星に触れた日
蜀は滅びた。劉禅は同じように降伏した臣下とともに洛陽に移された。

今夜は宴が開かれるらしい。司馬昭が仕切り、劉禅や彼に付き従っていた臣下もそこに同席するのだという。加えて、そこでは蜀の音楽が演奏されるのだと噂されている。

皮肉であることこの上ない。臣下は怒りを噛み締めることだろう。

乙女はそのような話を聞きながらも、さほど興味を示していない。彼女もその宴に参加することになっているが、これは自分への当てつけなのだということを知っているからだ。そうでなければ、喜んで参上するだろう。

乙女は元々、父親達と共に劉備に仕えていた。乙女は忠実だったし、劉備のことは好きだった。この人こそが仁そのもので、願わくばこの中華が彼の掲げる理想のもとに統一されればそれが一番幸せなのだと思っていた。

そう思っていたから、彼女は女であっても男と同じように鍛錬に参加していたし、戦場の最前線で指揮を執ったこともあった。劉備はそんな彼女のことを評価していたし、彼女のほうも劉備に認められるのが嬉しくてそれを原動力にして戦っていた。

その忠誠は劉備からも信頼を得ていて、劉禅が小さい頃も、良く彼の世話をしていたほどだ。学問を教えるのだと言っても、私はあくまでも武人ですよ。彼女はそう言って固辞しようとしたが、劉備が暇な時間だけでも構わないからと強く言うものだったから、乙女は渋々引き受けていた。

ただ、彼女が実際に劉禅と接していた期間はあまりにも短い。

彼女の一族を率いる乙女の父親は、ある戦いで戦死した。彼女は父親を殺した魏を憎んだが、叔父はそうではなかった。

むしろ、乙女の父親を死に追い込んだ、策がずさんだったのだ、として直接の原因となった魏ではなく、蜀を憎んだ。

一族を率いて、魏に降ったのだ。その中には乙女も含まれていた。父親のことを引き合いに出されたために、逆らうことは出来なかった。

魏こそが仇ではないか。乙女は、全てが絶望に染まったように感じた。

だが、だからといって何もせずにいるという訳にはいかない。もう、父親という後ろ盾はないからだ。魏の臣下として生きるしか道はない。少しでも疑わしい行動を取れば蜀の間者として殺されるだろうし、だからと言って蜀に戻ることなど出来ないだろう。

だから、乙女は死力を尽くすほかなかった。蜀で戦っていた頃のように、いや、蜀で戦っていた頃よりも、彼女は懸命に働いた。戦ったのだ。

劉備のことを愛していたはずなのに、蜀滅亡にも加担した。蜀と共に殉じてしまおうか。乙女はそう思ったこともあった。

だが、出来なかった。自分はこんなにも弱い人間だったのかと、唇を血が出るまで噛んだこともあった。

蜀という国はもうないはずであるのに、劉禅は生きている。それだけが救いかもしれなかったが、彼はもうなんの力も持っていない。

飼い殺しではないか。劉禅のことを想う度に、抑えていたはずの憎しみが湧き上がる。宴に参加する気にはなれなかった。それなのに、彼女が元々蜀の人間だったことを知る男達が無理やり宴に参加するように仕向けたのだった。どうにかなってしまいそうだった。



兼ねてからの噂の通りに、蜀の音楽が奏でられ、歌が歌われる。

乙女は少し離れた場所から劉禅と司馬昭を眺めながら、瞳から零れそうになる涙を必死に堪えていた。

劉禅に最後まで付き従っていた臣下は、声を殺すことなく泣いている。本当は、ああなりたかったのだ。乙女の心はずたずたになりそうだった。

そんな中で、司馬昭が傍らに座っている劉禅に話し掛けた。乙女は今の主君……司馬昭ではなく、劉禅をじっと見つめる。

成長した劉禅のことをこうして同じ部屋の中で見るのは初めてだった。戦場では、ここまで近づくことなどなかった。

あの頃のあどけない子どもだった劉禅が、随分と大きくなった。その様子を間近で見届けることが出来なかったのが、どれだけ悔しいことか。きっと彼は自分のことを覚えていない。それほどまでに過ごした時は短いものだったからだ。それでも、自分は覚えている。幼い彼の笑った顔を忘れることはない。この場にいる全ての人間は、誰一人としてそんなことを分かりやしないのだ。乙女は思わず拳を握りしめた。爪が皮膚に刺さるのも構わなかった。こうでもしないと、叫んでしまいそうだったからだ。

「劉公嗣。これを聞いて、蜀を思い出すか」

何故そんなことを聞く。蜀の歌を聞かせるというだけでも、拷問のようなものであるはずだ。少なくとも乙女にとってはそうだった。四面から楚の歌が奏でられたのを聞き絶望に面した項羽と同じような状況なのだから。

「いいえ。この場は、とても楽しい。蜀を思い出すことなどありません」

劉禅がそのようなことを言うなど。乙女は何かの間違いではないのかと感じた。

暗愚だと揶揄される彼は、矜恃すら失ってしまったのか。乙女は思わず、驚きから握っていた拳を緩める。

彼の傍に居る臣下は、さらに声を上げて泣いた。「これでは姜維殿も報われぬ」と。

だが乙女は、すぐに思い直した。姜維のことが哀れだと同意した訳でもない。

彼は暗愚などでは決してない。数少ない彼との邂逅の中でも、それは分かっていた。彼は時折、全てを見透かしているかのような物言いをした。無意識なのか意識しているのか、彼はどうもこの時代には似合わぬ思考を携えている気がするのだ。だが時代に合わぬというだけで、否定できるものではない。

彼は言った。「自分でなければいけないのか」と。劉備の跡継ぎとして、彼は勉学も武芸も身につけねばいけない立場である。彼は言った。「この世には支配者などいらないのではないか」と。

乙女は驚いたものだ。だが、彼を納得させるようなことは何も言えなかった。彼女も含め、蜀の人間は劉禅にこの中華の覇者となり人々を導いてほしいのだと思っているからだ。

劉禅は、この場で自分が何を言うべきなのかを、知らぬ顔をしていながらも知っている。

だからあのように言ったのだ。本心かどうかは関係がない。ただ司馬昭に対して、叛意などないということを示すためには、ああいう物言いをするのが一番正しいことであるのだ、きっと。

乙女は、益々腹立たしくなった。劉禅ではなく、彼に着いてきた臣下に対してである。何故彼のことを知らない。いや、知ろうとしていないのだと。彼は暗愚などではないのだ。

その怒りは司馬昭にも向けられている。彼は一体何を考えてこのような宴を開いているのか。彼も最初からこうなることを分かっていてこのような催しを開くことを決めたのだろうか。乙女は、主君である司馬昭のことは今になっても考えが読めなかった。やはり、自分にとっては劉禅のほうが大事な存在であるのだろう。乙女は己の心に抱える秘密を、自分の中だけに仕舞い続けている。これからも、その秘密は閉じられたままだろう。



夜が更けるにつれ、酔いつぶれる者、床に突っ伏して眠ってしまった者、早々に切り上げて帰宅した者など様々な様子の人間がここには居る。

乙女は静かに部屋を出た。振る舞われた酒を振る舞われるままに呑んでいたが、それでも少し酔ってしまった。夜風に当たりたくなった。

「……あなたは」

近づいていることすら、彼女は気が付かなかった。声を掛けられ振り返ると、そこには劉禅が立っていた。

「劉禅様!」

乙女は慌てて拱手する。顔を上げると劉禅は指を唇に当てていた。乙女は何故劉禅がここに居るのかが分からずにおずおずと彼を見つめるだけしか出来ない。裏切り者だと罵倒されてもおかしくないのだ。

「あなたは、今まで……よく頑張っていたようだ。私には分かる」

劉禅はそれだけを言うと、ぽかんと動けずにいる乙女に背を向けて戻って行った。

……何を言うのかと思えば。

乙女は自然と笑みを漏らしていた。劉禅が自分のことを覚えていたのかどうか。それは分からなかったが、そのようなことは些事に過ぎない。

やはり彼は人の上に立つべきお方だ。そのようなことは、ここでは口が裂けても言えるはずがない。それでも、今この場で思うだけなら構わないだろう。乙女は、劉禅がこの国の皇帝でないことを心から悔やんだ。同時に、彼が平穏に暮らせるこの世界に対して心から深謝した。

(20240529)
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