寝言は寝て言え
乙女はうつぶせになって、顔の半分を泥に濡らしたまま動けずにいた。腹を槍が掠めていたが、立ち上がろうと思えばまだ動くことができる。実際、今まではずっとそうしていた。死ぬのだ、と思うような怪我を負ったことはなかった。今もそうだ。目は冴えているし、すぐ近くを敵なのか味方なのか分からない人間が行き交っている。聴覚も鮮明で、がちゃがちゃと鎧が揺れる音、きいんと刃物がぶつかる音、地面を踏み泥がぬかるむ音、全てがはっきりと聞こえる。それは嗅覚も同様で、微かな血の匂いが、土の匂いが鼻腔を刺激する。
「乙女殿」
姜維の声がした。乙女は反射的に目を閉じる。このまま死んでいると思っていてほしいものだったがその願いは叶わない。倒れている彼女を一瞥し、返事がないことを確認すると乱雑にその体を引っ張り起こす。仰向けに転がされて、そのまま腕を取られた。乙女は仕方がなく、せっかく閉じた瞼をすぐに開いた。
「なぜ、助けるのです。私を」
乙女は腹を抑えた。怪我は日常茶飯事であるが、慣れるものではない。自然と出るうめき声を意に介さず、姜維は腕を掴んで歩き出す。命にかかわるほどの怪我ではないが、痛いものは痛い。手当すらせずに姜維は突き進む。掴まれた手を振り払うこともせずに乙女も歩く。だがそれは彼に引っ張られているから自然と足が動いているというだけで、そこに乙女自身の意思があるわけではなかった。
「あなたは、ご自分の立場を分かっておられない」
姜維は怒りを滲ませている。なぜそんなに怒る必要があるのか、乙女は本気で分からなかった。
「戦い抜くことに、個人の立場など何の意味ももたらしません」
詭弁だった。本当のことを言うと、さらに彼が激昂してしまうということは明らかだったからだ。だがそれでも姜維は納得しない。するはずもないのだろうということは乙女も既に知っておる。この男は昔よりも随分傲慢になったと思う。
「大いにあります。あなたは、皆の希望の光なのですから。本陣にいるだけで良いのです」
「あなたはいつもそう言う。いい加減聞き飽きました。私のことをそう呼ぶのはもはやあなただけですよ」
「私は本当のことを言っているだけです。それに丞相の娘を死なせたとあらば、私はあの方に合わせる顔がない」
「いつも父上のことばかり。いい加減夢から醒めたらどうですか」
姜維はそれきり何も言わなかったが、腕を握る力が強くなった。歩く速度も速くなった。
ちらりと乙女は彼の横顔を見ると、切れた頬から血が流れているのが見えた。きっと自分の怪我など気にならないくらいに、乙女を連れ戻すという事柄のほうが優先されているのだろう。
くだらない、と乙女は心の中で吐き捨てる。姜維のことも、諸葛亮のことも。
どれだけの兵が命を落としているというのか。どれだけの民が飢えて苦しんでいるというのか。これのどこが仁の世を築くための布石だというのか。無数の死体を踏み荒らした先にあるものは本当に先帝の望むものなのだろうか。
あのまま姜維に見逃してもらっていたならば。遅かれ早かれ、いつかは死ぬことができただろう。この不毛な戦いから、乙女は早く逃げ出したかった。もはや、早く死ぬために前線に出ていると言っても良かった。兵を食わすためには民の育てたものを奪うわけで。そこに正義などあるはずはないのだ。仁の志とやらを信じる人間は全くもって愚かで、時世の読めぬ馬鹿だらけだ。
「あなた、きっと酷い死に方をするわ。安らかに眠ることなんて不可能ね。その体をバラバラにされればいいのよ」
この男に敬意を払う気はもう失せてしまった。乙女は悪態をつく。この男はさぞかし魏の人間に恨まれていることだろうし、そういう結末を迎えることになっても不思議ではない。
「それはあなたも同じでしょう。丞相から受けた恩を忘れているのだから」
「なら私はあなたの手の届かないところまで駆けていって、惨たらしく魏の人たちに殺されてやるわ。そうして父上に言ってやるの。父上は人を見る目も、育てる力もなかったのだと」
諸葛亮も姜維も、理想家でありすぎる。理想を夢見ているにしては、その手は汚れに汚れ切っているが。乙女は冷めた目で未だにうごめく無数の兵を見た。
「……いっそのこと、私がその首を絞めてやろうか」
「あら、怖い。さっきまでは私を失うことはできないなんて言っていたのに。ずっとそう思っていたの」
「もう限界だ。あなたのような人間、もはや丞相の娘などではない」
「ふうん。じゃあ、その手を離して私を殺しちゃえば。私はこんな毎日が続くくらいなら、死んじゃったほうが嬉しいわ。あなたが殺されて、その死体を切り刻まれちゃう様子を見ることができないのは残念だけれど」
「あなたは首を絞めてもつらつらと妄言を吐くだろう。まずはその口を縫い付けてやらねばならないな」
妄言を吐いているのはあなたでしょう、と乙女は言いかけたが、結局口にすることはなかった。口にしたならば、それこそ骨を折られるのではないかというくらい腕をひねられてしまうにきまっている。次の戦場でこそ死ぬことができるように、戦場に出ることができるまでは体を休ませなければならない。その行為に矛盾が含まれていることも乙女は自覚しているが、これくらい姜維のそれと比べればましだと彼女は感じている。
もし姜維が死ねば蜀はたちまち北伐への意欲を失い瞬く間に降伏するかもしれない。別に降伏しても父上はその罪を咎めはしないだろうに、と乙女は思った。
(20240809)