費する。だがここで言わなければ一生の後悔が募るだろう。
「自分の……意思で、したことだからです。……魏延殿に、近づきたかったから」
劉備はしばらくの間、黙っていた。何か考え込んでいるようだったが、やがて口を開いた。
「……そうか。魏延の言った通りだったのか」
「なんと言ったのです。魏延殿は」
「なぜお前はあんな危険な戦い方をしたのかを、魏延に聞いた。魏延はこう言っていた。……自分と同じだからだと。きっと、自分もこうしていたのだと」
これで良かったのだ。乙女は包帯のしたで、微かに涙を流した。乾いていた包帯が湿る。
「……良かった」
間違っていなかったのだ。人間であり獣のようである魏延と同じになれた。怪我の代償としてはそれで十分だった。やはり、ただ人間であるというだけでは、彼には追いつくことなど出来なかったのだ。
「魏延も心配している。お前が目覚めない間もしきりに様子を見に来ていた。礼を言っておくといい」
劉備はそう言って部屋を出ていった。早く魏延に会いたいと乙女は思った。
もう回復しないという左目は、傷が深いのだろうか。体の全てが痛くて、目の痛みがどうであるとかの認識は出来なかった。何も言われなかったが、右目はどうなのだろうか。包帯は目元全体を覆っているし、それどころか呼吸に関わる場所以外はぐるぐると巻かれている。綺麗に回復するとは、この時点では到底思えなかった。
魏延は鎧も仮面も、全て自分で材料を調達しては作っているのだと、かつて乙女は本人から聞いた。
ならば、自分の傷を隠せるほどの仮面も作ってくれないだろうかと乙女はふと思った。仮面の下は人間なのだ。それくらいのわがままならば、聞いてくれるだろうか。
乙女は魏延の来訪を待ち遠しく思った。愛おしい獣の心は、魏延にも、乙女にも宿っているのだ。
(20240504)