手を繋いでいこうよ
関平には、密かに想いを抱いている女性がいた。名は乙女という。彼女は劉備の遠縁にあたる娘で、劉備からは本当の娘のように可愛がられている。関平も関羽の養子として、本当の息子のように、他の兄妹と分け隔てなく扱われているから、一種の親近感があった。
乙女が戦場に出ている姿を、関平は見たことがない。よほど大事にされているのだろう。だからといって箱入りの無知な娘であるということではなく、鍛錬場で武器を振るっていたり、部屋の中で勉学に励んでいる姿を関平はよく見ていた。彼女は努力家だった。無理をしすぎているのではないかと思ってしまうほどだ。
そんな彼女のことを関平は守りたいと思う。おこがましい願いであるのだと分かってはいるが、あまつさえ妻に迎え入れたいとも思っている。彼女は恐らく、戦場に立つことを許されていない。だからこの先、彼女が願いさえし続けていれば戦場で人を殺める未来が待っているのかもしれない。関平は、例え彼女が劉備のために武器を振るいたいのだとしても、それでも戦場に立つなんてことはしないでほしいものだと思う。家庭に入って、内側から支えてもらいたいのだ。自分が勝手に考えているだけで、そんなことを直接彼女に言っているわけではない。いや、言えるはずもない。だからこそ悩ましいのだ。出来ることならば彼女には穢れを知らぬままでいてほしい。関平はそんな身勝手なことを思ってしまう自分に嫌悪するが、本当に想っていることなのだから仕方ないだろうと自分を納得させる。
「関平殿。こんなに天気の悪い日だというのに来てくださってありがとう」
彼女が微笑む。関平は、もし女神が本当にいるのならば彼女のような美貌と心の美しさを併せ持っているのだろうと思った。それほどまでに関平は彼女に心を奪われている。だからこうして、彼女のいうように天候が優れない日もわざわざ彼女を尋ねてともにひと時を過ごしているのだ。
「礼には及ばないさ。たまたま時間が余っていたから、あなたの顔を見ようと思ったのだ。むしろ、手土産もなしに訪ねてしまって、申し訳ないくらいだ」
時間が余ったというのは詭弁で、関平は単純に彼女の顔が見たくなったから押しかけてしまったというだけだった。書を読んでいるだとか、執務に勤しんでいるのだと言われたならば残念だとしつつも大人しく帰っていたが、そうでないのだから会わない他あるまい。天気が悪いなどという理由のみで彼女と会うのを渋るなんて真似は、関平には出来なかったのだ。
関平がふと外を見れば、彼がこの屋敷に足を踏み入れた時よりもさらに雨の勢いが強くなっていた。すぐ止むようには見えないが、かといってここからさらに雨風が強くなる可能性もある。そろそろ帰るべきだろうか。関平が別れの挨拶でもしようかと考えた時、雷鳴が響いた。彼女は小さく悲鳴を上げる。
「乙女殿。大丈夫か」
関平は俯いた彼女にたいして、とっさに声を掛けた。彼女はゆっくりと顔を上げて、心配そうに顔を覗きこむ関平の目を見つめる。そうしてゆっくりと、恥ずかしそうに目を逸らした。
「……雷が、怖いのです。全くもって、情けない話です。劉備様とは違って、私はただただ、雷が怖いのです」
彼女の遠縁であり父親代わりの男、劉備にはこんな話がある。劉備と曹操が英雄について論じた時、曹操は「今の天下で英雄と呼べるのはわしとおぬしだけだ」 と言った。劉備はその言葉に対する驚きのあまり箸を落としたが、「雷が苦手なのだ」として驚いた理由を誤魔化したのだと。
乙女はその話を恐らく、劉備本人から聞いていたのだろう。咄嗟にそのような機転を効かせた劉備は、本当のところはというと雷など怖くはないはずだ。だから彼女は、己を恥じている。
「ならば、雷が止むまで、拙者が傍にいよう」
関平は、自分の予定が狂ってしまうことも躊躇わずに、彼女の傍にいることを選んだ。彼女は美しく聡明であるが、雷を怖がってしまう一人の少女なのだ。彼女に断られてしまったならば、大人しく帰ろうと思った。だが彼女は無言です頷いたので、関平はもう暫くこの屋敷にいることにした。やはり、彼女は守らなければいけない存在だ。その気持ちが関平の中でさらに大きくなった。
関平は、やはり乙女と夫婦になることが出来ればそれが一番良いと思っていた。彼女の父親代わりである劉備と関平の養父である関羽のように、どんな時でも支え合うことが出来るという確信しかなかった。
ある日、関平は執務に必要な書簡を探しに普段は使わない倉庫に向かった。関平の周りの人達もその倉庫は滅多に使うことがないらしい。なんでそんな所に行かなければならないのだとも思ったが、仕事なのだから仕方がない。
倉庫は掃除をする人がいないのか、埃っぽく床も壁も汚れていた。この中から書簡を探さなければいけないというのは骨が折れるような気がした。
いざ探そうと関平が思った時、僅かながら足音のようなものが聞こえた。普段誰も使っていないはずなのだから、おかしい。関平は気のせいだろうと自分に言い聞かせる。だがそれでも気になって、小さな足音がした方向に歩んで行った。刺客が潜んでいるかもしれないからだ。刺客を見逃せば死ぬのは自分だ。
だが、そこに居たのは関平がよく見知っている人間だった。だが様子がおかしい。関平は思わず後ずさりそうになってしまうが、どうにかして堪えた。
「乙女殿……?」
そこに居たのは乙女だった。だがその手に持っているのは紛れもなく匕首だった。そこには乾いた血がべっとりと張り付いているのが明らかで、よく見れば彼女の衣服にも黒く変色したそれが所々に飛び散っているようだった。
なぜ彼女がそんなものを持って、こんな所にいるのだ。関平は混乱した。普段の乙女とは別人のように思えたのだ。匕首など、見たことはあれど関平は触ったことすらない。あれは刺客が人を殺めるために使うものだ。
「どうして、ここに……」
関平はそう言うのが限界だった。彼女の見てはいけない所を見てしまった衝撃で、頭が揺れるようだった。自分も殺されてしまうのだろうか? いや、彼女ごときに殺されてしまうほどやわな体はしていない。それに、彼女が自分を殺す必要などないだろう。そう思った関平が動けずにいると、彼女は関平をじっと一瞥してから、やっと口を開いた。
「……関平殿には知られたくなかったのですが」
あの日雷が怖いのだと関平に言った少女とは思えないほど、その瞳は冷たいものだった。
「どういうことなのか、教えてくれないか」
彼女は関平に対して、怒るでもなんでもなく、表情を変えることなく話そうとした。関平は聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちだったが、彼女のすべてを知りたいような気もした。
「……私、本当は劉備様の遠縁でもなんでもありません。私は劉備様を殺すために命じられて、あの人の元に近づきました。でも、まだ幼かった私が適うはずがありませんから、呆気なく捕らわれました」
劉備の遠縁ですらないのだということに加えて、劉備を殺そうとしていたなどと。関平には到底信じることが出来なかった。なぜ彼女がそんなことをする必要があったのか。それを命じたのは誰なのか。関平には聞きたいことが山のように浮かんできたのだが、まだ彼女が話す素振りを見せているために、黙っていた。
「劉備様は幼い私を憐れみ、遠縁の娘なのだとして私を引き取りました。劉備様は私に対して本当の娘のように接してくださいましたけど、周りの者はそう割り切ることは出来ませんでした。だから私は、こうして罪を償うために汚れ仕事を請け負っているのです。私と同じように劉備様達を狙う人間を殺しているのです。血塗れた姿のまま帰るわけにはいきませんから、こうして人が居なくなるまでここにいるのです」
関平はつらつらと述べられた事実に打ちひしがれた。だがよくよく考えてみれば、彼女の行動には辻褄が合う。戦場に出ない代わりにこうして劉備の暗殺を目論む者達を殺しているのだ。人を殺すにはある程度の胆力がいる。知識も必要だ。だから彼女は深窓の令嬢のように可愛がられていながらも鍛錬と勉学を欠かしていなかったのだ。
関羽と血の繋がらない関平。劉備と血の繋がらない乙女。同じような境遇であるというのに、その生き様は天と地のように正反対のものだった。
「……なぜあなたがそのように苦しまなければならないのだ」
関平は迷うことなくそう言った。劉備を殺そうとしたのは彼女にそう命じた人間のせいであって、彼女のせいではない。いくら何でも、彼女にそのような重荷を背負わせるのは酷すぎるのではないかと思った。
「……私に劉備様を殺せと命じた人間は、既にこの世にいません。その上、私には何の後ろ盾もありません。ですから私が返り討ちに遭って命を落としたとしても、誰も気にする人などいないのです。そうした契約のもと、私は生かされていますから。それが劉備様に刃を向けた罪滅ぼしです」
「……それを、あの方は知っておられるのか」
劉備がそんなことを許しているなど、有り得るのだろうか。あの人は乙女のことを慈しんでいるのだ。関平は彼女を取り巻く大人たちのことを恐ろしく感じた。
「劉備様は、恐らく知りません。このことを良く知っておられるのは諸葛亮様ですから。ですが私は、このような生き方を命じられたからこそ、生きながらえているのです」
ですから、関平殿が気にする必要は何もありません。そう言う彼女は何の感情も持っていないように思った。
気にする必要などない。そう思っていても良かったのかもしれない。だが関平は、この事実を知ってもなお、彼女を想う気持ちは消えなかった。否、さらに燃え始めた。
彼女には穢れを知らぬままでいてほしい。それがどんなにひとりよがりな願いだったのかと関平は感じた。だからこそ、だ。その手は自分と同じ。穢れを知ったからなんだというのか。大切なものの為に手を汚しているのは、乙女も自分も同じだ。関平は、もっと彼女のことを知りたいと思った。やはり、一緒にいたいのだと、強く思った。
「……今まで私と親しくしてくださったことは、感謝しています。私はこのように、薄汚い女。もう人を殺すのも何とも思わなくなってしまった……関平殿には今までわがままを言ってばかりでしたが、もう私に対して無理に接する必要などありません」
「違う、乙女殿は……美しい! ……拙者は、あなたの全てが……好きだ。それは、今も変わらない。むしろ……もっと好きになった。あなたが正直に打ち明けてくれたことが、とても嬉しいのだ」
いくらこの場を見られたからといっても、全てを曝け出すのは勇気がなければ出来ないはずだ。人には誰にでも、知られたくない秘密があるはずなのだから。それなのに、彼女は全てを関平に打ち明けた。それが関平にとってはたまらなく嬉しいものだった。仮に彼女に拒絶されたとしても、良かった。ただありのままを伝えたかった。
「関平殿……汚れてしまいます」
「いいんだ。あなたの手が汚れているのならば、多くの兵を指揮して敵陣に向かう拙者の手は、もっと汚れているはずだ」
関平は、彼女の匕首を握っていないほうの手を取って握った。利き手でないその手は、汚れてなどいない。きっと彼女は、薄暗い任務を果たした人間の手を取るなど、心が汚れてしまうのだと言いたかったはずだ。だが関平は気にせずに手を繋ぐ。
「……やっぱり、拙者にはあなたしかいない。それに、拙者はあなたを支えたい。もっとわがままを言ってほしい。……結婚してくれないか」
風情などあったものではない。後先などまるで考えていない。そんな求婚だった。だが彼女は、いつものように微笑んだ。ここで偶然にも出会ってから初めて見せた彼女の笑みは、やっぱり女神のようだと関平は思う。
「……ありがとう、関平殿。……関平殿に嫌われなくて、本当に良かった。私も……あなたのことが好きだから……だからこそ、怖かった……本当のことを言うと、いけないんじゃないかって……」
彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
いくら殺しの術に長けていたのだとしても、彼女は一人の女の子なのだ。守ってあげたいと思うことくらいは、ひとりよがりではないはずだと関平は感じるのだった。
「ところで、雷が苦手だというのは……本当だったのだろうか」
すっかり日が暮れてしまったが、関平は当初の目当てだった書簡を抱えて倉庫を出た。初めに倉庫に入った時とは異なり、隣には乙女が居る。
「……あれは、本当です。雷だけは、どうしても克服できませんでした。ただ……」
「ただ?」
「あの時は、関平殿ともう少し居たいと思ったから……あんなことを言ってしまいました。本当は、我慢くらい出来るのに」
「……そうだったのか。……これからは、ずっと一緒にいよう」
関平は両手で抱えていた書簡をどうにかして片手に持ち変える。空いた手で彼女の手を再び繋いだ。
結婚しようと勢いで言ってしまったものの、関平は関羽にも劉備にもそんなことは何も伝えていない。
それでもまあ、どうにかなるだろう。関平は不思議と楽観的に感じつつ、帰路につくのだった。
(20240526)