捨てきれないもの
蜀は滅亡したのだ。圧倒的な勢力差を覆すことなど、不可能だったのだ。
命を懸けて戦い続けた姜維の意思に反して、劉禅は?艾の進軍を知り降伏した。
もう戦う必要はない。彼の降伏は、姜維にそう伝えているように乙女には感じられた。
初めから分かっていた事ではないのか。乙女はそう言いたかった。姜維にとっては残酷な答えだったとしても。
降伏した人間として惨めな生活を送ろうとも、乙女は姜維と居ることが出来ればそれで良かった。むしろ、それ以外には何も要らなかった。
だから、姜維が鍾会と組んで乱を起こし、その後彼を殺して劉禅を再び迎え入れ蜀を復興しようと画策していることは、彼女には受け入れ難いことだった。
無謀ではないかと言わざるを得ない。今までに自分達は多くの人間を疲弊させ、命を落とすまでに至らせた。二の舞になるだけではないのか。計画が上手く行くとは思えなかった。
「姜維殿」
「……ああ、すまない」
乙女が頼まれた書簡を届けに姜維の執務室を訪れると、周りに書簡と筆を置いたまま彼は船を漕いでいた。睡眠を削ってまでやらなければならないことなのだろうかと、謝る姜維を見て彼女は思った。
「本当に事を起こすのですか」
「当たり前だ」
「どうしてです」
「私は蜀を復興しなければならない。丞相の為にも」
念の為だと思って彼女はそう尋ねたが、予想していた以上の答えは返ってこない。うたた寝で無駄に消費した時間を誤魔化す為か、姜維は乙女に対して目もくれず書簡に目を通し始める。
「嫌だ」
ぼそりと、乙女は呟いた。自分でも心に留めたはずの思いだった。まさか本当に声に出してしまうとは彼女も思っていなかったのか、慌てて口元に手のひらを当てた。
「なぜだ、蜀の栄光を夢見るのが気に入らないというのか」
姜維は顔を上げて乙女を見ている。怒らせてしまっただろうかと乙女は取り乱してしまいそうになった。だが彼女の予想とは反して彼は悲壮感を露わにしていた。信じられていた人間に裏切られてしまった時のような、そんな印象を受けた。
「わ、私は……」
「何が言いたいのだ」
姜維のあのような顔を見てしまったことが相まって、咄嗟に取り繕うとしても上手く言葉を紡ぐことが出来なかった。
それどころか、瞳には大粒の涙が浮かんできた。姜維はぎょっとして、どうするべきなのか分からぬままに立ち上がった。
「伯約が……死んじゃったら、どうしようって……」
彼女がそう話せば、涙が溢れぼたぼたと机を濡らした。
彼の字を最後に呼び捨てたのは、いつの事だったか。彼の部下として一生を終える覚悟を固めたあの日、乙女は姜維と幼なじみであることを辞めた。
姜維が戦うことを辞めれば、もう一度幼なじみに戻れるかもしれない。不謹慎ながらに思ったその気持ちは、姜維には知られてはいけない。最後まで軍人として生きなければいないというのに。敬語すら崩れ、乙女はもうただの部下として振る舞うのは無理だと悟った。
涙のせいで上手く喋れず、息も満足に吸えず乙女は嗚咽する。
「乙女……私が死ぬはずがないだろう。だから、泣くな。私達は必ず勝つのだから」
姜維はそう言って乙女の涙を拭った。
本当に欲しいのは、そんな言葉じゃないのに。乙女はそう思いながらも、姜維の腕を取った。
「伯約……」
伯約の馬鹿。私の気持ちなんて、ちっとも分かってくれないんだ。乙女は的外れな男のことを、それでも嫌いになれなかった。
乙女のように、姜維のことだけを思って戦っているのではない。彼はもっと大きなものを背負っているのだ。自分の言葉など、響かないのが当たり前なのだ。
それならばせめて、愛しい彼と一緒に死ねますように。
姜維の死を目にすることだけはどうしても出来ないと思った。
勝ち目の見えない戦の先を描いて、乙女はそう思い描いた。この鈍感な男に思いの丈を伝えるのは、地獄に落ちてからでも悪くないと思った。
(20240422)